改訂新版 世界大百科事典 「シュタイアーマルク」の意味・わかりやすい解説
シュタイアーマルク
Steiermark
オーストリア中南部の州。面積1万6387km2,人口118万3303(2001)。住民の主流はゲルマン系のバイエルン人で,宗教上は90%がカトリック系。州都はグラーツ。北部はアルプスの南東の尾根を形づくる多くの山脈と渓谷から成る。南部はハンガリー平原につながる丘陵地帯で,〈緑の州〉と通称されるように,総面積の51%が森林,26%が牧野で,林業,畜産が栄える。古来この地方の開発は豊富な鉱産資源に負うところが多く,全国産出高の90%を占めるエルツベルクの鉄鉱石をはじめ,各地で褐炭,マグネサイト,黒鉛,滑石,セッコウを産する。大製鉄所のあるブルックやレオーベンを中心とする地域は,重要な重工業地帯となっており,エンス,ムール両川の流域にはパルプ,製紙工業も盛んである。北部の主穀生産型に対し,南部はナシ,ブドウ,ホップなどの栽培が目だつ。ザルツカンマーグートの一角を占める北西部や,南東部の山麓地帯は観光地として有名である。
古くはケルト人が居住。のちローマの属州ノリクムNoricumおよびパンノニアPannoniaの一部となる。6世紀以降南スラブ系のスロベニア人が進出し,8世紀後半からバイエルン大公,次いでフランク国王の宗主権に服し,ゲルマン化が進む。10世紀後半に神聖ローマ帝国辺境防衛のためムール川中流地方を核にカランタニア辺境領Karantanen Markを創設した。1050年同辺境領は,トランガウ伯のオタカル家に帰し,その居城シュティラブルク(現,シュタイア)にちなんでシュタイアーマルクと改称。1180年独立の公国に昇格した。1192年オーストリア大公バーベンベルク家の手に移り,同家の断絶後,1276年新オーストリア大公ハプスブルク家の支配に服した。中世末期に同家の家領が二分され,シュタイアーマルクは,ケルンテン,クライン,イストリア,ゲルツとともに〈奥地オーストリア〉と称され,その筆頭を占めた。15~17世紀にはトルコ軍,ハンガリーの反徒らの再三の侵入を被り,16世紀から17世紀前半には反宗教改革の波に洗われた。18世紀にマリア・テレジア,ヨーゼフ2世の絶対王政は,貴族などのラント等族の勢力を抑え,中央集権への路を開いた。三月革命以後スラブ系住民の間に民族自決の要求が高まり,不穏な動きがつづいた。第1次大戦の結果,1919-20年,スロベニア系の南部は,スロベニアに割譲された。
執筆者:木村 豊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報