ラッセル(読み)らっせる(その他表記)Bertrand Arthur William Russell

デジタル大辞泉 「ラッセル」の意味・読み・例文・類語

ラッセル(Bertrand Russell)

[1872~1970]英国の数学者・哲学者。記号論理学を集大成、ホワイトヘッドとともに「数学原理」を著し、分析哲学における人工言語学派の始祖の一人となった。平和運動の国際的指導者としても活躍。1950年ノーベル文学賞受賞。著「数理哲学序説」「西洋哲学史」など。

ラッセル(Russell)

ニュージーランド北島北部、ノースランド半島東岸、ベイオブアイランズの町。19世紀初頭に捕鯨基地が置かれ、同国で最初にヨーロッパ人が定住した地として知られる。かつて近郊のオキアトがラッセルという名を冠する首府だったが、火災を機に同地にその名が移された。同国に現存する最古の教会であるクライスト教会をはじめ、歴史的建造物が多く残っている。

ラッセル(russell)

[名](スル)《ラッセル車の発明者の名から》
ラッセル車」の略。
登山で、深雪をかき分け、雪を踏み固めて道を作りながら進むこと。「交替でラッセルしながら登る」

ラッセル

《〈ドイツ〉Rasselgeräuschから》⇒ラッセル音

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共同通信ニュース用語解説 「ラッセル」の解説

ラッセル

積雪期の登山で、雪が多く通常の歩き方では進めない場合に、道を切り開いて進む歩き方。通常は数人で行う。先頭を歩く人は、膝で前に雪を押し付けながら進む。雪が胸まである場合は、同時にスコップで雪をかき出す。後続は雪を踏み固める。先頭の負担が大きいため、5分や10分などと時間を決めて最後尾に回り、全員で交代していく。雪に沈まないよう、登山靴にスノーシューや輪かんじきなどの歩行具を装着することも多い。

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精選版 日本国語大辞典 「ラッセル」の意味・読み・例文・類語

ラッセル

  1. [ 一 ] ( 3rd Earl Bertrand Russell サード=アール=バートランド━ ) イギリスの哲学者、思想家、文明評論家。数学者として出発し、大著「数学原理」(ホワイトヘッドとの共著)で今日の記号論理学・分析哲学の基礎を築いた。また、フェビアン主義・平和主義・世界連邦主義の立場から政治・教育・文化の各分野で広範な著作活動を展開するとともに、第二次世界大戦後は核兵器反対運動を指導。一九五〇年ノーベル文学賞を受賞。(一八七二‐一九七〇
  2. [ 二 ] ( Henry Norris Russell ヘンリー=ノリス━ ) アメリカの天文学者。スペクトルを研究、恒星の進化段階を推定し、太陽大気の組成を分析するなど天体物理学の基礎を築いた。(一八七七‐一九五七

ラッセル

  1. 〘 名詞 〙 ( ラッセル雪掻車の発明者、アメリカ人 Russell から )
  2. ラッセルしきゆきかききかんしゃ(━式雪掻機関車)」の略。
    1. [初出の実例]「ラッセルを三台備へて雪を待つ、国境の山であった」(出典:雪国(1935‐47)〈川端康成〉)
  3. ( ━する ) 登山やスキーで、雪の深い時、道を開きながら進むこと。
    1. [初出の実例]「余り抵抗の多い生地は深雪をラッセルして登る時等に不都合が多いやうである」(出典:錬成スキーと雪・冬山(1944)〈河上寿雄〉一〇)

ラッセル

  1. 〘 名詞 〙 ( [ドイツ語] Rasselgeräusch の略 ) 肺を聴診する時、通常の呼吸音に混じて聞こえる異常音。肺胞や気管支内の分泌物が空気と混じて流れる時に生じる水泡音や、気管支狭窄による乾性ラ音など多くの種類がある。ラッセル音。ラ音。
    1. [初出の実例]「咳も強いし、〈略〉ラッセルも聞えると云ふから暫く静養したいと」(出典:ブルジョア(1930)〈芹沢光治良〉二)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラッセル」の意味・わかりやすい解説

ラッセル(Bertrand Arthur William Russell)
らっせる
Bertrand Arthur William Russell
(1872―1970)

イギリスの哲学者、数学者。

生涯と著作

貴族の家系に生まれ、ビクトリア女王のもとで総理大臣を務めたジョン・ラッセルを祖父にもつ。ケンブリッジで初め数学を、ついで哲学を学んだ。一時期ヘーゲル的な観念論の立場をとったが、ムーアの先導によって極端な実在論へと転じた。この時期の代表作は『数学の原理』Principles of Mathematics(1903)である。この著作の執筆中に、のちに「ラッセルのパラドックス」とよばれることになる、集合論の背理を発見し、以後数年間この解決に専念した。その過程で、記述の理論とタイプの理論とが生まれ、それらは、ホワイトヘッドと共同で執筆された大著『数学原理』Principia Mathematica(1910~1913)の基礎となった。第一次世界大戦が始まると、平和主義者として反戦運動を展開し、1916年にはケンブリッジを追われ、1918年には6か月間入獄することにもなった。この獄中で執筆されたのが『数理哲学序説』(1919)である。1916年から1930年代の後半まで、急進思想のため定職が得られず、著述と講演で生計をたてたが、とくに、教育および性道徳についての評論は多くの論議をよんだ。1938年にアメリカに渡り、いくつかの大学で教えたが、1940年にはニューヨーク市立大学教授の任命が反対運動によって無効にされるという事件も起こった。1944年にイギリスに戻ってケンブリッジ大学に復帰した。1950年、人道主義的な理想と思想の自由を擁護する多様な著作が評価され、ノーベル文学賞を受けた。晩年はベトナム反戦運動原水爆禁止運動に尽力した。第二次世界大戦後の代表的著作としては、『西洋哲学史』(1946)、『人間の知識』(1948)、『私の哲学の発展』(1959)、『自伝』3巻(1967~1969)がある。

