カロ(読み)かろ(その他表記)Anthony Caro

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カロ」の意味・わかりやすい解説

カロ(Anthony Caro)
かろ
Anthony Caro
(1924―2013)

イギリスの彫刻家。サリー州ニューマルデンに生まれる。ケンブリッジで工学を専攻し、1947年から1952年までロイヤル・アカデミー・スクールズで彫刻を学ぶ。1951年からヘンリー・ムーアの助手を2年間務め、1953年からセント・マーチン美術学校で教える。1959年に渡米し、デイビッド・スミスの構成的な彫刻に接する。帰国後、作風は一変し、鉄板や鉄骨を彩色した構成的な抽象彫刻を制作し始め、1960年代の新動向を代表する作家となる。1970年代には、『ツンドラ』(1975)にみられるような、錆(さ)びた鉄板によるモニュメンタルな作品を制作した。

 1980年代から1990年代にかけて、スカルピテクチュア(建築彫刻)とよばれる作品のシリーズを生み出す。代表作に『発見の塔』(1991、東京都現代美術館蔵)がある。1995年、東京都現代美術館が開館記念展Ⅱとして、「アンソニー・カロ展」を開催し、1950年代から1990年代にかけてのカロの代表作約100点を展示した。この展覧会では、建築家安藤忠雄が会場構成を担当し、石を敷き詰めたデザインが話題になった。

[斉藤泰嘉]

『中原佑介著『現代彫刻』(1987・美術出版社)』『大島清次・酒井忠康・斉藤泰嘉著、安斎重男写真『アンソニー・カロ展図録』(1995・東京都現代美術館)』『酒井忠康著『彫刻の絆――現代彫刻の世界』(1997・小沢書店)』


カロ(Heinrich Caro)
かろ
Heinrich Caro
(1834―1910)

ドイツの有機化学者、化学工業家。ポーランドポズナニ生まれ。初め染色工としての教育を受け、のちに化学を学んだ。イギリスへ留学してA・W・von・ホフマンの弟子たちとともに合成染料の研究を進めた。1868年、バーディシェ・アニリン・ウント・ソーダ・ファブリク社(現、BASF)へ研究主任として入社、グレーベ、K・T・リーベルマンとともに赤色系合成染料アリザリンの工業的合成法を完成し、アカネからの天然染料を駆逐するとともに、コールタール中のアントラセンの利用に成功した。また、1898年に過硫酸H2SO5を発見し、これはカロ酸と名づけられた。

[加藤邦興]


カロ(Jacques Callot)
かろ
Jacques Callot
(1592?―1635)

フランス銅版画家。ナンシーに生まれる。少年時代にイタリアに行き、ローマでフィリップ・トマッサンPhilippe Thomassin(1556―1649)に彫版の技術を学び、1612年から9年間フィレンツェに滞在、この間にハード・グラウンドエッチングの技法を開発し、『カプリス』『インプルネタ』などの連作を制作した。1621年故郷に帰り、1628~1631年の間しばしばパリに滞在。その後ナンシーに定住するが、ルイ13世によるロレーヌ地方への攻囲、ペストの流行を体験、これが連作『戦争の惨禍』(1633)として結実する。エングレービングとエッチングを併用した彼の技法は広くヨーロッパに普及したが、単に技法家であるだけでなく、乞食(こじき)、芸人、泥棒などを見つめた鋭い視線の点でも、マニエリスム期の特筆すべき画家であった。版画全作品は1400点に上るとされるが、完全なコレクションは残っていない。

中山公男


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普及版 字通 「カロ」の読み・字形・画数・意味

】かろ

あし。唐・温庭〔病中書懐、友人に呈す〕詩 魚、り 愁鷺、に睡る

字通「」の項目を見る

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改訂新版 世界大百科事典 「カロ」の意味・わかりやすい解説

