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ケベック問題 ケベックもんだい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ケベック問題
ケベックもんだい

イギリス系国民が多数派のカナダにおける,ケベック州のフランス系国民と政府との対立およびその独立をめぐる問題。カナダが建国以来かかえる懸案となっている。今日フランス系国民はカナダ全人口の 4分の1を占め,その約 8割がケベック州に住む。この地域においては,他州との経済的な格差の是正や,出生率減少と移民の定着率の低さによる人口減,若者のフランス語離れの深刻化などを背景に,分離・独立の欲求が高まっていた。ケベック・ナショナリズムは,1960年の静かな革命を経て一時的に先鋭化したが(10月危機),1976年に穏健派ナショナリストのケベック党が州政権を獲得することで,議会を通じた穏健な政治活動が基調となった。1980年にケベック党は,カナダ連邦体制から主権連合体制への移行の是非を問う州民投票を実施したが,反対 60%,賛成 40%で挫折した(→ケベック州レファレンダム)。1982年のカナダの憲法移管の過程では,ケベック州は憲法上の独自性の承認などが拒否されたことを理由に新憲法への署名を拒否。この事態を解決するため,1987年に分権型連邦体制を目指したミーチ湖憲法協定が連邦・州首相間で合意されたが,ケベック州側の主張を全面的に受け入れた内容にイギリス系住民の反発が高まり 1990年に廃案となった。1992年8月,マルルーニー政権はケベック州の要求を再度受け入れ,上院改革や先住民自治権を盛り込んだシャーロットタウン憲法協定を発表したが,同 1992年10月に行なわれた国民投票の結果は拒否に終わった(→カナダ国民投票)。1994年,ケベック党は州議会選挙で政権を自由党から奪い,翌 1995年に独立の是非を問う 2度目の州民投票が行なわれた。独立は否決されたものの(反対 50.6%,賛成 49.4%),僅差の投票結果は連邦政府に衝撃を与えた。翌 1996年,連邦政党ケベック連合の創設者の一人リュシアン・ブシャールがケベック州首相となったが,独立運動の成果は出ず,2001年に引責のかたちで辞任。また 1998年には,カナダ連邦最高裁判所が,州民投票で過半数の賛意が示されても一方的な独立はできないという判断をくだした。2006年には保守党党首のスティーブン・ハーパーがカナダ首相となり,ケベック州の地位について,連邦体制の枠内での妥協案を模索する姿勢を示したため,独立運動は沈静化の様相を呈した。

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知恵蔵の解説

ケベック問題

ケベック州はカナダの10州の1つで、フランス系住民が州人口の約72%、フランス語を母語とする人口が86%を占め、面積は約167万平方キロで、ヌナブト準州を除いて最大。州の人口は約763万人、カナダ全人口の約23%を占める。ケベック人は長い歴史と共通の言語、文化を持ち、民族としての同一性を主張してきた。1982年、カナダ人権規約の明文化、英仏2言語主義、上院及び最高裁判所の改組などを盛り込んだ「1982年憲法」が制定され、87年6月、ケベック州議会も5項目の協定を結んで受諾したが、90年6月、同協定は不成立。92年8月、マルルーニ首相(当時)は、ケベック州への権限移譲を含む憲法改正案「シャーロットタウン合意」を発表し、同年10月に国民投票を行ったが、10州のうち6州で否決された。95年10月、分離独立を問うケベック州民投票が行われたが、分離独立派はわずかの差(50.56%対49.44%)で敗れた。98年8月、カナダの最高裁判所は、たとえ州の過半数が賛成しても一方的な分離はできないという判断を下した。

(細谷正宏 同志社大学大学院アメリカ研究科教授 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ケベック問題
けべっくもんだい

