アメリカ合衆国の第35代大統領(在任1961~1963)。JFKと略称する。5月29日ボストン郊外のブルックリンに生まれる。父ジョゼフはアイルランド系移民の3代目で、銀行、映画産業などで成功し、F・D・ルーズベルト政権下では駐英大使を務めた。母ローズはボストン市長フィッツジェラルドの娘。9人の兄弟姉妹のうち次男で、名門チョート校を経てハーバード大学で政治学を学ぶ。父の任務に随行して第二次世界大戦前夜のヨーロッパを視察、卒業論文『イギリスはなぜ眠っていたか』にまとめ、ベストセラーとなる。日本との開戦後、海軍に志願、ソロモン沖海戦で、指揮していた魚雷艇が駆逐艦天霧(あまぎり)に撃沈された際、重傷の部下を守って泳ぎ抜き英雄となった。戦後、通信社記者を経て1946年マサチューセッツ州第11区から下院議員に当選(同期にニクソン大統領がいる)、1952年には現職のロッジを破って同州から上院議員に選出された。翌1953年ジャクリーン・ブービエと結婚(子供はキャロラインとジョン2世の2人)。戦争で負傷した背骨の悪化で入院、危機を脱したあと、療養中に『勇気ある人々』を著し1957年度のピュリッツァー賞を獲得した。1956年の民主党大会で副大統領候補をねらって敗れたが、1958年上院に再選され、1960年の大統領選挙で民主党候補指名をかちとった。アイゼンハワー時代の沈滞を破る清新な候補として「ニュー・フロンティア」のスローガンを掲げ、共和党候補ニクソン副大統領とのテレビ討論で優位にたち、激戦のすえわずかの差で勝利を収めた。カトリック教徒として最初の大統領であり、当選した大統領ではアメリカ史上最年少である(43歳)。1961年1月の就任演説ではアメリカの前進を訴え、国民に国家への献身を呼びかけた。
雄弁と才気に恵まれ、記者会見などにテレビを巧みに用いてイメージ豊かな政治を行い、スタッフには、ハーバード大学はじめ各界から「ベスト・アンド・ブライテスト」と総称される多くの知識人を集めたが、スローガンの華々しさに比べて議会との関係は円滑を欠き、内政にはみるべき業績はない。外交面では、就任早々キューバ侵攻を試みて失敗し、ウィーンの巨頭会談でソ連のフルシチョフ首相にあしらわれるなど、厳しいスタートであったが、「平和部隊」を創設し国民の奉仕精神と開発途上国への援助を結び付けたことは賞賛された。1962年10月のキューバ・ミサイル危機では、核戦争の危険を賭(と)し海上封鎖でフルシチョフと対決、キューバ不侵略の公約と引き換えにミサイルと爆撃機の撤去をかちとった。「核戦争の淵(ふち)をのぞき込んだ」この経験から、1963年6月、アメリカン大学の卒業演説で「平和への戦略」を呼びかけ、7月には米英ソ3国間の部分的核実験禁止条約の成立をみた。だが、人種問題の前進、中国との国交回復などの懸案を抱えたまま1963年11月22日テキサス州ダラスで暗殺者の凶弾に倒れた。わずか1000日の任期であった。
[袖井林二郎]
『ジェームズ・M・バーンズ著、下島連訳『ジョン・ケネディ――その生いたちと政治的横顔』(1961・日本外政学会)』▽『アーサー・M・シュレジンガー著、中屋健一訳『ケネディ――栄光と苦悩の一千日』(1966・河出書房)』▽『ディビッド・ハルバースタム著、浅野輔訳『ベスト&ブライテスト』全3巻(1976・サイマル出版会)』
アメリカの政治家。マサチューセッツ州生まれ。第35代大統領ジョン・F・ケネディの弟。ハーバード大学、バージニア大学大学院で法律を学び、1951年司法省刑事局の弁護士となる。上院恒久調査小委員会の法律顧問を経て、1957年から労働ないし経営の不法活動に関する上院特別委員会の主任法律顧問を歴任。1960年選挙参謀として兄の大統領当選に貢献後、翌年司法長官に就任し、黒人の公民権拡大などに活躍した。1964年ニューヨーク州選出民主党上院議員に当選。貧困絶滅計画の実現などに尽力し、若者、黒人、貧困者層の人気を集めた。1968年大統領選出馬を表明したが、同年6月5日ロサンゼルスで狙撃(そげき)され、翌日死去した。
[藤本 博]
『ロバート・ケネディ著、青木日出夫訳『新しい時代』(1968・角川書店)』
アメリカの政治家。マサチューセッツ州選出民主党上院議員。マサチューセッツ州生まれ。第35代大統領ジョン・F・ケネディ、ロバート・ケネディの弟。ハーバード大学、バージニア大学大学院で法律を学び、兄ジョンの選挙運動で活躍。1962年に30歳で史上最年少の上院議員(民主党)として当選。社会福祉政策や人種差別撤廃政策を積極的に支持し、民主党進歩派の旗頭的存在として活躍。1979年1月上院司法委員長に就任。1980年の大統領選挙でカーターと民主党内の指名を争い、敗れた。1982年初頭からは核凍結運動の推進者として有名。女性秘書を自動車事故で水死させた「チャパキディック事件」(1969)や離婚など個人的問題が尾を引き、1984年大統領選挙への出馬を取りやめた。
