ギリシア神話の愛の神。ラテン語では,アモルAmorあるいはクピドと呼ばれた。ヘシオドスは《神統記》においてエロスを,世界生成の際にカオス(混沌)に続いてガイア(大地)およびタルタロス(深淵)とともに生まれた,神々のなかでも最も美しい神と述べている。またアリストファネスは喜劇《鳥》のなかで,古いオルフェウス教の教義を引用してエロスを,いまだ大地も大気も天空もないとき,夜の女神ニュクスNyxがもたらした世界の卵から生まれ出た万物の創造者,とうたっている。このように,本来エロスは原初的な偉大な力をもった神ではあったが,彼が単独で崇拝の対象とされたことはまれであり,この神のみをまつる聖地としては,ボイオティア地方の都市テスピアイThespiaiの神域が知られているにすぎない。そこでは,前4世紀の後半にプラクシテレス作の彫像にとって代えられるまで,人間の手の全く加えられない自然石が礼拝の対象とされていた。しかし,美術や文学においては,多くの場合エロスはアフロディテの子とされ,しばしばこの女神の随伴者として,ときには複数で表された。エロスは前570年ころの美術に初めて登場するが,そこでは彼は無翼あるいは有翼の青年として描かれている。そして前5世紀ごろからは,エロスは有翼の少年として表されることが普通になった。ヘレニズム期になるとエロスはもはや神としての威厳を失い,目に見えない恋の矢で神々や人間の心を射てたのしむいたずら好きの童子として,文学や美術のかっこうの主題とされた。ギリシア晩期からローマ帝政時代には,これら有翼の童子は大勢で美術の上に登場するようになり,彼らはもはや神話からも独立して,ただ大人の真似であるさまざまな状況を演じるようになる。このようなエロテス(アモレス)は,ルネサンス美術にプッティputti(単数はプットputto)として復活する。
神話では,エロスの母親として,産褥(さんじよく)の女神エイレイテュイアEileithyia,虹の女神イリスの名があげられることもあり,また西風の神ゼフュロスZephyrosを父親とする伝承もある。しかし多くの場合,彼はアフロディテと軍神アレスの子であったとされている。この両者の間には,エロスの兄弟姉妹として,デイモスDeimos(恐怖),フォボスPhobos(驚愕),ハルモニアHarmonia(調和),アンテロスAnterōs(報愛)という子どもがあったという。さらにエロスには,ヒメロスHimeros(憧憬)やポトスPothos(渇仰),そして恋には欠かせないペイトPeithō(口説(くどき)の女神)が付き添うことも多かった。またギリシア時代の末期には,エロスに対応する女性像として蝶の羽をもつプシュケーがつくり出された。愛と魂の葛藤をエロスとプシュケーでもって寓意的に表すことはギリシア末期,とくに帝政ローマ期に広く行われ,多くの美術や文学の作品を生んだ。アプレイウスの《黄金のろば》に収められた〈エロスとプシュケー〉の物語は,その代表的な例である。
執筆者:中山 典夫
哲学者としてエロスの問題をもっとも早くとり上げたのはプラトンであるが,その対話編《饗宴》においてはソクラテスを含む諸論者たちによる,いわば〈エロスの神話学〉の競演が見られる。昔,人間は手足それぞれ4本,顔二つで球体をなしていたのが切断されたために,今日その半身は他の半身を求めるのだという奇想天外なアリストファネスの寓話によるエロス賛美論もその一つである。しめくくりに出てくるソクラテス=ディオティマの説話では,善美なるものを欠いているゆえに善美なるものを求めるダイモンたるエロスの〈愛の道のり〉が地上的なさまざまの美しい事物から神的な美そのものにまで達するさまを描いて〈人間性の協力者としてのエロス〉がたたえられている。そこにいかに上昇の道が説かれていても,エロスがまず欠如するもの,欠如する善美への獲得衝動に発する地上的な営みであることは確かである。これあるによって人間文化の発展も生まれるが,同時にそこから迷いも闘争も生まれてこざるをえない。ところが,このエロスに対して,新約聖書に示された愛,アガペーagapēは,罪なくして人間の苦しみを背負って十字架にかかったイエスに具現される愛であって,人間の罪にもかかわらず神から注がれる絶対的な愛である。それは人間の上昇の道ではなく,神の下降の道であった。それゆえ,この対照的なエロスとアガペーは,人間主義的解放の時期としてのルネサンスにおいては前者が,原始キリスト教精神の回復事業としての宗教改革においては後者が,それぞれ大きく登場してくることになったのである。
