日本大百科全書(ニッポニカ) 「ケリー」の意味・わかりやすい解説
ケリー(Mike Kelley)
けりー
Mike Kelley
(1954―2012)
アメリカの美術家。デトロイト生まれ。1976年ミシガン大学芸術学科を卒業後、カリフォルニア芸術学院(カル・アーツ)の修士課程に学び1978年卒業。ミシガン大在籍中から前衛演劇やウィーン・アクショニズム(1960年代初頭にウィーンで結成された過激なパフォーマンスを特徴としたグループ)に関心を寄せ、友人のジム・ショーJim Shaw(1952― )とともに、バンド「デストロイ・オール・モンスターズ」を結成し、電子音やテレビ映像などをまじえて演奏活動を行う。カル・アーツでは、同校教授のマイケル・アッシャーMichael Asher(1943―2012)、ジョン・バルデッサーリJohn Baldessari(1931―2019)らによる、アカデミックな芸術制度批判に反発しつつも、イメージをコンセプチュアルな言語として扱い、物を現代のコミュニケーションの構造のなかでとらえる記号学的姿勢を学んだ。
ポップ・アートやパンク音楽の影響を媒介に、美術のコミュニケーション領域を広げ、その内容を同時代の生活に関わるものにつくり替えるのが、ケリーの初期の目的だった。『ポルターガイスト』(1979)に始まる平面作品では、文字をイメージとして扱うコンセプチュアル・アートの方法を踏襲しながら、手書き文字とアンダーグラウンド・コミック風のドローイングを組み合わせた「偽説明図」や、合成写真のいたずら的要素をとりいれたフォト・テクストがつくられた。一方でヨーゼフ・ボイスの影響を受け、学生時代のバンド活動をより前衛的に発展させたミクスト・メディア・パフォーマンスを行った。それは、『猿の島』(1982~1983)、『崇高』(1983~1984)、『海辺のゴジラ』(1984)、『プラトンの洞窟、ロスコのチャペル、リンカーンの横顔』(1986)と題されたパフォーマンスで、哲学的、詩的テーマにもとづいて、行為、会話、朗読、演奏、オブジェや説明図を組み合わせた作品だった。また、ドラッグ・クイーン(誇張された女装をする男性)やロック・グループ、ソニック・ユースら美術分野外の人々とのコラボレーションによって、ボイスのパフォーマンスに顕著な、アーティストのカリスマ性は稀薄になった。パフォーマンスの内容も、哲学的であると同時に滑稽で暴力的であり、文化人類学とマンガ、ハプニングを取り入れ、さらにビト・アコンチ、ブルース・ナウマンらから影響を受けたパフォーマンスとポスト・パンクのコンサートを組み合わせるというカーニバル的なものだった。
1980年代を通してケリーは、大衆の欲望を伝える物やイメージを素材に、時代や地域の生活行動に根拠をもつ、新しいコンセプチュアル・アートの確立を試みていた。その試みは、1980年代終わりから1990年代初めにかけ、三つの表現方法によって実現された。その方法とは、(1)スーパーマーケットや学食の掲示板にみられるようなポスターや募集ビラの文字をフェルトで切り抜いて布に張り付けた大判の平面作品、(2)テキスト付きのイメージや物を演劇の装置のように組み合わせたインスタレーション(『快楽の代償』(1988)など)、(3)擦り切れたアフガン織の敷物や古いぬいぐるみを使ったインスタレーション、である。とくに、ぬいぐるみをアフガン織の絨毯に縫い付けた作品や、ぬいぐるみの顔を縫い合わせてつくったモビールは、贈り物として手づくりされる不細工なぬいぐるみが地域の人間関係に与える影響や嫌悪感、罪の意識に眼を向けさせた。
