安藤忠雄(読み)あんどうただお

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

安藤忠雄
あんどうただお

[生]1941.9.13. 大阪
建築家。大阪府立城東工業高校卒業。高校時代にプロボクサーの資格を得,海外試合を経験した経歴をもつ。独学で建築を学び,1969年安藤忠雄建築研究所を設立。最初の作品,大阪,住吉の長屋をコンクリート打放しで1個の箱形住宅に改築した住吉の長屋 (1976) で日本建築学会賞を受賞。自然と建築の調和を追求する作風で知られる。 91年ニューヨーク近代美術館 MOMAで日本人初の個展が開催された。代表作に六甲の集合住宅 (83) ,TIMES (83~93) ,水の教会 (1988) ,光の教会 (89) ,セビリア万国博覧会日本政府館 (92) ,サントリーミュージアム天保山 (94) ,ユネスコ瞑想の空間 (95) などがある。フィンランド建築協会のアルバ・アールト賞 (1985) ,フランス建築アカデミー賞 (89) ,プリツカー建築賞 (95) ほか受賞多数。エール大学,ハーバード大学の客員教授を歴任。 97年,東京大学教授に就任した。

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デジタル大辞泉の解説

あんどう‐ただお〔‐ただを〕【安藤忠雄】

[1941~ ]建築家。大阪の生まれ。「住吉(すみよし)の長屋」で注目を集め日本建築学会賞を受賞。コンクリート打ち放しを多用した作風で知られ、茨木春日丘(いばらきかすがおか)教会(光の教会)、表参道ヒルズなどを設計した。平成7年(1995)プリツカー賞受賞。平成22年(2010)文化勲章受章。

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百科事典マイペディアの解説

安藤忠雄【あんどうただお】

建築家。大阪生れ。府立城東工業学校機械科卒。インテリアの仕事やヨーロッパの建築を見聞しながら,独学で建築を学ぶ。1969年安藤忠雄建築研究所設立。1976年,間口2間・奥行8間の長屋の1戸を改築した住宅〈住吉の長屋〉(大阪)を発表,打ち放しのコンクリートによる禁欲的なデザインと,計算された光の効果により評価を得る。以後ポスト・モダニズムの風潮とは一線を画した作品を数多く手がけ,世界的に知られる存在となる。代表作に〈ガラスブロックの家〉(大阪,1978年),〈六甲の集合住宅〉(神戸,1983年,1993年),〈TIME'S〉(京都,1984年,1992年),〈水の教会〉(北海道,1988年)などがある。1989年大阪中之島の改造構想を独自に提案,1992年のセビリア万国博覧会日本館では大規模な木造建築を手がけた。その後の作品に〈近つ飛鳥博物館〉(大阪,1994年),〈サントリーミュージアム・天保山〉(大阪,1994年)などがある。2010年文化勲章受章
→関連項目国際子ども図書館サントリー美術館直島コンテンポラリーアートミュージアム

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

安藤忠雄 あんどう-ただお

1941- 昭和後期-平成時代の建築家。
昭和16年9月13日生まれ。インテリアの仕事のかたわら建築を独学。昭和44年安藤忠雄建築研究所をひらく。コンクリート打ち放し工法を追求。55年「住吉の長屋」で建築学会賞。58年六甲の集合住宅で日本文化デザイン賞。平成5年芸術院賞。7年プリッカー賞。9年東大教授。15年文化功労者。17年国際建築家連合(UIA)ゴールドメダルを受賞。22年文化勲章。25年フランス芸術文化勲章コマンドールを受章。大阪府出身。城東工卒。作品はほかに芦屋の小篠邸,水の教会など。著作に「安藤忠雄の夢構想」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

安藤忠雄
あんどうただお
(1941― )