[飯田 隆 2015年7月21日]

思想とその影響

ラッセルの哲学的経歴は実に長く、しかも、扱った主題が多岐にわたるだけでなく、哲学的立場もさまざまな変遷をみせている。しかし、もっとも重要と評価され、その後の哲学に大きな影響を与えた仕事は、1903~1914年のほぼ10年間に発表されたもののうちにある。この期間の仕事の中心的主題は、数学の基礎づけということであった。その探究の動機は、数学の確実性はどのようにして示されるか、という問いにあり、彼の与えた解答は、数学を論理学に還元することであった。この立場は『数学の原理』ですでに明確であり、そこでは主要な数学的概念を純粋に論理的な概念に分析することが企てられている。前述のパラドックスに対して彼がとった解決策がタイプの理論であり、これが、論理学の分野におけるラッセルのもっとも独創的な貢献であると考えることができる。『数学の原理』における極端な実在論は、記述の理論を契機としてしだいに弱まってゆき、独自に存在者を措定するかわりに、すでに存在が認められている対象からの論理的構成が用いられるようになる。この手法は、『外部世界はいかにして知られうるか』(1914)では、物理的世界を感覚与件(センス・データ)から構成するという形で用いられている。

 記号論理学の手法を駆使した分析によって哲学的問題を解決しようとするラッセルの哲学のスタイルは、20世紀の哲学に比類のない影響を与えた。しかし、彼の哲学の根本にあるモチーフがデカルト以来の確実性の探究であるということは、ラッセルの哲学を評価するうえに重要なことである。

[飯田 隆 2015年7月21日]

『『バートランド・ラッセル著作集』14巻・別巻1(1959~1960・みすず書房)』『日高一輝訳『ラッセル自叙伝』3巻(1968~1973・理想社)』『市井三郎訳『西洋哲学史』3巻(1970・みすず書房)』『野田又夫訳『私の哲学の発展』(1997・みすず書房)』『碧海純一著『ラッセル』(1961/新装版・2007・勁草書房)』『A・J・エイヤー著、吉田夏彦訳『ラッセル』(1980・岩波書店)』


ラッセル(Ken Russell)
らっせる
Ken Russell
(1927―2011)

イギリスの映画監督。サウサンプトン生まれ。本名はヘンリー・ケネス・アルフレッド・ラッセルHenry Kenneth Alfred Russell。1944年パングブーン海上大学卒業後、軍隊に所属。除隊後短い期間ダンサー、ついで俳優となる。その後写真家として雑誌で働いたのち、BBCでドキュメンタリー製作に携わり、作曲家ディーリアスの晩年を描いた『ケン・ラッセル/ソング・オブ・サマー』(1968)など芸術家の伝記テレビ映画で注目され、同時に自主映画を撮りはじめる。劇場映画では、「ジャック・タチ風映画」という注文のもとに作られた処女作『フレンチ・ドレッシング』(1963)、ジェームズ・ボンドのテレビ版ハリー・パーマー・シリーズを劇場映画化した『10億ドルの頭脳』(1967)を製作したのち、D・H・ローレンスの小説を映画化した第三作『恋する女たち』(1969)で国際的評価を得る。やがて劇場映画においても芸術家の伝記が創作の柱となり、芸術家の全面的賛美ではなく、人間性と創作との関係を照らし出そうとするラッセルの作品の批評的視点によって、その後の伝記映画の流れは決定的に変えられることになった。また物語の展開に故意に欠落部分をつくったり、過去と現在あるいは事実と幻想を自在に交錯させることによって、因習的なストーリーテリングから映画を解放しようとする点もまた、ラッセル作品のもう一つの重要な特徴であった。チャイコフスキー(『恋人たちの曲 悲愴(ひそう)』(1970))、マーラー(『マーラー』(1974))、ルドルフ・バレンチノ(『バレンチノ』(1977))、シェリー(『ゴシック』(1986))、オスカー・ワイルド(『サロメ』(1988))など芸術家の生涯が、いずれも史実と幻想のきわめてあいまいな境界のなかに描かれている。超能力者として知られる実在の人物の一生を、予言される未来まで含めて描いた『超能力者 ユリ・ゲラー』(1996)にも同じ特徴が顕著にみられる。伝記映画以外では、『レインボウ』(1989)、『チャタレイ夫人の恋人』(テレビ版1993、劇場版1995)とローレンスの小説を繰り返し取り上げ、『アルタード・ステーツ 未知への挑戦』(1980)、『白蛇伝説』(1988)などのSF映画、また1920年代のイギリス・オペレッタと1930年代ハリウッドへのオマージュ『ボーイフレンド』(1971)、フーの音楽による映画史上はじめてのロック・オペラ『Tommy トミー』(1975)などのミュージカルも手がけた。

[芳野まい]