いささか奇妙なことに,近代の哲学においてはエロスにせよアガペーにせよ愛の問題がそれとして正面からとり上げて論議されたことはまことに少ない。プラトンが〈ダイモン〉と名づけ,つねに陶酔とか狂気とかに関連づけられるエロスの現象は,近代哲学の主流を占めた理性主義の立場からは扱いにくいものであったのであろうか。はたして例外的に本格的にエロス・性愛の形而上学を展開したのは非合理主義の哲学者ショーペンハウアーの《意志と表象としての世界》(1819)であった。人間男女がのぼせ上がる恋愛は〈種族の意志〉としての性衝動の発現による悲喜劇的幻影にすぎないと彼は説いている。しかし,このエロスの問題に科学的にメスを入れ,現代思想に大きな衝撃を与えたのは,フロイトの〈エロスの心理学〉,精神分析であった。フロイトは意識的思考と無意識世界の矛盾的力動関係を究明し,無意識世界に支配的なのは快楽原則にのみ忠実な性的衝動であるとして,幼児性欲の展開過程をも白日のもとにさらけ出したのである。人間の文化は性的衝動の十全な満足を断念し昇華することで成立するとされたから,そこに文化ペシミズムがつきまとうことになる。ところが,晩年のフロイトは死の本能(衝動),すなわちタナトスとの対比においてエロスを考え,これは各生命体を大きな統一体へとまとめていく衝動であるとし,文化も結局はエロスに奉仕する一過程だとみなすにいたっている。〈エロスの心理学〉はすでにここで〈エロスの哲学〉へと展開されているといってよいであろう。
→愛 →エロティシズム
執筆者:生松 敬三
1898年ウィットCarl Gustav Wittによって発見された特異小惑星の一つ。地球に異常に接近する可能性があるという点と,著しい変光を示すという点で特異である。軌道半長径1.46天文単位,離心率0.22という値から計算すると,近日点付近では地球から2240万kmまで接近する可能性がある。1900年および31年に起こった接近の機会を利用して天文単位の値の測定が行われたことは有名である。エロスの変光は規則正しく5時間16分の周期で繰り返され,変光の振幅はゼロから最大1.7等級にまで達する。これはエロスの形状が不規則な岩石状をしていて,その最短軸のまわりに自転していると考えると説明できる。変光の状態から推定されているエロスの大きさは35km×16km×7kmである。
執筆者:竹内 端夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ギリシア神話の愛の神。ローマではクピド、またはアモルとよばれる。古い伝承では、エロスは大地とともにカオス(混沌(こんとん))から生まれた原初の力、あるいは夜の女神ニクスが生んだ卵から誕生した神とみなされた。古くからアフロディテの子とされているが、お産の女神エイレイテイア、虹(にじ)の女神イリスを母とする説、あるいはヘルメスとアルテミスとの間に生まれた子とするなど、さまざまな説がある。さらに、アフロディテの子としても2通りのエロスがあり、天空の女神アフロディテとヘルメスの間に生まれた子と、もう1人はアンテロス、つまりゼウスとディオネの娘であるアフロディテと軍神アレスとの子である。このように、古代よりエロスをめぐって詩人、宗教家、哲学者などがいろいろな解釈を繰り広げている。あらゆるものを結び付け、愛の力を具現するエロスは、初め翼を備えた気まぐれな美青年として描かれたが、彼の年は時代を経るにつれてしだいに若くなり、ついには弓と矢を持つ子供として表されるようになった。ヘレニズム時代の詩人たちは、エロスがガニメデスとともにクルミの実で遊ぶようすを歌ったが、一方ポンペイの壁画では、エロスは幼児の姿で複数の神々となっている。エロスが戯れに放つ矢は、人間だけでなく神々の胸をも傷つけ、恋の苦しみを与える。そしてほとんどの物語で脇役(わきやく)的な存在であるエロスは、プシケとの恋物語では主役を演じている。
[小川正広]
小惑星433番の名。1898年にドイツのウィットが発見。軌道の長半径が1.46天文単位で、当時知られていた小惑星のなかでは格段に小さく、地球にたいへん接近することがあるため注目を集めたが、今日ではさらに小さな軌道のものがいくつも知られる。5.27日の周期で明るさが著しく変わることから、細長い形のものがこの周期で自転していると考えられたが、近年の測定では長さ35キロメートル、幅16キロメートル、厚さ7キロメートルほどと求められている。
[村山定男]
