コメニウス(読み)こめにうす(英語表記)Johann Amos Comenius

日本大百科全書(ニッポニカ) 「コメニウス」の意味・わかりやすい解説

コメニウス
こめにうす
Johann Amos Comenius
(1592―1670)

現在のチェコの一地方モラビア生まれの教育思想家。チェコ名はヤン・アモス・コメンスキー。ボヘミア同胞教団の助けによって勉学し、やがて同教団の牧師となったが、たまたまその年(1618)、この教団を主勢力として生じたハプスブルク家への反乱三十年戦争にまで発展し、教団が王党とカトリック教会との圧迫を被るに至ったため、教団員とともに国外に難を逃がれ、結局、一生を流浪のうちに過ごした。この間、祖国の安定と、教育を介しての社会平和と人類救済への夢を抱いて著作に没頭したが、計画した体系著述のなかばで、オランダのアムステルダムに没した。

 1620年代に早くも社会批判の書『現世迷路と魂の天国』Labyrint světa a lusthaoz srdceをはじめとして、「慰めの書」とよばれる一連書物を著したが、その後はとくに人類の平和と幸福の実現を目ざしての言語教育と教育一般の方法、内容、組織の改革にかかわる提言を精力的に行った。言語教育の領域では、彼を当時のヨーロッパにおいて一躍有名にした百科全書的原理によるラテン語教科書『語学入門』Janua linguarum reserata(1631)、『語学入門手引』Janua linguarum reseratae vestibulum(1633)がある。教授法や学校組織の領域では、史上最初の絵入り語学教科書として知られる『世界図絵』Orbis pictus(1658)、とくに身分階級の違いを問わず「すべての人に」「すべてのことを」「楽しく」「的確に」教えるための、学校の全面的な改革原理の提案としての大著『大教授学』(1657)がある。この著書は、当時の「金持ち」のためのものであって「貧乏人」のためではない学校、「折檻(せっかん)場」「拷問室」に等しい学校への批判のうえにたつ近代的学校思想の先駆として、とりわけ高く評価されている。教育内容の領域では、新しい知識体系の構想として「汎知(はんち)体系」Pansophiaの名で計画された『汎覚醒(かくせい)』Panegersia(1645)その他の著作(全7巻として構想されたが未完に終わった)がある。これは、「汎知」という名称からすでに推測されうるように、自然と人間と社会とを独自の視点から知的に一貫して把握するという、本来的意味での「百科全書(エンサイクロペディア)―円環的教養―」への試みであった。

[村井 実 2018年6月19日]

『鈴木秀勇訳『大教授学』(1962・明治図書出版)』『堀内守著『コメニウス研究』(1970・福村出版)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コメニウス」の意味・わかりやすい解説

コメニウス
Comenius, Johann Amos; Jan Amos Komenský

[生]1592.3.28. モラビア
[没]1670.11.15. アムステルダム
ボヘミアの宗教指導者,教育思想家,教育改革者。ラテン語学校を経てドイツに遊学し,ハイデルベルク大学などで神学を修めて帰国。「ボヘミア兄弟団」の指導者となったが,モラビアが解放戦争に敗れ,1628年亡命ののちは生涯帰国できなかった。祖国の解放や世界の平和を新しい教育によって実現することを期待して,教育的著述や教育改革に専念した。あらゆる人々が「汎知学」 pansophiaすなわち普遍的な知識をもつための学校改革,教授法の改善をはかった。ラテン語の入門書『開かれた言語の扉』 Janua Iinguarum reserata (1631) は中世ヨーロッパのベストセラーとなった。また『大教授学』 Didactica magna (28~32年,チェコ語で完成,39年,ラテン語訳完成,57年,『教育著述全集』 Opera Didactica Omniaに収められて出版) ,『可感界図示』 Orbis sensualium Pictus (58) などの著書も世界的に有名である。彼の立場は感覚的 (または科学的) 実学主義,客観的自然主義などと呼ばれる。

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