資料 監督作品一覧

フレンチ・ドレッシング French Dressing(1963)
10億ドルの頭脳 Billion Dollar Brain(1967)
恋する女たち Women in Love(1969)
恋人たちの曲 悲愴 The Music Lovers(1970)
肉体の悪魔 The Devils(1971)
ボーイフレンド The Boy Friend(1971)
狂えるメサイア Savage Messiah(1972)
マーラー Mahler(1974)
Tommy トミー Tommy(1975)
リストマニア Lisztomania(1975)
バレンチノ Valentino(1977)
アルタード・ステーツ 未知への挑戦 Altered States(1979)
アルタード・ステーツ 未知への挑戦 (1980)
クライム・オブ・パッション Crimes of Passion(1984)
ゴシック Gothic(1986)
アリア Aria(1987)
サロメ Salome's Last Dance(1988)
白蛇伝説 The Lair of the white worm(1988)
レインボウ The Rainbow(1989)
ボンデージ Whore(1991)
逆転無罪 Prisoners of Honour(1991)
チャタレイ夫人の恋人 Lady Chatterley(1993)
超能力者 ユリ・ゲラー Mindbender(1996)
カーシュ夫人の欲望 The Insatiable Mrs. Kirsh(2002)
デス・ルーム Trapped Ashes - The Girl With Golden Breasts(2006)

『Ken HankeKen Russell's Films(1984, Scarecrow Press, Metuchen)』


ラッセル(Henry Norris Russel)
らっせる
Henry Norris Russel
(1877―1957)

アメリカの天文学者。ニューヨーク州に生まれ、1897年プリンストン大学を卒業。カーネギー財団の援助でケンブリッジ大学に留学し、年周視差の写真測定法を修業、帰国後、母校の講師となり、1911年に教授兼天文台長に昇進、1947年までその任にあった。1912年食連星を観測しその光度曲線と速度曲線とを解析して、主星と伴星の質量・距離などを算出する方法を考案。またその内部構造を推定して、連星の発生と高密度化の過程について論及した。1913年恒星視差の測定から定めた絶対光度をスペクトル型と対応させてHR図を発表、これは恒星進化論の基礎資料となった。1920年太陽の吸収スペクトルの量的分析から、太陽大気中では水素量が圧倒的であることを検出し、またカルシウム、チタン、鉄など重元素線の相対強度について経験法則を展開した。国際天文学連合の委員長を務め、イギリスの王立天文協会から金賞を受けた。

[島村福太郎]


ラッセル(John Russell, 1st Earl Russell)
らっせる
John Russell, 1st Earl Russell
(1792―1878)

イギリスの政治家。ホイッグ党の名門貴族ベッドフォード公爵家に生まれ、1813年に下院議員となった。議会では人身保護法の停止に反対し、審査法廃止や議会改革を主張するなど、つねに自由主義的な姿勢を崩さなかった。ホイッグ党グレー内閣が成立すると、選挙法改正法案の起草委員の一人となり、1831年には与党の代表として法案(翌1832年成立)を下院に提出した。1835年にメルバーン内閣の内相、下院与党の指導者となって以後、歴代のホイッグ党、自由党内閣で要職につき、二度にわたって内閣を率いた(1846~1852、1865~1866)。その間、外相としてイタリアの民族運動を強く支持したこともある。1861年に伯爵。1866年の辞任後隠退し、グラッドストーンに党首の座を譲った。

[青木 康]


ラッセル(Eric Frank Russell)
らっせる
Eric Frank Russell
(1905―1978)

イギリスのSF作家。1931年以来、イギリス本国よりもアメリカの雑誌での活躍が多く、アメリカ人以上にアメリカナイズされた作風の持ち主。処女長編『超生命バイトン』を39年、『アンノウン』vnknown誌の創刊号に発表して一流作家の仲間入りをした。これは従来の地球侵略テーマを一歩進めて、人類が実は他の高等生物の家畜であったというプロットで、最初の「人類家畜テーマ」のSFである。このほかに地球侵略テーマの『金星の尖兵(せんぺい)』(1955)、SFスパイ小説『宇宙のウィリーズ』(1958)、スペース・オペラ『大いなる爆発』(1962)などの長編があり、短編にはユーモラスなものに優れたものが多い。

[厚木 淳]

『井上一夫訳『金星の尖兵』(創元推理文庫)』


ラッセル(Nikolay Konstantinovich Russel')
らっせる
Николай Константинович Руссель/Nikolay Konstantinovich Russel'
(1850―1930)

本名スジロフスキーСудзиловский/Sudzilovskiy。ロシアの革命家、医師。白ロシア地方に生まれ、ペテルブルグ大学、キエフ(キーウ)大学に学ぶ。ナロードニキ主義の立場にたってさまざまな社会運動にかかわる。1875年に国外に亡命、初めバルカン諸国の運動に足跡を残したのちハワイに渡り、土着住民のために活動。日露戦争期には日本にきてロシアの戦争捕虜に対する革命宣伝に従事、「在長崎露国革命党首領」と称された。1910年、取締りの厳しくなった日本を去りフィリピンに移住、その後一時長崎に帰るが、晩年は中国の天津(てんしん)で過ごし、同地で死去した。

[原 暉之]


ラッセル(Morgan Russell)
らっせる
Morgan Russell
(1886―1953)

アメリカ抽象絵画の先駆者。ニューヨーク生まれ。ヘンライに学び、1909年からパリでマチスに師事したのち、スタントン・マクドナルド・ライトとともにシンクロミズムsynchromismの創始者となった。ロベール・ドローネーのオルフィスムと並行した実験として13年に試作を発表しており、アメリカ人による最初の純粋色彩の試みといえる。三次元の立体的な量感を、平面に並置した色面のハーモニーによって表現しようというのがシンクロミズムで、明るい色彩をリズミカルに展開する快適な近代感覚に基づいている。

