シナイ半島(読み)シナイはんとう(英語表記)Sinai Peninsula

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

シナイ半島
シナイはんとう
Sinai Peninsula

エジプト北東端,アフリカ大陸とアジア大陸とをつなぐ三角形半島。アラビア語では Shibh Jazīrat Sīnā'。東はアカバ湾,西はスエズ湾に面する。面積6万 1000km2。行政的には北シナイ Shamāl Sīnā' (面積2万 7574km2,人口 19万 6000〈1990推計〉,県都アリーシュ) と南シナイ Janūb Sīnā' (面積3万 3140km2,人口3万 3000〈1990推計〉,県都トゥール) の2県に分けられている。北部の地中海海岸地帯は高い砂丘が続く。中央部は岩山で最高点はカトリーナ山 (2642m) 。大部分は不毛の砂漠地帯だが,遊牧民とパレスチナ難民が住む。耕地化する計画が進められている。スエズ湾沿いのアブゼニーマ付近で鉄とマンガン,アブールティスなどの油田からは石油が採掘される。中央南部のムーサ山 (モーセ山) は,エジプトを脱出したイスラエルの民の指導者モーセが十戒を授かったシナイ山といわれる。山麓には聖カトリーナ修道院があり,1844年,新約聖書の最古の写本の一つシナイ文書が発見された。一帯は,2002年聖カトリーナ修道院地域として,世界遺産の文化遺産に登録された。 1967年の第3次中東戦争でイスラエルに占領されたが,1979年にエジプトとイスラエル間で結ばれた平和条約に基づいて,1982年4月 25日エジプトに全面返還された。

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デジタル大辞泉の解説

シナイ‐はんとう〔‐ハンタウ〕【シナイ半島】

Sinai》エジプトの北東部、紅海に突き出た三角形の半島。ほぼ全域が砂漠。

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百科事典マイペディアの解説

シナイ半島【シナイはんとう】

地中海,アカバ湾,スエズ湾に囲まれ,紅海に突き出した三角形の半島で,エジプトの北東端を占める。1967年第3次中東戦争でイスラエルが占領,1982年返還。大部分が砂漠で,古代エジプト時代の遺跡・遺物が多く出土。中央部のモーセ山(シナイ山)は初期キリスト教以来の信仰の地で,カタリナ修道院がある。
→関連項目キャンプ・デービッド合意

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大辞林 第三版の解説

シナイはんとう【シナイ半島】

西アジア、紅海につき出た半島。エジプト領。スエズ地峡をへてアフリカ大陸と接する。ほとんどが砂漠。西岸で石油を産する。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

シナイ半島
しないはんとう
Sinai Peninsula

エジプト東端部、アフリカ大陸とアラビア半島との接点にある三角形の半島。東はアカバ湾、西はスエズ地峡とスエズ湾に、それぞれ限られ、北は地中海に面する。面積約6万平方キロメートル。南部は結晶質岩の山地で、この半島の最高峰カテリーナ山(2637メートル)がある。中央部はチーとよばれる砂質の高原、北部の海岸地域は低い丘陵地帯である。ほぼ全域が砂漠で、人口密度はきわめて低い。1967年の第三次中東戦争以来、その大半をイスラエルが占領していたが、82年エジプトに返還された。[田村俊和]

歴史

この半島の山々は『旧約聖書』にも言及され、出(しゅつ)エジプトと、モーセ(前13世紀)が神ヤーウェから十戒を授かった舞台でもある。シナイの名称は、セム系楔形(くさびがた)文字アッカド語の「月の神」を意味するシンsinに由来するとされている。
 古代エジプトの編年上、重要な史料であるパレルモ石碑文によると、すでに第1王朝のウディム王(前3000ころ)が遠征しており、以後第20王朝のラムセス5世(前12世紀)までの諸王が遠征を繰り返し、銅、くじゃく石、トルコ石などの採掘を行って同地を開発した。王朝衰退後はローマ帝国支配下のアラビア属領となり、現在のボスラがその中心となった。初期キリスト教時代は、半島南部の山地に多くの修道者が住み、527年にビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世(在位527~565)がアレクサンドリアの殉教者聖カタリナを記念してジェベル・ムーサ(アラビア語で「モーセの山」の意)の北麓(ほくろく)(1529メートル)に現在の聖カタリナ修道院を建立した。同地はやがてキリスト教徒の聖地となり現在に至っている。1884年に同修道院から有名なシナイ写本(大文字ギリシア語聖書写本)が発見され、また1904~35年にわたって、この付近の神殿からヒエログリフを模したシナイ文字とよばれる文字で刻まれた碑文が発見された。1517年以後はオスマン帝国に併合されたが、19世紀初頭にエジプトは反乱を起こしてオスマン帝国から事実上独立し、1831年半島もエジプトの統治下に入った。他方、1840年のロンドン条約でオスマン帝国の統治権は1914年の第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)まで名目上保持された。1917年1月の北部シナイにおける戦いののちイギリス軍は全シナイ半島を占領したが、第一次大戦終了後エジプトに返還された。ついで1948年のイスラエル共和国の建国とともに半島は両国の国境地帯となり、56年のスエズ動乱の際はイスラエル軍が侵攻、占領したが、国際連合総会の要請により撤退した。67年6月の第三次中東戦争によりふたたびイスラエル軍によって占領された。北部シナイの住民は漁業を含む農業を生業としているが、戦後のガザはイスラエルとシナイ半島とを結ぶ交易・交通の中心地となった。その後両国間の和平交渉が進み、82年4月、「シナイ半島のターバ地区は係争地として残し、今後両国間で話し合いを継続する」との条件付きで、シナイ半島返還が実現し、ターバ区は89年3月に返還された。[高橋正男]

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精選版 日本国語大辞典の解説

シナイ‐はんとう ‥ハンタウ【シナイ半島】

(シナイはSinai) エジプト東端部、アラビア半島とアフリカ大陸をつなぐ三角形の半島。地中海と紅海とを分ける。丘陵性の砂漠が大部分を占める。一九六七年の第三次中東戦争以来、イスラエルが占領していたが、八二年エジプトに返還。

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世界大百科事典内のシナイ半島の言及

【シナイ】より

…セラビート・エルハーデムで発見されたハトホル女神にささげられた神殿には,中王国・新王国時代の記録が残っており,その最後の王は第20王朝のラメセス5世である。古代エジプト王国はシナイ半島を領有していたが,その後ローマ帝国の属領となった。初期キリスト教時代に多くの隠修士が住むようになり,ユスティニアヌス1世はその保護を目的として6世紀中ごろにカタリナ修道院の前身である砦と教会堂をつくった。…

※「シナイ半島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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