ガロロマン時代(読み)ガロロマンじだい(英語表記)Gallo-Roman period

改訂新版 世界大百科事典 「ガロロマン時代」の意味・わかりやすい解説

ガロ・ロマン時代 (ガロロマンじだい)
Gallo-Roman period

前3世紀末から後5世紀後半までのローマによるガリア支配の時期を指す。

第2次ポエニ戦争時(前218-前201),都市国家ローマはギリシア人の植民市マッサリア(マルセイユ)の忠誠を足がかりに,地中海沿岸地域を支配し,その後,アルウェルニとアロブロゲス両族間の抗争を利用して支配権を伸ばし,前118年ナルボンヌ地域を属州とした。前105年キンブリとテウトニ両族の東南ガリアへの進出はナルボンヌのローマ支配を揺るがしたが,前102年マッサリアの東エックスにおけるマリウス戦勝がガリアの平和を回復した。しかしガリア属州のローマ人口の増大と過酷な植民地経営とがガリア人を圧迫してその反乱を招き,前80年のポンペイウス,前61年のピソおよび前58-前51年のカエサルのガリア遠征を要した。カエサルはスイスからガリア侵入をうかがうヘルウェティイ族とアリオウィストゥスAriovistus指揮下のゲルマン族に戦勝して中部ガリアを制したが,反ローマの旗下に全ガリアの諸部族を結集したウェルキンゲトリクス反抗に遭い,前52年ころこれを征した。カエサル支配下のガリアでは,彼はポンペイウスとの戦いを遂行するため,ガリア人に広範な自治権を創設し,またナルボンヌとアレラテ(アルル)とには老兵による政治的・軍事的植民をはかり,これらを契機にガリアのローマ化は急速に進展した。このカエサル時代がガロ・ロマン時代の最初の転換期といわれる。

皇帝アウグストゥスはガリアの行政区画を,前16年ガリア・アクイタニア,ガリア・ルグドゥネンシスおよびガリア・ベルギカと定めた。ガリア諸部属の枠を越えたこの行政区画の設定は強固な部族的結束を弱める結果となった。前12年ルグドゥヌムリヨン)に設けられた国家祭儀の祭壇Ara Roma et Augustiとガリア人の政治的要求の反映の場であるガリア属州会議(コンキリウム・ガリアルムConcilium Galliarum)とは,ローマ人とガリア人の精神的・政治的一体化を促進した。この両者の平和的統合をいっそう促したのは,皇帝ティベリウスの下でのゲルマン族からのガリア防衛の成功と,ガリア市民階層の皇帝権への積極的協力であり,さらには皇帝クラウディウスによるガリア人への元老院(セナトル)貴族身分の開放であった。このようなガリアとローマとの政治的一体化を示す事件をあげれば,皇帝ネロと対立皇帝ガルバの政争が自由ガリアを求めるルグドゥヌムのウィンデクスVindexの反抗に反映し,また逆にライン軍団の支配地域のガリア北東部と元老院貴族が支配する南西部との地域間の対立がローマの政争に直結する。しかし,ゲルマン族侵入の脅威におびえた結果とはいえ,70年のドゥロコルトルム(ランス)のガリア属州会議は,ガリアの地域間の対立を解消し,皇帝トラヤヌスの下で軍隊と貴族とが和解した。ガリアの平和下で活発化した地中海通商は地中海沿岸地域の諸都市を繁栄させ,ガリアはその後1世紀にわたるガロ・ロマン時代の最盛期を迎えた。

 3世紀に入って,ライン軍団が皇帝の権力的基盤となり,この軍団獲得をめぐる闘争が前述の対立を再び顕現化させた。加えて,ゲルマン族の侵入が恒常化し,3世紀後半のフランクおよびアレマン両部族の侵入は5世紀の民族大移動以上にガリアの社会的・経済的基盤を破壊し,ガロ・ロマン文化の突然の終焉をもたらした。この間のガリア国家設立の動きは,帝国からの分離独立というガリア民族主義によるよりは,自己防衛の結果であり,それゆえに皇帝アウレリアヌスの下で帝国が安定すると,ガリアは帝国との再統合を求めている。

皇帝ディオクレティアヌスによる帝国政治機構の再編成はガリア,ヒスパニアおよびブリタニアを包含する一つのプラエフェクトゥラpraefectura(管区)として,その行政府と西部帝国の首都をアウグスタ・トレウェロルム(トリール)に定めた。これはライン防衛線で帝国の平和を守る積極的なゲルマン政策の表れであり,事実ライン左岸のゲルマン諸部族は制圧されて帝国とクリエンテス(被保護)関係を結び,ガリアは4世紀末までガロ・ロマン時代の最後の平和と繁栄を享受した。しかしこの間,ガリア社会は階層分裂を起こし,騎士階層は消滅し,元老院貴族は下層階級出身者とガリア北東部出身者との加入によって変質した。他方,行政・軍事権の明確な分離により軍隊のゲルマン化が進み,フランク人が軍指揮官(マギステル・ミリトゥムmagister militum)としてガリア防衛の実権を握るところとなった。

 395年アウグスタ・トレウェロルムの宮廷はゴート部族の侵入を契機にメディオラヌム(ミラノ)に,さらにラウェンナ(ラベンナ)へと,また行政府はアレラテに移動した。401年ライン軍団の精鋭が対ゴート戦に備えて,帝国東部に転出したことは,406年にバンダル,アランおよびスエビ諸部族のライン渡河を許し,ここに民族大移動が開始された。ガリアの命運はローマ帝権に替わって,ゲルマン人の軍指揮官と元老院貴族によって握られた。476年ローマによるガリア支配の終焉後,同貴族のゲルマン世界への転生はガロ・ロマン時代の文化的・精神的伝統を次の時代に伝えるところとなった。
ガリア
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世界大百科事典(旧版)内のガロロマン時代の言及

【民族大移動】より

…すなわち東ゲルマンの諸部族は,いずれも故郷の地を捨てて帝国領内深く入り込み,速やかに遠方へ移動して,それぞれの王権を伸張した反面,ローマ属州の社会や文化の影響力の前に,みずからの本性を失う傾きが強かった。これに反し西ゲルマンの諸部族は,ライン,ドナウの両川に沿った帝国の国境線近く,あるいはゲルマニアの本土に根を下ろしつつ,長い移動の過程で徐々にローマの文物を摂取・消化し,その本性を失うことなく,ゲルマン,ローマ両文化の融合の素地をつくることができた(ガロ・ロマン時代)。その一族であるフランクの王国(フランク王国)が,やがてヨーロッパ中世世界を築く中心的役割を果たすにいたるのは,このような遠因があったからである。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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