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シュティフター Stifter, Adalbert

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

シュティフター
Stifter, Adalbert

[生]1805.10.23. オーバープラーン
[没]1868.1.28. リンツ
オーストリアの作家。ウィーン大学で法律,自然科学を学ぶかたわら絵を修業し,画家を志した。 1840年頃から作家活動を開始。 50年以後リンツで視学官をつとめ,教育改革に情熱を注いだ。ドイツ古典主義の教養理想を受継ぎ,動乱の時代のなかでこれを守り抜こうとした。短編集『石さまざま』 Bunte Steine (1853) などにおいて,ボヘミアの森の自然と人を題材に,目立たない静かなものにひそむ永遠の偉大さを抑制した筆致で語り続けた。また注目すべき2つの長編のうち,『晩夏』 Der Nachsommer (57) はドイツ教養小説代表作であり,『ウィティコー』 Witiko (65~67) は民族共同体への愛にはぐくまれた一大歴史小説である。肝臓癌の苦痛にさいなまれて,みずから節度と克己の生涯に終止符を打った。

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百科事典マイペディアの解説

シュティフター

オーストリアの小説家。画家でもあり,視学官も務めた。短編集《石さまざま》の序言で,〈小さいもの〉に表れる〈おだやかな法則〉の偉大さを説く。代表作は《晩夏》(1857年)。

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世界大百科事典 第2版の解説

シュティフター【Adalbert Stifter】

1805‐68
オーストリアの小説家。南ボヘミアのオーバープラーン(現,ホルニー・プラナー)に生まれ,少年時代に亜麻布商の父を失う。修道院付属の学校を経て,ウィーン大学で法学と自然科学を学ぶ。家庭教師をしながら生計を立て,上流社会にも知己を得た。学生時代からの恋愛は不幸な結果に終わった。初め画家を志すが,35歳のとき偶然発表した短編《コンドル》が認められ,作家としての道を進んだ。文筆活動と並び画業にも生涯精進し続けた彼の文学の特色は,画家の眼でとらえたその美しい自然描写にあるといっても過言でない。

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大辞林 第三版の解説

シュティフター【Adalbert Stifter】

1805~1868) オーストリアの小説家。画業にすぐれ、画家の目で事物を精密に観察・描写した。代表作「石さまざま」「晩夏」

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

シュティフター
しゅてぃふたー
Adalbert Stifter
(1805―1868)

オーストリアの小説家。10月23日、モルダウの源流に近い市場町オーバープラン(現チェコ領ホルニプラーナ)に生まれる。13歳まで南ボヘミアの自然のなかで幼年時代を過ごす。父親の事故死(1817)の翌年、上部オーストリアのクレムスミュンスターにある「祈りと労働」を標語とするベネディクト会修道院付属高等学校に入学。西南にアルプス連峰を望むこの地で、ヨーゼフ2世以来の啓蒙(けいもう)主義的カトリシズムの精神に培われた人文主義的雰囲気のうちに古典的教養世界と接触する。
 1826年ウィーン大学へ進学。休暇中に故郷で知り合ったファニー・グライプルとの恋愛体験(1828~1833)を通じて自己の本性との対決を迫られ、この体験は情熱と運命の問題として『習作集』6巻(1844~1850)に繰り返し描かれた。法学部に籍を置いたが、自然科学と絵画にひかれ、卒業後も上流階級(宰相メッテルニヒなど)の子弟の家庭教師をしながら画家修業に専心、展覧会にも出品。1840年偶然の機会に『コンドル』で作家としてデビュー。1842年の皆既日食の観察、1848年の三月革命体験を通じて、自然と人間の営みとの隔たり、人間内部の獣的資質の問題、自由と節度の危機を痛感。自己と時代の危機を克服する道を「人間が人間になること」に求め、作家としての使命感と教育の重要性を自覚した。
 1849年、教育行政官として上部オーストリアの町リンツに赴任。作家として『石さまざま』(1853)、『晩夏』(1857)、『ウィティコー』(1865~1867)などを発表するかたわら、「自由とは何か」「家庭教育」「言葉の乱れ」などの論説を新聞に発表し、実科高等学校(レアールシューレ)、教育施設の改善、文化財の保存に尽力した。子供に恵まれず、養女にも先だたれた晩年は孤独であった。1868年1月、肝臓病の激痛のため頸部(けいぶ)を切って自殺を図り、2日後の28日に死亡。リンツ市聖バルバラ墓地に埋葬された。[谷口 泰]

