ドイツの法学者。8月13日ベルリンに生まれる。ベルリン大学に学んだのち、1858年より同大学ローマ法教授。その間地方裁判所裁判官(1836~1850)、下院議員(1858~1893)、帝国議会議員(1868~1884)、最高裁判所裁判官(1875~1877)を務めた。政治的には国民自由党の闘士として憲法制定問題に活躍し、彼の『現代英国憲法および行政法』全2巻(1857、1860)はとくに名声を博した。伊藤博文(ひろぶみ)らが憲法調査のため渡欧した際には、約6か月にわたって伊藤らに憲法の講義を行い、憲法政治の利害を教授した。その内容は『西哲夢物語』のなかに「グナイスト氏談話」として伝えられている。伊藤が大日本帝国憲法制定の際にとった、欽定(きんてい)主義、行政権の強化、起草の秘密主義は、グナイストの教えによるものであり、グナイストは明治政府の法律顧問となった教え子のモッセを通じて、間接的に憲法起草に大きな影響を与えた。晩年には、フリードリヒ3世の皇子に憲法の講義もしている。
[佐藤篤士]
ドイツの法学者,政治家。ベルリン生れ。ベルリン大学でサビニーの影響を受ける。イタリア,フランス,イギリスの憲政の実情を研究し,帰国後裁判官,1845年よりベルリン大学教授(ローマ法)。イギリス地方自治制の研究を通じて,議会制の基礎をなす地方名望家層の重要性を強調,また行政裁判所を基軸とする法治国論を唱えた。政治家としては国民自由党に属し,58年よりプロイセン議会,68年より帝国下院議員として,多くの立法に関与。L.vonシュタインの影響下で,講壇社会主義に近い社会政策の立場に立って労働者福祉協会,社会政策連盟の会長を務めた。また反ユダヤ主義反対連盟の発起人の一人。ウィルヘルム1世,ビスマルク,とくにオイレンブルク内相らの信任厚く,ウィルヘルム2世に憲法を講じた。1882年憲法調査のため渡独した伊藤博文一行に憲法を講じ,弟子のA.モッセを日本に派遣した。85年にベルリンを訪れた伏見宮貞愛親王に対する講義の聴講録《西哲夢物語》はグナイストの伊藤らへの助言の内容を知る参考資料である。
執筆者:長尾 龍一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1816.8.13~95.7.22
ドイツの公法学者・政治家。ベルリン大学に学び,1844年から没するまで同大学教授。ドイツ行政法学を確立。プロイセン下院議員・ドイツ帝国議会議員を歴任。憲法調査に訪れた伊藤博文や伏見宮貞愛(さだなる)親王らに,君権強化や地方自治の等級選挙制などについて助言した。弟子にA.モッセがいる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…明治維新政府は〈富国強兵〉の名のもとに,近代国家の建設に努めたが,そのモデルとしては,はじめイギリスが考えられたが,明治14年(1881)の政変以後,伊藤博文らの主張するプロイセン・ドイツ型の国家がその模範となった。伊藤は翌年ヨーロッパ各国の憲法制度調査のため渡欧し,主としてベルリン大学のグナイスト,モッセ,ウィーン大学のL.vonシュタインのもとで研究を進め,また1878年から15年間にわたって日本政府の法律顧問として滞在したレースラーの協力もあって,ドイツ帝国に範をとった明治憲法および国家体制が整えられた(法典編纂)。兵制に関しては,1870年には海軍はイギリス式,陸軍はフランス式の方針であった。…
※「グナイスト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新