カロ
Jacques Callot
生没年:1592-1635

フランスの版画家,素描家。ナンシーに生まれ,早くからイタリアに出る。1612年より9年間フィレンツェ,ローマで,特にカンタガリーナとテンペスタに師事し,素描と銅版画を学ぶ。14年からコジモ・デ・メディチ2世に仕え,宮廷の祝祭などを銅版画で記録。フィレンツェ時代には,固い防食剤を用いエングレービングに似せた効果をもつ彼独自のエッチング技法を考案した。画風は柔軟で動勢のある筆致により,後期マニエリスム的優美さとグロテスク趣味を融合した幻想的で才気あふれる表現を確立。イタリア,北方の画家の影響のほか,演劇,バレエ,祝祭の芸術に負うところが大きい。21年ナンシー帰還後は,三十年戦争と疫病の中で《戦争の惨禍》《ブレダの攻囲》などを制作。冷静な観察力に基づいた写実的で合理的な傾向が強まる。おもに祝祭典,宗教,風俗,風景を題材とした1428点の版画を残し,その表現は後世のデラ・ベラやA.ボスに影響を与えた。
執筆者:


カロ
Heinrich Caro
生没年:1834-1910

タール染料工業発展に貢献したドイツの有機化学者・技術者。ポーランド生れ。染色師としての職業訓練を受けるかたわら,ベルリン大学で化学の講義を聴く。1859年イギリスに渡り,ロバーツ・デル社に入り,W.H.パーキンが開発したふじ色染料モーブのより効果的な製造法を見いだし,共同経営者となる。66年ドイツにもどり,68年BASF(バスフ)社に入社,多くの業績を重ねた。K.グレーベとK.T.リーバーマンにより合成されたアリザリンの工業化に成功し,アゾ染料ならびにエオシン,ジヒドロインドール,メチレンブルーなど各種色素を開発した。ペルオキソ一硫酸(カロ酸)の発見者である。特許法の確立にも力を尽くした。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カロ」の意味・わかりやすい解説

カロ
Caro, Sir Anthony

[生]1924.3.8. ロンドン
[没]2013.10.23.
イギリスの彫刻家。フルネーム Sir Anthony Alfred Caro。13歳の夏休みに彫刻家の見習いを経験し,その後ケンブリッジ大学クライスツ・カレッジで機械工学を学ぶ。第2次世界大戦後,リージェント・ストリート・ポリテクニックを経て 1947~52年ロイヤル・アカデミー・スクールで彫刻を学び,1951~53年ヘンリー・ムーアの助手を務めた。1950年代には具象的な人体像を制作していたが,1959年アメリカ合衆国に渡り,彫刻家デービッド・スミスの知遇を得,現代美術に示唆された。帰国後の 1960年に鉄板や鉄材を組み合わせて彩色した抽象彫刻を制作(→抽象美術),台座を排して作品を地面に直接置き,戦後のイギリスの彫刻界に新時代を画した。1970年代以降は彩色しないさびた鉄板の作品も手がけ,1990年代に入ってからは陶彫も制作した。代表作『ある早朝』(1962)など。1987年ナイトに叙された。1992年高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した。

カロ
Callot, Jacques

[生]1592/1593. ナンシー
[没]1635.3.24. ナンシー
フランスの銅版画家,風刺画家。 11歳でボヘミアンの群れに加わり,1608年ローマで版画を学ぶ。 12年頃フィレンツェに移り,メディチ家の庇護を受けるようになって銅版画に専心し,独自の技法を編出す。 21年ロレーヌ公の要請でナンシーに帰る。その後は女王の招きでフランドルへ行き,『ブレダの包囲』を制作,宰相リシュリューに重んじられパリに滞在するなどして,生涯に 1500点に及ぶ銅版画を残す。その内容も風俗,風景,戦争,宗教と幅広い。特に風刺画家としては重要な存在。代表作『インプルネタの歳の市』 (1620) ,『戦争の悲惨』 (32) 。

カロ
Caro, Heinrich

[生]1834.2.13. ポズナン
[没]1910.9.11. ドレスデン
ドイツの有機化学者。実業学校に通うかたわらベルリン大学で化学の講義を聞いた。 1855年染料会社に入社し,最新の染料技術を学ぶためイギリスに出かけた (1857) 。 66年帰国後は,さらにハイデルベルク大学の R.ブンゼンのもとで基礎的な研究にたずさわった。 68年からは染料会社の所長をつとめた。単独でまた協同で多くの染料の開発,工業化に努め,98年のカロ酸 H2SO5 の発見でも知られている。

