ナウマン(読み)なうまん(英語表記)Bruce Nauman

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ナウマン」の意味・わかりやすい解説

ナウマン(Bruce Nauman)
なうまん
Bruce Nauman
(1941― )

アメリカの美術家。インディアナ州フォート・ウェインに生まれる。ウィスコンシン大学で数学と美術を学び、カリフォルニア大学大学院でさらに美術を学んでいる。

 大学院在学中の1965年に繊維ガラス、ゴム、フェルトなどによる一連の立体作品をつくりはじめた。『無題』と題された65~66年の多くの作品は、壁や床といった支持体にシンプルなかたちをゆだねて、空間やマテリアルとの関係性を探るサイトスペシフィック(特定の場所と分かちがたく結びつく美術作品の特徴)な作品が主流だった。それは、ロバート・モリスの、フェルトを切り刻んで一部を針金で吊り上げるようなインスタレーション作品『無題』(1967~68)と類似点がみられる。その後、身体の一部を型どりしたゴム製の作品やスタジオ内で1人で行う『蛍光灯管を操る』(1969)などのパフォーマンスのビデオを制作した。70年代に入って、ミニマル作品が主流だったアート・シーンからは距離をおくようになり、より人間探求や身体の問題に傾倒し、それを作品化していった。たとえば潜伏、混乱、封印といった問題を考察するために、限られた出入口しかない廊下を模した細長い空間を用いて『ライブ・テープト・ビデオ・コリドール』(1968~70)、『ダブル・ウェッジ・コリドール』(1970~74)などのインスタレーションを行った。

 80年代は、鉄製のフレームの中央に椅子を宙吊りにする『死と同調する椅子があるダイヤモンドアフリカ』(1981)など、社会にはびこる暴力や抑圧に対する恐怖をテーマにした作品を、政治的なメッセージをこめて制作した。この作品は、政治的な迫害者を象徴するものとして、その後もバリエーションを増やしてたびたび制作された。その後、日常の攻撃的な行為を映すビデオ作品『暴力的なできごと』(1986)を発表した。このころから『アメリカン・バイオレンス』(1981)など、ネオンサインで描いた言葉を用いた作品も数多く発表された。ネオンサインを使った作品では、1971年に『イート(食)/デス(死)』という作品を初めて制作している。この時期の代表作『グッド・ボーイ/バッド・ボーイ』(1986、87)では100のシンプルな文章が使われている。同名タイトルの、男女が速度や抑揚を違えてそれらのテキストを読み上げるビデオ・インスタレーションもある。

 このようにナウマンの作品は、立体、ネオン、ビデオ、インスタレーション、パフォーマンス、テキストなど多岐にわたるメディアを駆使して制作されている。その背景には、人間の根源的な行為に対する興味から、社会のなかで個人がどのような態度を取って活動したり、体験したりするのか、といった基本的な問題の探求がある。それは「生/死」といった人間が避けることのできないテーマの考察につながっているのである。

 ドクメンタ9(カッセル、1992)、ベネチアビエンナーレ(1995、1999)、サン・パウロ・ビエンナーレ(1998)など国際展に数多く出品。またベルギーアイルランドオランダオーストリア、イギリス、イスラエルを巡った「ブルース・ナウマン回顧展」(1993~95)、パリ、ロンドン、ヘルシンキを巡回した個展「Image/Text」(1997~98)など、多彩な展覧会を開催している。

[嘉藤笑子]

『Coosje van BruggenBruce Nauman(1988, Rizzoli, New York)』『Robert C. Morgan ed.Bruce Nauman(2002, Johns Hopkins University Press, Baltimore/London)』『Nauman, Kruger, Jaar(catalog, 2002, Daros Services, Zürich)』


ナウマン(Edmund Naumann)
なうまん
Edmund Naumann
(1854―1927)

ドイツの地質学者。ザクセンマイセンで生まれる。ミュンヘン大学で学位を取得した。日本政府から東京開成学校(東京大学の前身)の鉱山学科に招かれたが、1875年(明治8)来日のとき鉱山学科は廃止されていて、金石取調所で和田維四郎(わだつなしろう)と鉱物の調査にあたった。1877年に東京大学が創設され、地質学担当の教授となった。和田とともに建言していた地質調査所が1879年に設立されるとここに移り、1885年の辞職まで地質調査の指導にあたった。日本への地質学の導入、地質調査事業の開始に果たした功績は大きい。日本の地質を初めてまとめ世に紹介した『日本列島の構成と生成』(1885)の著書がある。とくにそのなかで、フォッサマグナによる東北、西南日本の区分、本州を通じて走る「中央割れ目帯」(西南日本のものはのちに中央構造線とよばれた)による内、外帯の区分などの地体構造区分の研究は、大きな影響を日本に残した。ナウマンゾウは彼を記念して命名された。

[木村敏雄 2018年8月21日]


ナウマン(Joseph Friedrich Naumann)
なうまん
Joseph Friedrich Naumann
(1860―1919)

ドイツのプロテスタント神学者、政治家。ウィルヘルム2世の治下において国民主義と社会主義を結び付けようとする国民社会連盟を結成したが、1903年の総選挙に敗北してから進歩人民党に加わり、国会議員(1907~1912、1913~1918)を務めた。1919年にドイツ民主党の党首となり、知識人の間に多くの知己を得た。ワイマール憲法の作成にも努力したが、彼の根本思想は、ドイツを中心とする中央ヨーロッパの統合で、ウィルヘルム2世の世界政策とは別の形において「リベラル・インペリアリズム」を表したものである。

[西村貞二]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ナウマン」の意味・わかりやすい解説

ナウマン
Naumann, Edmund

[生]1854.9.11. ザクセン,マイセン
[没]1927.2.1. フランクフルトアムマイン
ドイツの地質学者。日本の地質学の基礎を築いた。ミュンヘン大学卒業。 1875年に来日。東京大学初代の地質学教授 (1877~79) 。 78年内務省地理局内に地質課 (のちに農商務省地質調査所) を設立し,日本の地質学の発展に大きく貢献。 85年帰国した。特に日本の地質構造をまとめ,中央構造線とこれによる外帯と内帯の区分,フォッサ・マグナとこれによる西南日本と東北日本の区分など,現在も用いられている地質構造区分をした。また,ゾウの化石を発見し,それはのちにナウマンゾウと命名された。

ナウマン
Naumann, Friedrich

[生]1860.3.25. ライプチヒ
[没]1919.8.24. トラーベムンデ
ドイツの政治家,ルター派の神学者。初め牧師だったが,キリスト教的社会運動に投じ,1896年国民主義,社会主義を結ぶ国民社会同盟を結成。しかし 1903年の総選挙に敗れドイツ自由思想家党に加わった。 18年の革命ののち,ドイツ民主党を結成,党主となり,ワイマール憲法の作成にも尽力。彼はドイツを中心とする中央ヨーロッパ統合案の提唱者であり,ドイツの民主主義と民族主義,そして帝国主義の結合を具体化した代表的政治家である。主著『中央ヨーロッパ』 Mitteleuropa (1915) 。

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