[藤本 博]
アメリカ合衆国第35代大統領。在職1961-63年。アメリカ史上最初のカトリック系の,そして最年少(43歳)で当選した大統領。1840年代ボストンに移住したアイルランド系移民の子孫で,父は成功した実業家であり,イギリス大使も務めた。ケネディは1940年ハーバード大学卒業,海軍に志願,南太平洋で魚雷艇の艇長として活躍した。第2次大戦後,政界入りを決意し,民主党候補として46年には下院議員に,52年には上院議員に当選する。ケネディの選挙戦は,アイルランド系移民を中心とする都市の大衆やリベラルなインテリを支持基盤に,民主党組織よりは自分の一族,友人を中心とする個人的組織,その豊かな個人的財産を活用することを特色としている。議員活動では,基本的には民主党の反共リベラル路線をとっていた。60年の大統領選挙に立候補,ニューフロンティアのスローガン,若さ,テレビでの巧みな演出などで,共和党候補ニクソンを僅少の差ながら破って当選した。
大統領としての治政は,63年11月ダラスで暗殺されるまで3年足らずであり,ことに内政面では具体的成果は少ない。老人医療,都市開発,教育援助,黒人への対等の市民権など計画は多くあったが,民主党保守派を含む議会勢力に阻まれて,彼の活動中には実現されなかった。むしろ比較的議会の束縛を受けない外交面で,大統領としての足跡を残したといえる。就任早々,キューバ侵攻問題でつまずいたが,ベルリン問題,キューバにおけるソ連ミサイル基地問題(キューバ危機),核実験停止等でソ連フルシチョフ首相と激しく対立,渡り合いつつ,しだいに米ソ和解の道を切り開き,63年8月部分的核実験停止条約の調印にまでもっていった。他面,中国との外交正常化は残され,彼の政権の下で軍事顧問団の名で1万6000の軍人がベトナムへ派遣され,軍事介入が進められたことも忘れてはならない。ケネディがアメリカ史に残したものは,アメリカの国力の相対的低下を背景に,アメリカ〈全能〉の夢の終わったことをアメリカ国民に知らせ,外交への〈道徳主義的〉接近法を改めて,より現実主義的接近法をとらしめようとしたことであろう。
執筆者:斎藤 真
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1917~63
アメリカ第35代大統領(在任1961~63)。民主党員。選挙で選ばれた最年少の,しかも初のカトリック教徒の大統領。典型的な冷戦の闘士であったが,キューバ危機のあと対ソ緊張緩和に転じ,米英ソ3国の部分的核実験禁止条約を実現した。第三世界での共産主義勢力の伸長を懸念して,ラテンアメリカ政策に力を入れ,南ベトナム政府を助けるため米軍事顧問を大幅増員した。ダラスで暗殺されたが,暗殺者も射殺されたのでその背後関係はわかっていない。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…トルーマン大統領時代には,〈1946年雇用法〉が制定され,政府の総需要管理政策によって完全雇用の維持と経済成長に努める一方,対外的には国際通貨基金(IMF)を中心とする国際金融機構,および,自由,無差別な貿易拡大を求めるGATT(ガツト)(関税と貿易に関する一般協定)をてことして,世界経済の復興と発展を目指す体制をつくりあげた。とくに,1961年以降のケネディ,ジョンソン両政権時代には,ケインズ経済学を基礎にした〈新しい経済学〉を実践するために積極的な経済政策を採用した。そこで64年には,投資減税と所得税率の引下げによる大幅減税が実施されて予想以上の効果をおさめた。…
…第2次大戦後はいちはやくアメリカ市民権をもつ2児の名義でニューヨークに海運会社を設立し,有利なアメリカ国有船の払下げとタンカー建造に対するアメリカ政府融資を受けて大きな成功を収め,一大海運王国を築き上げた。歌手のマリア・カラス,ケネディ元米大統領夫人ジャクリーンとの恋愛,結婚でも話題を提供した。なお,ギリシア船主の中には,古くからギリシア本国とは非常に関係の薄い特異な海運経営活動を展開している者が多く,この種の船主を一般にギリシア系船主と呼ぶ。…
…アメリカ政府が発展途上諸国に隊員を派遣し,現地の開発計画に貢献することを目的とした活動機関。1960年J.F.ケネディが大統領選挙の公約の一つとして提唱。61年3月発足し,同年9月正式に連邦議会の承認を得た。…
※「ケネディ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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