改訂新版 世界大百科事典 「キクユ族」の意味・わかりやすい解説
キクユ族 (キクユぞく)
Kikuyu
Gikuyu
ケニア最大の部族で,言語的には北東海岸バントゥー語系に属する。ケニア山南西麓を中心として広い地域に住んでおり,牧畜民マサイ族や狩猟民ヌドロボ族の文化をかなり吸収してきた。人口は1962年の160万が79年には320万と倍増している。伝統的にはヒエ,モロコシ,トウモロコシ,サツマイモ,マメ類などの栽培を中心とした農耕民で,牛,ヤギ,羊等の家畜飼養も行った。牛は富の象徴であり,ヤギ,羊は一種の通貨としての役割も果たしていた。現在はコーヒー,タバコ,サトウキビ等の換金作物も生産している。
社会は九つの父系クラン(ムヒリガ)と多数のサブ・クランに分かれているが,基本単位は父系大家族(ムバリ)で,一夫多妻家族も少なくない。伝統的には首長制をもたず,年齢階梯に区分された年齢組織が政治体系の根幹を成していた。それは下級戦士,上級戦士,初級長老,中級長老,最長老という5階梯から成っており,青年男子は割礼によって下級戦士となり,上級戦士を終えると結婚資格を得た。この組織は植民地時代に消滅したが,青年男女の割礼は現在でも行われている。宗教は唯一神ヌガイNgai(近隣のカンバ族,マサイ族も同名の神を崇敬している)への依存と家族や氏族の祖霊に対する祭祀を中心とする。神話によるとヌガイは世界の創造主であり,奇跡のしるしとしてケニア山をつくった。キクユの始祖ギクユはヌガイに土地と妻を与えられ,9人の娘をもうけたが,男子のない不満をヌガイに告げると,ヌガイは9人の若者を送り,娘たちは結婚した。これが九つのクランの起源だという。このような伝統的な文化と生活様式については,ケニアの初代大統領ジョモ・ケニヤッタがロンドン大学で人類学を学んでいるときに書いた《ケニア山のふもと》(1938。邦訳あり)に詳しく描かれているが,キクユは植民地支配に最も大きな影響を受けた民族であり,その生活も20世紀に入ってから急激に変化することになる。
1887年にイギリスのF.D.J.ルガードは,キクユの有力長老たちと友好関係を結び砦を築いたが,後に武力衝突にいたった。ウガンダ鉄道の建設に伴い白人の入植が始まると,イギリス政府は1901年にキクユの実際には存在しなかった〈公有地〉を国有化するとともに,キクユを原住民居留地に強制移住させた。換金作物としてキクユが栽培を始めていたコーヒーや除虫菊も白人農民の利益のために栽培を禁じたため,21年にはナイロビで大規模なストライキによる抗議が行われた。その後も土地の収奪は続いたため,第2次大戦後のナショナリズム高揚のなかで,50年前半,キクユを中心にマウマウの反乱が起き,首謀者とみなされたケニヤッタは独立直前まで投獄された。ケニアの独立後は,キクユを中心とした政党ケニア・アフリカ人民族同盟が与党となり,現在では唯一の政党である。第2代のモイ大統領は少数部族の出身であるが,政財界や学界でキクユは支配的勢力となり,ケニアの政情不安の原因である。
執筆者:長島 信弘
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報