[桑原住雄]

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改訂新版 世界大百科事典 「ラッセル」の意味・わかりやすい解説

ラッセル
Bertrand Arthur William Russell
生没年:1872-1970

イギリスの哲学者,論理学者,平和運動家。ノーベル文学賞受賞者(1950)。伯爵。ケンブリッジ大学に学び,幾何学の基礎にかんする研究で母校のフェロー資格を得,のち講師となる。数学の基礎の研究を志したが,一方で新ヘーゲル主義の影響を受け,一時世界は分析不可能な全体だと考える。しかし20世紀初めころから世界を単純なものの複合体と考え,その単純なものとして感覚所与sense-datumをとるに至る。ここに至るには主語-述語形式を命題と存在の基本と考えるライプニッツの存在論の批判があずかって力があった。こうして古典的な主語-述語の論理学の代りに関係の論理学を唱導し,さらに数学者ペアノ,フレーゲの業績に触発されて新しい数理論理学を構想。これとともに数学(解析学)を論理学に還元することをはかる。その成果は《数学の諸原理》(1903)に盛られたが,その出版直前に集合論における重要なパラドックス(ラッセルのパラドックス)を発見(1901)。これはのちの論理学,数学基礎論,意味論の動向に大きな影響を及ぼすものであった。ラッセルはタイプ理論の案出によってこのパラドックスを解決し(1908),師A.N.ホワイトヘッドとともに大著《プリンキピア・マテマティカ》(1910-13)を著して数理論理学と数学を論理学に還元する論理主義の金字塔を建てた。一方,いわゆる〈記述〉理論を発表して(1905),見かけ上の主語-述語形式言明を存在言明におきかえる方策を案出,これをもとに存在の種類をできるだけへらす唯名論的な存在論を完成せんとした。それは言語分析・論理分析を哲学に役だてた模範である。ラッセルにとってこのときの基本的存在者(実体)は感覚所与ないし〈事件event〉であり,物と心,時空的位置などはこれから構成されるものであった。しかし彼はかならずしもこの一元論に徹底したわけではなく,しばしば物との二元論に傾き,知覚の因果説に立ったり,心的働きの位置づけに苦労したりもした。この方面では《哲学の諸問題》(1912)から《人間の知識》(1948)に至るまで多くの著作がある。しかしその立場は基本的にいってむしろ正統的な経験主義である。

 同様なことは倫理学や社会・政治思想についてもいえる。ラッセルはきわめて強い道徳的信念と旺盛な社会的関心の持主であった。自由と平等,反戦,反権力を主張しただけではなく,そのために闘った。男女両性の平等と自由恋愛を主張しただけではなく身をもって実践した。第1次大戦に反対してケンブリッジ大学から追放されただけではなく,投獄の憂目にもあったが,ビキニの水爆実験(1954)以来核兵器廃絶運動に身を挺し,アインシュタインとともにパグウォッシュ会議を主催し(1957年以降),イギリスにおいて〈百人委員会〉を組織したりした(1960)。またアメリカのベトナム戦争に反対してサルトルらと〈ベトナム戦犯国際法廷〉を開いてこれを糾弾した(1967)。しかしラッセルの倫理社会思想は,だいたいにおいてJ.S.ミル流の個人主義,功利主義,民主主義である。ただいっそう急進的で無神論的である。彼の特色はつねに明快な結論を追求し,得た結論はどんな障害があってもごまかさずに実行しようとしたところにあるといえよう。
執筆者:


ラッセル
Henry Norris Russell
生没年:1877-1957

アメリカの天文学者。ニューヨーク州出身。プリンストン大学に学び,1897年に〈火星による小惑星エロスの軌道長半径に対する一般摂動〉に関する研究で博士号を取得。卒業後体調をくずし静養していたが,1902年イギリスに渡り,キャベンディシュ研究所,ケンブリッジ天文台に滞在,A.R.ヒンクスと恒星視差の決定に従事した。04年に帰国,05年からプリンストン大学の教職につき,11年教授,12年から47年の退官までプリンストン天文台の台長を務めた。1921年よりウィルソン山天文台での観測にも従事,退官後はリック天文台,ハーバード天文台でも研究を行った。天体物理学の多くの分野で業績をあげたが,食変光星の光度曲線の解析,スペクトル・等級図に基づく恒星進化論,太陽スペクトルの解析による組成分析,原子スペクトルの準理論的解析などが知られている。とくに彼の発案になる恒星のスペクトル・等級図は,現在ヘルツシュプルング=ラッセル図として広く用いられ,恒星物理学の研究に不可欠なものとなっている。また,F.A.サンダースとともに考案したL-S結合は,複数の価電子をもつ原子やイオンのスペクトルを説明するのに役だっている。太陽物質の大部分が水素であることを最初に見抜いたのも彼である。
執筆者:


ラッセル
John Russell
生没年:1792-1878

イギリスの政治家。名門のホイッグ貴族,第6代ベドフォード公の三男。1813年に下院議員となり,以後,20年代から60年代にかけてホイッグ,自由党内に重きをなし,数々の自由主義的な改革を推進した。まず28年,カトリック教徒の公職就任をはばんできた審査法に反対,同法の廃止と翌29年のカトリック解放法の成立に尽力,30-32年の第1次選挙法改正に際しては,法案の作成に参画,同法を下院に上程,これを通過させた。35年からメルバーン内閣(1835-41)の内相,ついで陸相兼植民相を務め,46-52年に首相となり,47年には10時間労働法を成立させた。その後,台頭したパーマストンとともに自由党を指導し,パーマストンの死後,再度首相(1865-66)となり,第2次選挙法改正の実現を目ざした。だが同法案は成立せず,首相を辞任,以後,党の指導権をグラッドストンに譲った。貴族的なホイッグ党を市民的な自由党に脱皮させるうえで功があった。
執筆者:


ラッセル
William Lassell
生没年:1799-1880

イギリスの天文学者。初め醸造業をしていたが,独学で天文学を学び,リバプール近郊に私設天文台をたて,反射望遠鏡の製作に従事し,口径121cmに達するものをつくり,観測も行った。1846年海王星の衛星トリトン,48年ボンドG.P.Bondと同時期に土星の第7衛星ヒペリオン,51年天王星の衛星アリエル,ウンブリエルを発見。さらに600個の星雲も発見する。49年王立天文学会ゴールド・メダル,58年ローヤル・メダルを受賞する。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「ラッセル」の意味・わかりやすい解説

ラッセル

英国の論理学者,哲学者,数学者。第1次大戦中,反戦行為によってケンブリッジ大学を追われ,以後,著述と社会運動の面で活躍。論理学ではA.N.ホワイトヘッドとの共著《プリンキピア・マテマティカ》3巻(1910年―1913年)によって,記号論理学・数学基礎論の発展に貢献。哲学では科学的合理主義を標榜(ひょうぼう),ムーアとともに〈新実在論〉を説いたのち,世界は純粋に論理的に結合された感覚的所与からなるとする〈論理的原子論〉に転じた。社会運動家としては,現代平和運動に積極的に貢献し,原水爆禁止運動(パグウォッシュ会議),ベトナム戦争反対運動などの先頭に立った。1950年ノーベル文学賞。著書《哲学の諸問題》(1912年),《人間の知識》(1948年)ほか多数。
→関連項目記号論理学数学基礎論ラッセルルイスロートブラット論理主義

ラッセル

英国の自由主義政治家。名門のホイッグ貴族第6代ベッドフォード公の三男。1813年下院議員となり,以後1860年代末までホイッグ,自由党の重鎮として,審査法の廃止(1828年),カトリック解放法(1829年)をはじめとする多くの自由主義改革を推進し政界に重きをなした。グレー内閣の閣僚として1830年以降選挙法改正の法案作成,議会対策などに尽力して,その実現に寄与。1835年からメルバーン内閣の内相と陸相兼植民相。1846年穀物法廃止による保守党の分裂をうけて自由党内閣を組閣(−1852年),アバディーン連立内閣では外務大臣を務めたが,1855年クリミア戦争の処理に失敗して辞任。1859年第2次パーマストン内閣の外相となり,パーマストンの死後再度首相となったが(1865年−1866年),第2次選挙法改正につまずき,党の指導権をグラッドストンに譲って引退。哲学者のバートランド・ラッセルは孫。

ラッセル

英国の映画監督。サウサンプトン生れ。軍隊,バレエ団などをへて,写真学校で学ぶ。写真家として活動する一方,《アメリアと天使》(1957年)などの短編映画を手がけたことがきっかけとなり,BBCで作曲家ディリアスの晩年を追った《ソング・オブ・サマー》(1968年)など芸術家の伝記映画を監督。同様のテーマは,後の《マーラー》(1974年),《リストマニア》(1975年)でも繰り返された。劇場用映画の第1作は《フレンチ・ドレッシング》(1964年)。その後《恋する女たち》(1969年),《肉体の悪魔》(1971年),《トミー》(1975年),《アルタード・ステイツ》(1979年),《ゴシック》(1986年),《白蛇伝説》(1988年)などを発表。特異な映像表現とスキャンダラスな設定により異端の映画作家と称されたが,初期の《ボーイフレンド》(1971年)では抒情的な側面を見せることもあった。
→関連項目エルガージャーマンレッドグレーブ

ラッセル

米国の天文学者。1912年プリンストン大学天文台長。天体物理学を多方面に研究,なかでも星のスペクトル型と絶対等級の関係を示すヘルツシュプルング=ラッセル図の考案で知られる。また恒星や太陽の大気の化学組成,連星のスペクトルや物理的状態等も研究した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラッセル」の意味・わかりやすい解説

ラッセル
Russell, Bertrand

[生]1872.5.18. トレレック
[没]1970.2.2. ペンリンダイドライス
イギリスの哲学者,数学者,評論家。フルネーム Bertrand Arthur William Russell, 3rd Earl Russell of Kingston Russell, Viscount Amberley of Amberley and of Ardsalla。ケンブリッジ大学で哲学,数学を専攻,1916年反戦運動により罷免されるまで同大学で講師を務めた。1950年ノーベル文学賞受賞。初め数学者として出発し,数学は論理学的概念に還元できるとして『数学の諸原理』Principles of Mathematics(1903),『プリンキピア・マテマティカ』Principia Mathematica(3巻,1910~13,アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドと共著)を著し,のちの論理学に多大な影響を与えた。以後哲学の研究に入りイギリス経験論に立った認識論(マッハ主義,新実在論)を展開,ここでも数学の研究を通して得られた論理学の成果を取り入れている。社会評論家,社会運動家としても 1950年代の反スターリン運動,パグウォッシュ会議の開催,ベトナム戦争反対の「ラッセル法廷」などを通し,個人の尊厳擁護と世界平和のために貢献。主著『西洋哲学史』A History of Western Philosophy(1945)。