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古代ギリシア人が身も心も焼きつくす恋情を神格化したもので,神・人ともにそのとりこになって結合する。しばしばアフロディテとともに登場し,少年として表現された。ローマのクピードー(Cupido)。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…このように地球に衝突する可能性のある小惑星は直径1km以上のものに限ると約500個くらいあると推定され,衝突の確率は100万年に1回程度と考えられている。(4)最近では変光の振幅の大きさの差こそあれ,小惑星が変光しているということは一般的な性質と考えられているが,しばらく前までは433番エロスのようにとくに著しい変光を示す(振幅1.7等級)もの,すなわち形状が著しく不規則である(35km×16km×7km)と考えられるものを特異小惑星の中に加えた。(5)小惑星の軌道の平均運動の値を統計的に調査すると,木星の平均運動300″/日と簡単な整数比関係にあるもの(例えば3/2倍の450″という平均運動をもつヒルダ群,1/1倍の300″の平均運動をもつトロヤ群に属する小惑星)は,近くに似たような平均運動をもつ小惑星がない中で群をつくって存在していたり,逆に連続的な平均運動をもつ小惑星が連なっている中で空隙(くうげき)をつくっていたりする。…
… またギリシア神話の星座の起源譚の中には,しばしばオリエントの神話がとり入れられている。たとえばうお座の起源は,怪物の王テュフォンを恐れ,神々がそれぞれ動物に姿を変えて姿を隠したときに,美の女神アフロディテは,息子の愛の神エロスとともにユーフラテス川に飛びこみ,魚たちにかくまってもらった。そこでその魚たちが,その功績によって星にされたと物語られている。…
…代表的なものの一部を,比較のために要約すれば,つぎのごとくである。
[エロスとアガペ]
プラトンの説く,〈エロスerōs〉の愛は,自己に欠けたものへの欲求である点,上記の〈欲求説〉に近い。しかし,その欲求が,対象自体よりも,対象に発現する,より高い美しさ,完全さ,価値に向かい,究極は〈一者〉との合一を目ざすというのは,〈イデア説〉と同根である。…
…語源はギリシア神話の愛神エロスで,性的なイメージを意識的あるいは無意識的に喚起することをさす。性行為は,それ自体では別にエロティックではない。…
…
[宇宙の生成]
幾種かの宇宙生成神話が伝えられるうちで,もっとも規範的なのはヘシオドスの語るもので,ここでは神々も宇宙も生まれ出てくるものと構想される。最初は空虚を意味するカオスが,ついでガイア(大地)とその奥底なるタルタロスが,さらにいわばいっさいの生成の根源力としてエロスが生じた。カオス(中性名詞)からは形なきものどものエレボスErebos(闇)とニュクスNyx(夜)とが,そして夜から輝く上天の気アイテルAithērとヘメラHēmera(昼)とが生まれる。…
…女神ウェヌス(ビーナス)の子で,アモルAmor(〈愛〉の意)とも呼ばれる。もともとローマ人の崇拝の対象としてあった神ではなく,ギリシアのエロスにラテン語の普通名詞をあてたもの。ただしローマ人の眼前にあったエロスは,古いヘシオドス的な大神ではなく,裸体で,肩に翼をつけ,気まぐれに恋の矢を放ついたずら好きの幼児というヘレニズム期の詩人や美術家が好んで描いたエロスであった。…
…そこでは男女の関係もこの陰陽の原理に包摂されると考えられた。 プラトンは,人間が根源的にもつ原初の理想的状態への衝動をエロスと呼んだ。プラトンのエロスは確かに男女の愛を含むものであったが,そればかりではなく,ともに真理を探究することによってイデアの世界に達しようとする師弟間の愛なども含んでいた。…
…このような事情は,心や精神と関係する近代西欧語,たとえば英語psychology(心理学),psychiatry(精神医学)などの語に反映されている。ヘレニズム時代には,女性に擬人化されたプシュケーと愛の神エロス(ラテン語でクピドまたはアモル)の物語が詩や美術に好んで採り上げられた。アプレイウスが伝える物語は,そうした神話にお伽噺の要素を混じえたものである。…
※「エロス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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