カナダのケベック州に住むフランス系カナダ人(ケベコワ)が求めている、カナダ連邦からの同州の分離・独立をめぐる問題。ケベック問題は200年以上の長い歴史的背景をもっている。現在のケベックは17世紀初頭にフランスの植民地ヌーベル・フランスとなったが、フレンチ・アンド・インディアン戦争でイギリスに征服され、1763年のパリ条約でイギリス領となった。だがフランス人住民の多くは本国へ帰還するより「フランス系カナダ人」として残留することを選び、イギリスも、革命気運の高まる南部の13植民地に対抗する必要から、彼らにカトリック信仰やフランス語を保持する権利を認めた。その後カナダがイギリス領植民地として拡大・発展するにつれ、フランス系カナダ人はカナダ全体では少数派となったが、故地であるケベック州に集住することで「地域内多数派」の地位を固持し、イギリス系と並ぶ「カナダ建国の2民族」の一つとして、今日に至るまで宗教、言語、文化面で独自のアイデンティティ(民族的自覚)を維持してきた。
 第二次世界大戦後の経済的繁栄に伴って、それまで概して後進的とみなされてきたケベック州のフランス系社会に、近代化の波が押し寄せた。1941年から71年の間に同州の人口は2倍近い600万人へと急増し、しかも農村人口が41%から6%に激減して、78%がモントリオールやケベック市などでの都市居住者となった。しかし、フランス系の都市労働者の大部分は非熟練労働にしか就業できず、最低所得層にとどまっていた。他方で戦後の繁栄はフランス系中産層の増大をも招いたが、彼らもまたイギリス系以下の職と賃金しか得ることができなかった。
 こうした状況を背景に、1960年6月に、従来カトリック教会と結んでケベック州政府を掌握してきた政党ユニオン・ナシオナルが自由党に敗北し、これが同州における「静かな革命」の端緒となる。当初の革命を指導したのは、雑誌『シテ・リーブル(開かれた社会)』に依拠したピエール・トルドーPierre Trudeau(1919―2000)らのリベラリストである。彼らは、ユニオン・ナシオナルとカトリック教会に代表される旧来の保守的なフランス系ナショナリズムを攻撃し、教会と政治との分離や教育改革など、リベラルな民主主義の実現を訴えた。同時に、ケベック州をカナダから独立させ、フランス系が「わが家の主人」となることを求めるネオ・ナショナリズムも高揚する。68年に正面からケベック独立を唱えるに至ったルネ・レベックRene Levesque(1922―87)が自由党を離れてケベック党(パルティ・ケベコワ)を創設した。他方でケベック解放戦線(FLQ)に結集した過激グループは70年10月に、イギリス外交官の誘拐やケベック州政府高官の監禁・殺害に走り、連邦首相に就任していたトルドーは戦時措置法の発動を余儀なくされた。武力闘争路線は以後退潮したとはいえ、この「10月危機」はオタワ政府が本格的にケベック問題に取り組む契機となった。
 あくまで連邦の枠組みを堅持し、英仏系民族集団の平等と共存共栄を達成しようとしたトルドーの自由党政権は、1968年の公用語法で英仏両言語を連邦政府機関で使用可能としたのに続き、71年にはドイツ系、イタリア系などほかの非イギリス系民族グループの要求をも取り込むかたちで、「英仏二言語に基づく多文化主義(二言語主義)」の採択を宣言した。しかしケベック州は、多文化主義は事実上フランス系をほかの民族集団と同様の二流市民の座に据えるものだ、と反発する。76年にはついにレベックのケベック党が州選挙で勝利して州政権を握り、翌年には「フランス語憲章」(条例101号)を可決してフランス語を州内で唯一の公用語に定め、連邦との対立は抜き差しならぬものとなった。次いでレベックは、カナダからの政治的独立と経済的同盟を求める「主権・連合」構想を提起し、80年に州民投票を断行した。トルドーはカナダの分断阻止と、フランス系の地位を強化する憲法改正を訴えて対抗し、ケベック州民から6割の支持を集めるのに成功する。トルドー政府は「権利と自由の章典」を含む「1982年憲法」を定め、あわせてイギリスからの憲法移管をも達成したが、ケベック州政府は新憲法を認めようとはしなかった。
 1984年の総選挙で自由党に勝利して首相となった進歩保守党のブライアン・マルルーニーMartin Brian Mulroney(1939― )は、新たな憲法修正によってケベックとの宥和(ゆうわ)を図ろうとした。ケベックでは州民投票後の85年選挙で自由党のロベール・ブラサが、ケベック党を敗って州首相に就任していた。マルルーニーは87年にブラサを含めた全10州の首相との間で「ミーチ・レーク協定」を締結し、ケベック州に「独自の社会」として特別の地位を認め、将来の憲法改正に対する拒否権をも与えることで、同州を連邦=新憲法体制のなかに取り込もうとした。だが自由党は連邦レベルで、同協定はケベックに実質的な独立を認めてしまうものであると強硬に反対する。結局「ミーチ・レーク協定」は、マニトバ州の先住民代表やニューファンドランド州の新首相の抵抗により、10州議会の批准を確保できず、90年に期限切れになってしまう。
 マルルーニーはケベックの失望と反発を抑えるため、1991年に先住民代表をも含めた連邦=州首相会議で、二度目の憲法修正案「シャーロットタウン協定」の締結にこぎ着けた。この協定はケベック州に「独自の社会」を認める一方、すべての州に憲法改正への拒否権を認めるという、さらに妥協的な修正案であった。しかし、92年4月の国民投票では、約45%の支持を得るにとどまり、修正案はふたたび否決される。
 二度にわたる憲法修正案の否決を受けてフランス系ナショナリストは、もはや連邦からの分離・独立以外に民族的アイデンティティを保持する道はないとの確信を強めた。1993年10月の連邦総選挙では、進歩保守党が歴史的大敗を喫して政権から転落する一方、既成政党への信頼を失ったケベック州の票は独立派の新政党であるケベック連合(ブロック・ケベコワ)へと流れた。94年4月のケベック州選挙でも、ジャック・パリゾーJacques Parizeau(1930― )が率いるケベック党が自由党から州政権を奪還する。パリゾーは95年10月に、ふたたび独立に向けた州民投票を実施し、独立阻止を図るオタワの自由党首相ジャン・クレティエンとの間で熾烈(しれつ)なキャンペーンが展開された。結果は州政府への支持49%、反対51%という僅差(きんさ)となり、パリゾーは責任をとって辞任する。96年1月、後任の州首相にフランス系の間でカリスマ的人気をもつルシアン・ブシャールLucien Bouchard(1938― )が就任。しかし、独立への成果があげられなかったとして、2001年1月に辞任した。[木村和男]
『大原祐子著『カナダ現代史』(1981・山川出版社) ▽長部重康他編『現代ケベック――北米の仏系文化』(1989・勁草書房) ▽D・フランシス、木村和男編『カナダの地域と民族――歴史的アプローチ』(1993・同文舘)』

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