オーストリアの画家、劇作家。3月1日ペヒラルンに生まれ、ウィーン工芸学校に学んだ。1908年ごろからアール・ヌーボーの影響を脱して表現主義の傾向に向かう。1910年、ベルリンの「シュトゥルム(嵐(あらし))」のサークルに加わり、「絵筆の占師」の異名をとった独特の心理的肖像画によって注目される。第一次世界大戦に従軍して戦傷を受け、1919~1923年ドレスデン美術学校教授、1924~1931年中近東、北アフリカ、ヨーロッパ各地を旅行して、広大な視野をもつバロック的な風景画を描く。1937年、ナチスによって作品を没収され、1938年ロンドンに亡命。同地でギリシア神話をモチーフとする作品を描いて、戦争とナチスへの抗議を行った。肖像、風景、神話のほかに幻想的な絵も描いているが、鮮やかな色彩の諧調(かいちょう)を特色とし、思想的な内容を盛った石版画の連作も試みている。1946年、ウィーン名誉市民となり、1953年以降はスイスのレマン湖畔のモントルーに住み、2月22日同地に没した。
[野村太郎]
劇作家としては表現主義演劇の先駆者の一人で、1907年執筆の『スフィンクスとでくの坊』『人殺し、女たちの希望』がある。前者は斜陽にたつウィーン社会の心理を男女間の性的葛藤(かっとう)劇によって喜劇的に、後者はそれを悲劇的に暴き、上演の際スキャンダルを巻き起こした。ほかにエロスとタナトスを主題にした『燃えるいばらの茂み』(1911)、『オルフォイスとエウリディケ』(1918)、晩年の叙事演劇『コメニウス』(1973完成)がある。
[土肥美夫]
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オーストリアの画家。ペヒラルンに生まれ,1905年よりウィーンの工芸学校で学び,クリムトらと交遊をもつ。表現主義の代表的画家として自画像,肖像,ヨーロッパの諸都市像を制作したほか,戯曲など著作集4巻がある。奔放な筆致で隠れた心理をえぐる人物像や,俯瞰的遠近法でとらえた都市像は,彼の内面に映った,彼の言う〈幻視〉の肉化である。それはウィーンや父の原郷プラハに伝わるバロック的精神文化に根ざしており,彼の具象画の意義は印象主義に代表される近代〈文明〉の没精神性と対峙するこの保守性にある。
執筆者:土肥 美夫
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