ラッセル
Russell, Ken

[生]1927.7.3. サウサンプトン
[没]2011.11.27.
イギリスの映画監督。フルネーム Henry Kenneth Alfred Russell。衝撃的でスキャンダラスな作風から,批評家の間でも評価が分かれる。靴屋の息子として生まれ,パングボーンの商船大学を経て空軍で 2年間にわたり電気技師の訓練を受けた。その後は演劇,バレエ,写真などさまざまな芸術活動に挑戦し,映画制作にも着手する。初期の作品がイギリス放送協会 BBCの目に留まり,ドキュメンタリー番組のディレクターの仕事を得る。BBC時代に制作した『フレンチ・ドレッシング』French Dressing(1963),『10億ドルの頭脳』Billion Dollar Brain(1967)の 2本の長編映画で注目を集めたのち,デービッド・ハーバート・ロレンスの小説を映画化した『恋する女たち』Women in Love(1969)で映画監督としての地位を確立。しかしピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの苦悩の生涯を描いた次作『恋人たちの曲/悲愴』The Music Lovers(1970)や,オルダス・L.ハクスリーの小説を題材にした『肉体の悪魔』The Devils(1971)は,あまりに衝撃的な描写により反発を招いた。ロックオペラを映画化した『Tommy/トミー』Tommy(1975)で再び興行的成功を手にした。

ラッセル
Russell, Bill

[生]1934.2.12. ルイジアナ,モンロー
アメリカ合衆国のバスケットボール選手。本名 William Felton Russell。NBA史上,最も偉大なディフェンシブセンター (守備的センター) と評された。カリフォルニア州オークランドで育ち,サンフランシスコ大学では,2季連続 (1954-55,1955-56年シーズン) でチームを全米大学体育協会 NCAA選手権優勝に導いた。 1956年メルボルン・オリンピック競技大会にアメリカ代表として出場,金メダルを獲得した。同 1956年ボストン・セルティックスに入団,1957年および 1959~66年に9度の優勝を果たした。 1966年アメリカの主要なプロスポーツチームにおける史上初の黒人監督となり,選手兼監督を務めた 1968,1969年にも優勝を達成し,1969年引退。 NBAの最優秀選手 MVPを5度受賞。 1973~77年シアトル・スーパーソニックスの監督兼ゼネラルマネージャーを務めた。バスケットボール界から引退後は,スポーツ番組のアナウンサー,コラムニスト,テレビのニュース解説者などとしても活躍した。 1975年ネイスミス記念バスケットボール殿堂入り。

ラッセル
Russell, Henry Norris

[生]1877.10.25. ニューヨーク,オイスターベイ
[没]1957.2.18. ニュージャージー,プリンストン
アメリカ合衆国の天文学者。プリンストン大学に学び,連星の相互運動を研究。イギリスのケンブリッジ大学に留学,分光連星の運動を研究。帰国後プリンストン大学教授,同天文台台長。連星の運動軌道から質量,相互距離の計算法を案出。また食変光星(→食連星),マゼラン雲(→不規則銀河)の研究にも優れた業績を残した。さらに 1913年には恒星のスペクトル型と絶対等級との関係を図表化したヘルツスプルング=ラッセル図を完成。また恒星の化学組成を実験室での研究との比較によって明らかにすることを試みた。恒星進化論や太陽系起源論でも知られ,天文学の優れた啓蒙家でもある。主著『太陽系とその起原』Solar System and Its Origin(1935)。

ラッセル
Russell, Lord William

[生]1639.9.29.
[没]1683.7.21.
イギリスの政治家。ラッセル家の一員で,初代ベッドフォード公の3男。 1660年から下院議員になり,73年頃から国王チャールズ2世の親フランス的,親カトリック的政策を批判し,新教擁護の運動を展開。 78年の教皇派陰謀事件で危機感を深め,79年の王位継承排除法案には積極的な推進派として活躍,シャフツベリー伯 (初代) とともにのちのホイッグ党の指導者になった。法案通過に失敗したのを機に,81年政界を退いたが,83年ライ・ハウス事件に連座したとして逮捕され,実際にはほとんど関係がなかったにもかかわらず処刑された。

ラッセル
Russell, John, 1st Earl Russell

[生]1792.8.18. ロンドン
[没]1878.5.28. ロンドン
イギリスの政治家。6代ベッドフォード公の第3子。ホイッグ党の名門貴族の家に生れ,1813年下院に入り,ホイッグ党改革派に所属。 30年 C.グレー内閣軍事支払総監。第1次選挙法改正法案の成立に貢献。 35~39年メルバーン内閣内相,39~41年陸相および植民相。 R.ピール内閣崩壊後,46~52年首相。在任中各種の自由主義的改革を実現し,48年にはチャーティスト運動の高揚に対処。 52~53年アバディーン連立内閣外相,53~54年無任所相,54~55年枢密院議長を経て,59~65年パーマストン内閣外相。 61年伯爵。 65年首相となったが,選挙法改正法案が不成立に終り,66年辞任した。

ラッセル
Russell, Morgan

[生]1886.1.25. ニューヨーク
[没]1953.5.29. ペンシルバニア,ブルームオール
アメリカの画家。アート・スチューデンツ・リーグで学んだのち,1906年パリに移り,同地で 40年間を過した。芸術的表現に関する科学的色彩論を追究した初めてのアメリカ人画家。 13~14年 S.マクドナルド=ライトとともに前衛運動としてのシンクロミズムを樹立し,ミュンヘン,パリ,ニューヨークで展覧会を開いた。 19年以後絶対的な抽象主義から離れて具象画に転じた。 46年帰国。主要作品『形成』 (1913~14) 。