カロ
Qaro Caro; Karo, Joseph ben Ephraim

[生]1488. トレド?
[没]1575.3.24. サファド
ユダヤ教の法典『シュルハン・アルフ』の編纂者。この法典は 14~15世紀に,儀礼,法制上の実践の混乱を収拾するために編まれ,今日にいたるまでユダヤ世界の最も権威ある法典とされている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

化学辞典 第2版 「カロ」の解説

カロ
カロ
Caro, Heinrich

ドイツの有機化学者.成功したユダヤ系の穀物販売人の息子.かれは実業学校で染料に関する教育と訓練を受けていた.1852~1855年ベルリン大学で化学を学び,その後,合成染料工業界で生涯貢献した.最初,ミューンハイムの綿プリント会社に色着け師として雇われた.1857年W.H. Perkin(パーキン)がアニリンからモーブを合成した年,最新の染料工業技術を学ぶためにイギリス,マンチェスターに渡る.合成染料の生産に携わり,工業的有機化学者として有名になっていった.1866年に帰国して,BASF社に招かれ,1868年研究主任になった.1869年C. Graebe(グレーベ),C.T. Liebermann(リーベルマン)とともにアリザリンの合成に成功した.メチレンブルーなど多くの色素を開発し,1889年に勇退後も自宅の実験室で研究を続け,ドイツ染料と化学に影響を与えた.

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

百科事典マイペディア 「カロ」の意味・わかりやすい解説

カロ

英国の彫刻家。ロンドン生れ。1951年からヘンリー・ムーアの助手を務め,人体彫刻を制作していたが,1959年米国に旅行し,ケネス・ノーランドの絵画やデビッド・スミス〔1906-1965〕の構成的彫刻に接し,当時の新しい抽象の動向に大きな影響を受けた。帰国後,スクラップ置き場から工業用の梁材を集め溶接して,明るい色彩を施す抽象彫刻を制作し始めた。1960年の《正午》(ニューヨーク近代美術館蔵)以降,プライマリー・ストラクチャーズと呼ばれる傾向を代表する,開放的な空間構成作品を発表している。

カロ

フランスの版画家。ナンシー生れ。1608年ローマに行き,マニエリスムの影響を受ける。1621年故郷に帰り,すぐれたデッサン,劇的な構図,鋭い風刺で社会生活を活写。1248点の銅版作品のうち,三十年戦争を描いた《戦争の惨禍》(1633年)はとくに有名。
→関連項目カリカチュア

カロ

ドイツの化学技術者。タール染料工業の基礎をつくった一人。1859年から英国でロバーツ・デル社経営のかたわら染料の研究を行い,1868年ドイツのバスフ(BASF)社に入社,のち重役となる。アリザリンの工業的製造,カロ酸(ペルオキソ一硫酸)の発見のほか,ドイツ特許法の確立にも貢献した。

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世界大百科事典(旧版)内のカロの言及

【盗賊】より

…イタリア戦争,宗教戦争,三十年戦争などの戦乱や経済変動のあおりをくって,社会の周縁部に没落していった乞食,浮浪者,無宿者による窃盗の事例が増大してくるのである。17世紀フランスの版画家ジャック・カロが描いた多くの作品に盗賊の群れのモティーフが使われたこともその証拠といえる。18世紀に入ると,大都市では押込み強盗,家僕の窃盗,すりなどの盗みの行為が圧倒的に多くなり,例えば革命前夜のパリでは犯罪件数の90%に近い割合を示して,現代社会にきわめて類似した犯罪構造をはらんでいた。…

【ベランジュ】より

…明暗を駆使した巧みなエッチング技法,独特の歪曲する形態表現を用い,宗教的主題を扱いながらも幻想的な画像を創出している。代表作に《墓場の三人のマリア》《ピエタ》などのほか,J.カロの主題を踏襲した《乞食》など下層民衆を描いた風俗画がある。【小池 寿子】。…

※「カロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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