こうした冒涜的な表現の傾向は、パフォーマンス・アーティスト、ポール・マッカーシーとのパフォーマンス、ビデオ作品『ハイジ』(1992~1993)にもうかがうことができ、そこでは幼児退行的、糞尿愛好的な冗談をちりばめ、文化的市民生活のなかで抑圧される人間の破壊衝動や幼児的欲望などの「おぞましいもの」への妄執の芸術表現とみなされた。そして、1990年代初めに台頭したさまざまな「おぞましさ」を表現した美術家たち(キキ・スミス、ロバート・ゴーバーRobert Gober(1954― )、カレン・キリムニクKaren Kilimnik(1955― ))と並列して論じられた。しかし、『クラフト形態学フローチャート』(1991)を最後にぬいぐるみを使った作品をつくらなくなり、その後はマッカーシーとのコラボレーション『ソッドとソディーの靴下宿舎』(1999)にみられるように、建築的空間と演劇的装置とパフォーマンスを組み合わせ、自伝的要素をもちながらも、教育や軍隊などの制度が人間の行動や関心や趣味などに与える影響を考察させるインスタレーションを試みた。
1989~1997年ホイットニー・バイエニアル(ニューヨーク)に毎回参加、1991年カーネギー国際美術展(ピッツバーグ)、1992年ドクメンタ9(ドイツ、カッセル)、1997年ドクメンタ10など重要な国内展、国際展に参加。また、1992年ロサンゼルス現代美術館の「ヘルター・スケルター――1990年代のL. A. アート」展、1993年のホイットニー・アメリカ美術館「おぞましい芸術――アメリカ芸術における嫌悪と欲望」展、1996年のパリ、ポンピドー・センターにおける「不定形なもの――さかしまのモダニズム」展に参加。1993年ホイットニー・アメリカ美術館によって組織された個展がアメリカとヨーロッパ3か所を巡回。1987年よりカリフォルニア州パサディナのアート・センター・カレッジ・オブ・デザインの大学院で教鞭をとった。
[松井みどり]
『Mike Kelley, John Welchman et al.Mike Kelley (1999, Phaidon Press, London/New York)』▽『Rosalind KraussInform Without Conclusion (in October, Fall 1996, MIT Press, Cambridge)』▽『Hal FosterObscene, Abject, Traumatic (in October, Fall 1996, MIT Press, Cambridge)』
ケリー(Wynton Kelly)
けりー
Wynton Kelly
(1931―1971)
アメリカのジャズ・ピアニスト。西インド諸島ジャマイカに生まれ、4歳のとき両親とともにアメリカに移住し、ニューヨーク、ブルックリンで育つ。わずか12歳でプロ・ミュージシャンとして活動し、15歳でリズム・アンド・ブルース・バンドの一員としてカリブ海地方を演奏旅行する。その後数年はリズム・アンド・ブルース・バンドで経験を積むが、テナー・サックス奏者エディ・ロックジョー・デービスEddie Lockjaw Davis(1922―1986)、歌手でもあるアルト・サックス奏者エディ・クリーンヘッド・ビンソンEddie Cleanhead Vinson(1917―1988)らとの付き合いから、ジャズも演奏するようになる。
1951年、19歳でブルーノート・レーベルに初リーダー作を吹き込み、続いてテナー・サックス奏者レスター・ヤング、トランペット奏者ディジー・ガレスピーと共演する。1952年から1954年まで兵役につき、除隊後再びガレスピーのサイドマンや、歌手のダイナ・ワシントンDinah Washington(1924―1963)の伴奏者を務める。また短期間だが、ベース奏者チャールズ・ミンガスのバンドに在籍し、1957年以降は自分の率いるピアノ・トリオで活動する。またこの時期はサイドマンとしてもブルーノート・レーベルをはじめ、サボイ、リバーサイド、コンテンポラリー、マーキュリー、ビー・ジェイなど、多くのジャズ・レーベルに録音を残している。1959年、トランペット奏者マイルス・デービスのセクステットにビル・エバンズの後任として入団し、マイルスの歴史的アルバム『カインド・オブ・ブルー』のセッションに参加する。1963年までマイルス・デービス・バンドに在籍し名サイドマンぶりを見せるが、その後は同バンドにおけるリズム・セクションである、ベース奏者のポール・チェンバーズPaul Chambers(1935―1969)、ドラム奏者のジミー・コブJimmy Cobb(1929―2020)とトリオを結成し、1964年(昭和39)来日した。