おもな短篇集


習作集 Studien
 1840年のデビュー作『コンドル』から1846年の『彫りこみのある樅(もみ)の木』まで、雑誌に発表された作品中13編が加筆・改作され、1844年から1850年にかけ6巻にまとめられた。これには「森の雅歌(がか)」といわれる『喬木(きょうぼく)林』、「最愛の子」として死の直前まで改作を試みた『曽祖父(そうそふ)の書類綴(と)じ』、情熱の浄化を描いた『ブリギッダ』などが収録されている。雑誌版より単行本版への改作に際しての基本姿勢は「激情の克服と倫理的方向への転換」にあった。両版の関係は初稿と決定稿ではなく、「いずれがより愛らしいか決めかねる野のバラと高貴なバラ」(ル・フォール)であって、それぞれ独立した作品とみなされる。
石さまざま Bunte Steine
 1843年から1852年までに雑誌、年鑑などに発表された5編の作品は、『聖夜』が『水晶』と改作・改題されたように、いずれも石にちなんで『みかげ石』『石灰石』などと改められ、新たに書き下ろされた『白雲母(うんも)』とあわせて1853年2巻にまとめられた。これには、ヘッベルの嘲笑(ちょうしょう)「カブトムシとタンポポの詩人」に対する応酬として、小さきものへの畏敬(いけい)を説く前書きが付された。これは、自然のみならず人間の心のうちにあって活動し、人間の文化と歴史を根底において支える穏やかな法則、つまり「すべての人々がそれぞれ宝石として尊ばれることを欲する法則」を述べたもので、単なる応酬を超えて詩人の信仰告白と、激動と熱狂の時代に対する批判とみることができる。
物語集 Erzhlungen
 没後1869年に出版。ここには1840年代の作品『森ゆく人』『プロコープス伯』など3編と、1860年代に『ウィティコー』と並行して成立した『森の泉』『ゼンツェ家の接吻(せっぷん)』、生前には掲載を拒否された『敬虔(けいけん)な言葉』など4編が収録された。ともすれば自然描写の退屈な作家とみられた詩人の「もの静かで心のこもった精密な自然描写の背後に、法外なもの、病理学的なものにひかれる傾向」を認めたのはトーマス・マンであり、その静寂と調和の異常さを予感し、現代的不安との関係を指摘したのはノサックであった。「シュティフターは強調的意味で人間の作家である。彼の文学は人間から出発し、人間を目ざしている」(H・クーニッシュ)。[谷口 泰]
『谷口泰訳『曽祖父の書類綴じ』(1980・愛育出版) ▽手塚富雄・藤村宏訳『世界の文学14 石さまざま』(1965・中央公論社) ▽谷口泰「書誌・日本におけるシュティフター研究文献――1936~1977年」(日本独文学会編『ドイツ文学』61所収・1978・郁文堂)』

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世界大百科事典内のシュティフターの言及

【児童文学】より

…一方では,L.ティーク,ブレンターノ,F.de la M.フケー,E.T.A.ホフマンが不思議な物語を手がけ,その流れから創作としてぬきんでたW.ハウフの《隊商》(1826)が生まれた。T.シュトルムやA.シュティフターにも子どもに向く作品はあるが,レアンダーR.Leanderの《フランス風暖炉のそばの夢想》(1871)とザッパーA.Sapperの《愛の一家》(1906)が大きな収穫となった。前者は童話,後者は家庭小説である。…

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