日本大百科全書(ニッポニカ) 「モナコ」の意味・わかりやすい解説
モナコ
もなこ
Monaco
南ヨーロッパの地中海に臨む小国。フランス南東部のアルプ・マリティーム県に周囲を囲まれている。正称モナコ公国Principauté de Monaco。面積2平方キロメートル、人口3万3000(1999推計)、3万1109(2008センサス)、3万7308(2016センサス)。世襲制立憲君主国であるが、独立国とはいえフランスとの関係が強く、人口の40%前後はフランス人であり、公用語もフランス語である。通貨もフランス・フランが使われていたが2002年よりユーロとなった。モナコ国民は1割ほどにすぎず、他はイタリア人、イギリス人などで、イタリア語も通じる。モネガスクMonégasque(モナコ語の意)とよばれる方言も使われる。1993年5月国際連合に加盟。
[青木伸好]
国土
地中海に沿って長さ3キロメートル、幅200~500メートルにわたり、背後に山地を控えた帯状をなす。コート・ダジュールの東部に位置し、平均気温は1月10℃、7月23.3℃、年降水量758ミリメートルと気候は温暖で、風光明媚(めいび)なことから世界的な観光・保養地となっている。とくに避寒地として知られ、ホテルやカジノなどの施設が整っている。国内は北からモンテ・カルロ、ラ・コンダミーヌ、モナコ、フォンビエイユの4区からなる。モナコ地区は、かつて要塞(ようさい)であった王宮や、政庁を中心とする行政区域で、ロシュ(岩)とよばれる高さ65メートルの岬一帯を占める。ビザンティン様式を模した大聖堂(1884~1887)、海洋研究家であったアルベール1世Albert Ⅰ(在位1889~1922)のつくったモナコ海洋博物館(1910。地下にヨーロッパ有数の水族館がある)、アフリカの植物を移植したサン・マルタン公園などがある。フォンビエイユはモナコ地区の南側の地区で、海岸部は埋立てにより造成され、リキュールや香水などの軽工業が立地する。モナコ地区の北側の港に面する一帯がラ・コンダミーヌ地区で、商業・業務区域となっている。アルベール公が修築させた東向きの港は、入口の深さ27メートル、面積1万8900平方メートル、豪華ヨットが多数係留されている。モンテ・カルロ地区は、カジノ、美術館、海水浴場を備え、ホテルが建ち並ぶ観光区域となっている。
[青木伸好]
政治・経済
レーニエ3世Rainier Ⅲ(1923―2005)は1949年に即位した。レーニエは1911年制定の憲法を1959年に停止し、国民議会を解散して国政改革を図り、1962年新憲法を制定して議会の権限を拡大した。新憲法により結社の自由を認めるなど国民の基本的自由を保障し、政党も存在する。しかし政治は大公の親政で、定員24の国民議会(一院制、任期5年)が助言するにとどまっている。所得税はなく、徴兵制もとられていないが、儀仗(ぎじょう)兵を兼ねた警察官がいる。宗教はカトリックで、バチカン直属の司教がいる。レーニエは、1956年ハリウッド女優グレース・ケリーを公妃に迎えて話題をまいたが、1982年9月公妃は自動車事故で死亡した。
従来この国の経済はカジノの収益と観光業に支えられてきたが、観光客が大衆化するに及び、経済停滞を招いている。カジノの株の過半は外国人が所有し、趣味家向けの切手発行やたばこ専売、金融業による財政収入も多くはない。そのため、フォンビエイユ、ラ・コンダミーヌ両地区の繊維、機械、印刷、薬品、食品、陶器、ガラスなどの工業の振興を図り、観光から工業立国への転換が行われている。しかし観光がこの国の主要な産業であることに変わりはない。フランスとは1963年に関税および財政に関する協定を結んでおり、防衛もフランスが保障する。1995年に中国と外交関係を結んだ。モナコの屈曲した一般道路を使用して行われる自動車レースは世界的に有名で、毎年1月にモンテ・カルロ・ラリー、5月にF1(フォーミュラ・ワン)のモナコ・グランプリ・レースが開かれ、多くの観客を集めている。
[青木伸好]
歴史
モナコの歴史は古代フェニキア人が植民したことに始まる。ヘラクレスを祀(まつ)った神殿があったと伝えられ、この神殿をモナイコスMonaikos(「唯一の」の意)とよんだのが国名の由来とされる。その後この港をギリシア人、ローマ人が利用し、ローマ時代は貿易港として栄えた。その後イスラム教徒の支配を受け、10世紀にジェノバのグリマルディ家が200年間のイスラム教徒の支配を排して覇権を確立したが、所属は確定しなかった。11世紀にはジェノバの支配下に入り、12世紀には神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)の手に落ちた。その後はフランス、スペインも支配をうかがうなど激動を迎えたが、1297年ふたたびグリマルディ家が支配することになり、東のロクブリュヌ、マントンにまで所領が広がるが、最終的には1419年に同家の所領となった。その後スペインの保護下に置かれたが、1641年にはペロンヌ条約でフランスの保護領となった。1731年アントアーヌ1世Antoine Ⅰ(1661―1731)の時代でグリマルディ家の男系が絶え、娘婿ゴヨン・マティニョンGoyon de Matignon(1689―1751)が同家を継いだ。しかし1793年からはフランス領となり、1814年のウィーン会議の結果グリマルディ家に返却されたが、サルデーニャの保護下に置かれた。1861年、ロクブリュヌ、マントンがフランスの所属となって今日の国土が確定し、フランスの保護下で独立した。以後、保養地としてのコート・ダジュールの発展に伴い、カジノやホテルが開設されることとなった。1911年までは絶対君主制であったが、アルベール1世によって憲法が定められ、政治改革が行われて絶対君主制が廃止された。アルベールの後継ルイ2世Louis Ⅱ(1870―1949)には嗣子(しし)がなく、レーニエ3世は、相続権を継いだルイの娘シャルロットの子である。
[青木伸好]