彼のピアノ・スタイルはバド・パウエルの影響を受けたものだが、早い時期にオリジナリティを確立させ、心地よいスウィング感覚と歯切れの良いリズムでピアニストとしての評価を定着させた。またサイドマンとしての能力もずば抜けており、1950年代から1960年代にかけての名盤といわれるアルバムには、彼の名前がクレジットされていることが多い。例をあげれば、1959年にマイルス・バンドのサイドマンたちで制作した『キャノンボール・アダレイ・クインテット・イン・シカゴ』、1962年に録音されたギター奏者ウェス・モンゴメリーのアルバム『フル・ハウス』などがある。本人のリーダー作は思いのほか少ないが、これは当時ピアノ・トリオ・アルバムに対する需要が少なかったことと関係がある。なかでは1960年に録音されたトリオ作品『ケリー・アット・ミッドナイト』が優れている。1971年カナダのトロントにて病死。
[後藤雅洋]
ケリー(Grace Kelly)
けりー
Grace Kelly
(1928―1982)
アメリカの映画女優、モナコ公妃。フィラデルフィアの名家に生まれる。ニューヨークの舞台から映画界に進出。5年間に『真昼の決闘』(1952)、『ダイヤルMを廻(まわ)せ!』(1954)、『裏窓』(1954)、『喝采(かっさい)』(1954。アカデミー主演女優賞受賞)、『泥棒成金』(1955)、『上流社会』(1956)など11本に出演。1956年モナコ公国のレーニエ国王と結婚、1男2女をもうけたが、自動車事故死した。
[日野康一]
ケリー(Ned Kelly)
けりー
Ned Kelly
(1855―1880)
19世紀オーストラリアの強盗団のリーダー。「もっとも有名なオーストラリア人」といわれる。アイルランド系流刑囚を父としてビクトリア州に生まれる。7歳で父に死なれ、貧困のゆえに大牧場主の羊や牛を盗み、少年時代にしばしば投獄された。1878年ビクトリア州北東部の未開地に逃れ、弟ら3人とともに銀行襲撃、警官射殺などの犯行を重ねた。80年6月、同州グレンローワンのホテルを占拠しているところを警官隊に包囲されて銃撃戦となり、他の3人は死亡したが、ネッドは鋤(すき)の刃でつくった防弾甲冑(かっちゅう)を着用して抵抗、負傷して逮捕された。同年11月メルボルンで絞首刑に処された。権威に対する抵抗の、また立憲君主制に反対する共和制派の象徴として民衆のヒーローとなっている。
[越智道雄]
ケリー(Florence Kelley)
けりー
Florence Kelley
(1859―1932)
アメリカの社会改良運動家。奴隷制反対に活動した父の影響を受け、早くから社会問題に関心を示し、弁護士を目ざしたが、女性のため入学を認められず、スイスへ留学した。すでに婦人、児童の地位改善運動に参加していた彼女は、ヨーロッパのマルクス主義者と知り合い、のちエンゲルスの著作を英訳した。帰国後の1891年、シカゴのハル・ハウスに加わり、イリノイ州の工場改善法成立に力を尽くし、その検査官となった。さらにニューヨークで消費者の圧力で労働条件の改善を目ざす全国消費者連盟に参加し(99年より没年まで書記長)、社会主義者の観点をもちつつ、婦人、児童の労働問題のために活動した。
[長沼秀世]
ケリー(Ellsworth Kelly)
けりー
Ellsworth Kelly
(1923―2015)
アメリカの画家、彫刻家。プラット美術研究所、ボストン美術館付属美術学校、エコール・デ・ボザールに学ぶ。ブランクーシやアルプに感化され、1950年代まで、対象物を単純化したり、感情を交えずに再現する作品を制作する。ついで明快なハード・エッジの色面抽象に向かったが、そこには自然を連想させるものがある。1960年代、色名表のような色彩とシェープド・カンバス(変形カンバス)、パネルによる物体的な絵画、色面を三次元的に組み合わせる立体をつくる。その後は逆に、白と黒の絵画、ほとんど単色の金属板を用いたレリーフ状の作品へと変化している。
[藤枝晃雄]