ラッセル
Russell, Charles Taze

[生]1852.2.16. ピッツバーグ
[没]1916.10.31. テキサス,パンパ
アメリカの宗教家。国際聖書学生協会の創立者。長老派,会衆派のプロテスタントとして育ったが,既成教会の信条を捨て,1872年独自の聖書研究会を生地に組織。 77年以降キリストの不可視の再臨を唱え,キリストの世界統治が 1944年に始ると予言,終生キリストの千年統治説を説き続けた。 1879年『ものみの塔』を発刊,84年「ものみの塔聖書冊子協会 (通称エホバの証者) 」 The Watch Tower Bible and Tract Societyを創設,伝道を広く行なった。

ラッセル
Russell, George William

[生]1867.4.10. ラーガン
[没]1935.7.17. ボーンマス
アイルランドの詩人,随筆家,ジャーナリスト。筆名 Æ。イェーツらとともにアイルランド文芸復興に指導的役割を果した。また政治運動にも興味をもち,「アイルランド農業組織協会」の創設に参加,雑誌『アイリッシュ・ホームステッド』 (1906~23) ,『アイリッシュ・ステーツマン』 (23~30) を編集。主著,詩集『家路へ,途上の歌』 Homeward: Songs by the Way (1894) ,戯曲『ディーアドラ』 Deirdre (1907) ,エッセー『幻想のあかり』 The Candle of Vision (18) 。

ラッセル
Russell, Charles, Baron Russell of Killowen

[生]1832.11.10. ダウン,ニューリ
[没]1900.8.10. ロンドン
イギリスの法律家,政治家。カトリック教徒でダブリンで学び,故郷の町ニューリの法律事務所に勤めたが,1854年に独立。 59年に法廷弁護士の資格を取得,リバプールで活躍した。 72年に王室顧問弁護士となり,80~94年は自由党下院議員として,議会の内外で自由党の政策を促進し,特にアイルランドのために尽力した。 94年には貴族に列せられ,同年最高法院裁判長に就任,法律の改正に貢献した。

ラッセル
Russell, Lillian

[生]1861.12.4. アイオワ,クリントン
[没]1922.6.6. ピッツバーグ
アメリカの女優,歌手。本名 Helen Louise Leonard。 T.パスターやウェーバー=フィールズのバラエティー劇場に出演,コミック・オペラを得意とした。美貌とはなやかな雰囲気で「アメリカン・ビューティ」と称され,ショーの世界のスターとして人気を集めた。

ラッセル
Russell, John

[生]1745.3.29. ギルフォード
[没]1806.4.20. ハル
イギリスの画家。パステル画を得意とし,1772年ロイヤル・アカデミーの準会員,88年に正会員。 89年以降宮廷画家としてイギリス王をはじめ貴顕高官の肖像を数多く描いた。彼の技法論"Elements of Painting with Crayons"も名高い。

ラッセル
Russell, Odo William Leopold, 1st Baron Ampthill

[生]1829.2.20. フィレンツェ
[没]1884.8.25. ポツダム
イギリスの外交官。初代ラッセル伯爵の甥。父もプロシア駐在公使をつとめた。 1871年ドイツ帝国成立後最初のドイツ駐在大使。 77~78年のベルリン会議にイギリス全権代表の一人として参加。 81年男爵。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラッセル」の解説

ラッセル
John Russell

1792~1878

イギリスの政治家。ホイッグ党の名門に生まれ,1813年下院に入り,自由主義的改革に尽くした。28年の審査法廃止,29年のカトリック教徒解放法,さらに32年の選挙法改正法など彼の努力に負うところが大きい。35年以降閣僚を歴任し,穀物法廃止で失脚したピールのあとをうけて首相(在任1846~52,65~66)となり,チャーティスト運動に対応するとともに,公衆衛生法,工場法を成立させた。65年パーマストン死去をうけて再度組閣。いっそうの選挙法改正を試みたが,失敗して辞任。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ラッセル」の解説

ラッセル
Bertrand Arthur William Russell

1872〜1970
イギリスの数学者・哲学者・評論家
数学者として出発し,大著『数学原理』によって数理哲学および記号論理学に貢献した。フェビアン社会主義・世界連邦主義の立場から,政治・社会・文化の各方面について多くの著書を書き,鋭い現状批判を行った。第一次世界大戦に際しては非戦論を唱えて投獄され,また第二次世界大戦後は核兵器反対運動を展開し,ヴェトナム戦争犯罪裁判を行って注目を集めた。1950年にはノーベル文学賞を受賞。著書には『社会改造の原理』『西欧哲学史』などがある。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ラッセル」の解説

ラッセル Russel', Nikolay Konstantinovich

1850-1930 ロシアの革命家。
1850年12月15日生まれ。ナロードニキ主義にたち各国で活動。日露戦争中の明治38年(1905),日本に抑留されたロシア人捕虜への革命宣伝のため来日した。戦後も長崎などにすみ,大正9年日本人妻とともに中国へ移住した。1930年4月30日死去。79歳。白ロシア出身。本名はニコライ=コンスタンチノビッチ=スジロフスキー。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