建築家。大阪府生まれ。工業高校を卒業後、プロボクサーを経て独学で建築を学ぶ。1960年代に日本一周の旅行と二度のヨーロッパへの旅を行い、さまざまな建築を体験する。1969年(昭和44)安藤忠雄建築研究所を設立。1976年、住吉の長屋を発表し、注目を浴びる。この住宅の特徴は、外部に対して閉ざされた箱を思わせるコンクリート打放しの壁や、部屋を移動する際に屋根のない中庭を通らないといけない平面の構成である。基本的なデザインは、ル・コルビュジエやルイス・カーンLouis I. Kahn(1901―1974)に代表される良質なモダニズムを継承したものといえよう。一方、この住宅では雨の日には傘をさしてトイレに行かなければならないことが大きな話題になった。つまり、近代的な素材に明快な幾何学的秩序を与えながら、必ずしも機能的とはいえない動線は、近代を乗り越える試みとして考えられる。
 1980年代には、傾斜した地形を生かした六甲(ろっこう)の集合住宅(1期:1983、2期:1993、3期:1999)や川と連続させたタイムズ(1期:1984、2期:1991)など、自然と建築を巧みに調和させた作品によって、建築界において不動の地位を確立する。当初の仕事は、住宅と商業施設を中心にしていたが、1980年代末から兵庫県立こどもの館(1989)や姫路文学館(1991)などの公共施設を手がけるようになった。その結果、作品のスケールが大きくなり、小規模の住宅で行っていたデザインがバロック的に展開する。大胆な開口、劇的な光と水の効果、大階段、地下に掘り下げられた空間などが洗練された。そして壮大な規模の淡路(あわじ)夢舞台(1999)は、安藤の建築手法の集大成として位置づけられる。
 一般的にコンクリートの壁の建築家として理解されているが、1990年代から木を積極的に使う建築も始めたことは注目される。最初の本格的な木造は、セビリア万博の日本館(1992)である。これは間口60メートル、奥行き40メートル、高さ25メートルの世界最大級の木造となった。集成材を使いながら、日本の伝統建築がもつ木組の構成美を感じさせる。すなわち、規格化された材料により合理的なプレハブ化を行い、日本の伝統を現代の技術で再構成している。その後、豪快な木の殿堂(1994)や繊細な南岳山光明寺(2000)などを実現し、木によるさまざまな表現の可能性を追求している。
 世界的な建築家として認知されるが、海外から評価される場合、装飾を排した禁欲的なミニマリズムや自然との関係から、禅の庭や茶室など、日本の伝統に言及されることも多い。1990年代後半からは、フォートワース現代美術館やピノー現代美術館などのコンペに勝ち、海外のプロジェクトが増え、実作も手がけている。また、エール大学、コロンビア大学、ハーバード大学にて客員教授をつとめ、1997年(平成9)には東京大学教授となった(2003年退官)。兵庫県立美術館(2002)は、大きく張りだした庇(ひさし)とガラスに包まれたコンクリートの箱をもち、新しいデザインの方向性を示す作品となった。
 建築界にとどまらず、社会的な影響力をもつ数少ない建築家である。メディアを通じて積極的に発言も行い、1995年の阪神・淡路大震災の後、緑を増やすグリーンネットワークの植樹運動を開始し、その輪を広げている。ただ建物を設計するのではなく、社会改良家としての側面もみせている。また2001年9月のアメリカ同時多発テロによって破壊された世界貿易センタービルの跡地についてはビルを再建せず、球体の一部から構成されるランドスケープをつくり、記憶を継承するモニュメントを提案した。日本建築学会賞、日本芸術院賞、吉田五十八(いそや)賞、プリツカー賞、イギリス王立建築家協会ゴールドメダル、アルバ・アールト賞などを受賞。アメリカ建築家協会名誉会員、イギリス王立建築家協会名誉会員、フランス建築アカデミー名誉会員。2003年(平成15)文化功労者。そのほかのおもな建築作品に光の教会(1989)、大阪府立近(ちか)つ飛鳥博物館(1994)、直島コンテンポラリーアートミュージアム(1995)など。著書に『安藤忠雄の都市彷徨』(1992)、『建築を語る』(1999)、『連戦連敗』(2001)、『建築に夢を見た』(2002)などがある。[五十嵐太郎]
『『安藤忠雄の都市彷徨』(1992・マガジンハウス) ▽『建築を語る』(1999・東京大学出版会) ▽『安藤忠雄 淡路夢舞台』(2000・新建築社) ▽『連戦連敗』(2001・東京大学出版会) ▽『安藤忠雄の美術館・博物館』(2001・美術出版社) ▽『建築に夢を見た』(2002・日本放送出版協会) ▽『GAアーキテクトTADAO ANDO』Vol.1、2、3(1993、1997、2000・エーディーエー・エディタ・トーキョー) ▽Francesco Dal Co ed. Tadao Ando Complete Works(1994, Phaidon, Oxford)』

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