デジタル大辞泉プラス 「ラッセル」の解説

ラッセル

《Russell》イギリス海軍の戦艦。ダンカン級。1901年進水、1903年就役の前弩級戦艦。名称は、英蘭戦争、大同盟戦争などで活躍したイギリスの軍人・貴族、エドワード・ラッセルの名にちなむ。1916年、第一次世界大戦中の「ガリポリの戦い」から帰還したマルタの港でドイツ軍の機雷に触れ沈没。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のラッセルの言及

【感覚】より

…〈感覚与件sense‐datum〉の語はアメリカの哲学者J.ロイスに由来し,いっさいの解釈や判断を排した瞬時的な直接経験を意味する。代表的な論者にはB.A.W.ラッセルおよびG.E.ムーアがおり,そのテーゼは事物に関する命題はすべて感覚与件に関する命題に還元可能である,と要約される。マッハに始まるこれら現代経験論の思想は,要素心理学や連合心理学の知見,およびそれらの基礎にある恒常仮定(刺激と感覚との間の1対1対応を主張する)とも合致するため,19世紀後半から20世紀初頭にかけて大きな影響力をもった。…

【コギト】より

…われわれは自分自身を反省するまでもなく,いつもすでにおのれを非対象的,非定立的に意識しており,したがって人間のどんな在り方も自由な選択の結果にほかならないというわけであった。(2)しかし,われわれがつねに自己意識をもっているかどうかは問題であって,現代でも経験主義的な立場では,コギトを単なる〈意識内容(コギタティオ)〉の告知とみなし,コギトをむしろIt thinks within me(ラッセル)と言い換えようとする傾向がある。(3)それにしても,経験の統一ということを考えれば,われわれもカントのように,〈すべての表象には‘われ思う’が伴いえなければならない〉と言うことはできる。…

【集合論】より

…定理〈どんな集合Mについても,Mの部分集合全体の集合はMより大きい濃度をもつ〉。また,〈すべての集合の集合〉MM自身も含むという変なことになるので,B.A.ラッセルは1905年に,〈自身を元としては含まない集合全部の集合〉Nを考え,次のような矛盾を指摘した。NNならNの定義によって,NN。…

【数学基礎論】より

…ところが,19世紀末G.カントルによって創設された集合論はまもなく逆理を生じた(パラドックス)。カントル自身が発見した逆理(1899),ブラリ=フォルティの逆理(1897)やラッセルの逆理(1903)がそれである。集合論におけるすこぶる有効な用法ときわめて類似したしかたによって容易にこれらの逆理が導かれるのみならず,同時期に提出されたリシャールの逆理(1905)〈25字以内の字数によっては定義されない最小の自然数は,現にこの文章によって25字で定義されている〉とともに,ほとんど形式論理の範囲内で現れることから数学は重大な危機に陥った。…

【タイプ理論】より

B.A.W.ラッセルが1901年に発見したいわゆる〈ラッセルのパラドックス〉を解決しようとして提出した理論(1908)と,その単純化,制限の解除,および変形の総称。階型理論ともいう。…

【パグウォッシュ会議】より

…1955年7月に出された〈ラッセル=アインシュタイン宣言〉の呼びかけを具体化するものとして,第1回の会議がカナダ,ノバ・スコシア州のパグウォッシュで開かれた。以来,年1~2回の割合で世界各地で開かれてきているが,最初の開催地にちなんでパグウォッシュ会議と呼ばれている。…

【パラドックス】より

…集合論のパラドックスは最大の順序数ないし基数を考えるときにブラリ・フォルティおよびG.カントルのパラドックスとして現れた。B.A.W.ラッセルは,すべての集合を自分自身を元とする第1種の集合と自分自身を元としない第2種の集合との2種類に分けるとき,第2種の集合の全体(これも一つの集合である)をとるとパラドックスが導かれることを見いだした(1901)。つまりこの集合を第1種としても第2種としてもその反対が帰結されるのである。…

【プリンキピア・マテマティカ】より

A.N.ホワイトヘッドB.A.W.ラッセルの共著。3巻。…

【分析哲学】より

…言語の分析にかぎらず広く言語の考察から哲学的問題に迫ろうとする哲学をすべて〈分析哲学〉と呼ぶこともあるが,これは不正確である。 言語分析は20世紀の初頭,B.A.W.ラッセルG.E.ムーアによって始められたといってよい。彼らは当時イギリスにおいて盛んであった,世界は分析しがたい一つの総体だとするヘーゲル的思考に反対して,世界は複合的なものであり,要素に分解しうるとし,この考えを実体間の外在的関係の理論によって論理学的,形而上学的に基礎付けた。…

【ベトナム反戦運動】より

… 1965年2月の北爆開始以降の戦争のエスカレーションは,反戦運動を一挙に拡大させた。世界各地で数万,数十万単位の抗議集会がもたれ,またB.ラッセルらの呼びかけによる〈アメリカの戦争犯罪を裁く国際法廷〉(1967年5月,ストックホルムで開催。通称ラッセル法廷)や,たびたびの国際反戦統一行動デー(たとえば1967年10月21日)など,国際的連携による活動も盛んだった。…

【巨星】より

…さらにK型かM型の巨星になると,その半径は太陽半径の数十倍から数百倍に達する。このような星の存在は20世紀初頭にE.ヘルツシュプルングやH.N.ラッセルにより明らかにされた。すなわち当時集積しつつあった恒星視差のデータをもとに星の絶対等級を推定することが可能となり,その結果とくにG,K,M型の星ではスペクトル型が同じでも絶対等級の明るい星と暗い星の2種類があることが明らかにされた。…

※「ラッセル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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