ドイツ文学(読み)どいつぶんがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ文学」の意味・わかりやすい解説

ドイツ文学
どいつぶんがく

ドイツ文学とは、ドイツ語で表された文学の意である。国別でいえば、ドイツ、オーストリア、リヒテンシュタイン、およびスイスでは人口の約3分の2がドイツ語圏に属する。あわせると狭いヨーロッパ大陸の中ではかなりの地域を占めるが、第一次世界大戦後のオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊とドイツ国の縮小、第二次世界大戦後のドイツ国の縮小により、19世紀に比べて規模は小さくなっている。このほかにもドイツ語を話す人々の住む地域は世界各地にあるが、長いドイツ文学の歴史をとらえるうえでは無視してよい。ドイツ帝国がアフリカやアジアに植民地を獲得したのは19世紀も末になってからであり、それらすべては第一次世界大戦後にドイツ統治からはずれたため、旧植民地地域におけるドイツ文学は存在しない。その点は、英語、スペイン語、フランス語、ポルトガル語による文学との大きな違いである。それゆえ、ピジンドイツ語(ピジンとは、異なる母語間でのコミュニケーションのため共通語として発達した言語)のようなものも発生していない。現在、英語の語彙(ごい)のドイツ語への浸透が著しい。英語が国際語としての地位を確立してゆくなかで、ヨーロッパ統合が言語面にどのような影響を与えるか、注目されるところである。

 標準語としてのドイツ語は、どこかの大都市のことばが基準になっているのではない。標準的なドイツ語は、高地ドイツ語という南部ドイツ語を基底として、官庁共通文語やルター聖書訳のことば、全国の舞台共通言語、そしてとりわけ何世紀にもわたる文人・知識人たちによるドイツ語浄化向上の努力の積み重ねによって築きあげられた。それゆえ、ドイツ文学の特徴の一つとして、次のような現象があげられる。すなわちラントLandという単語は、陸・土地・国土・地方・田舎・行政単位としての州、など多くの意味で使われているが、ドイツ文学では必ずしも方言を使わなくてもラント文学が盛んであり、佳作が多いということである。たとえば、自然主義時代を代表する作家の一人ズーダーマンは、普仏戦争以後急速に経済成長してゆくベルリンを背景に、名誉の観念を支えるものはもはや身分社会的・騎士道的価値ではなく財力である、と登場人物の一人に言わせる戯曲『名誉』(1890)で大好評を博した。しかし今日では、出身地東プロイセンの情景を描いた小説によって再評価されている。また、マゾヒズムという名称の出所であるザッヘル・マゾッホも、やはり出身地のガリツィア地方の郷士やユダヤ人を題材とした小説で再発見されている。トーマス・マンの『ブデンブローク家の人々』(1901)では、北ドイツ・リューベックの名家の女性がミュンヘンの商人に嫁ぎ、厳格な標準語を使っていた実家とのことば遣いの差を含め、生活感覚のあまりの違いから、離婚に至るさまが書かれている。

 身分や階級といった上下の差異、地域や民族といった横の差異の表現は、文学の大切な役割といえる。エンツェンスベルガーによれば、ドイツ語圏の人々の歴史は、通常の政治的権力闘争を超えて、文化的統一体としての根幹にかかわるところで、幾多の闘争の過程を経てきた。有史以前の、ゲルマン人と、それに接するケルト人やスラブ人などとの併存および角逐(かくちく)があった。たとえばウィーンという地名の語源はケルト語の川に関することばであり、時代は下がるがベルリン(12世紀創建)はスラブ語の「沼地」であったろうと推定されている。次にローマ帝国領とその北方ゲルマン人領の区分があった。リーメスLimesとよばれるローマ帝国国境線(防塁)は、今日なお上空からの写真撮影で鮮明にとらえることができる。民族大移動期にはゲルマン人部族間で激しい征服戦争が行われた。宗教改革に始まる長い新教と旧教の対立。近代国民国家の実現をめぐって、オーストリア中心の大ドイツ主義とプロイセン中心の小ドイツ主義がきしみあった。そして第二次世界大戦後の東西ドイツのつばぜり合いがあった。こうした事情が、イギリスのロンドン、フランスのパリのように文芸を含む文化の中心地が1か所に集中することを妨げた。このような中心への集約力と、地方性や分断などによる離反力の拮抗(きっこう)するダイナミズムがドイツを生気づけた時期に、ドイツ文学は三度の最盛期を迎えている。

 ちなみに、文学の主要ジャンルは詩、小説、戯曲であるが、やや範囲を広くとれば、多少とも芸術味のある随筆や評論、紀行、日記、書簡、自伝、評伝、一般読者向けの学問的著作、説教、人生訓、翻訳などが含まれる。ほぼこれらすべての方面でゲーテはドイツ文学を代表する著作を残しており、その点からもゲーテの存在のぬきんでていることが確認できる。

[樋口大介]

ドイツ文学の歩み

中世

中世前期の文学は、圧倒的にキリスト教に基づくラテン語文学で、担い手は僧侶(そうりょ)である。その中で古高(ここう)ドイツ語による武人叙事詩『ヒルデブラントの歌』(850ごろ)が異彩を放つ。ゲルマン叙事詩の通例として頭韻(アリタレーション)が用いられている。9世紀中葉の僧オトフリート・フォン・ワイセンブルクの作である『福音の書』では、近代に至るまでドイツ詩でよく用いられる行末韻、四行一詩節構成がすでに使われている。1050年ごろから文学活動は活気を加え、第二次十字軍(1147~49)以降、宗教文学よりも世俗文学が優勢となる。

[樋口大介]

第一次最盛期(1190~1230)

中世文学の最盛期は、ホーエンシュタウフェン王朝の最盛期と重なる。皇帝ハインリヒ6世(在位1190~97)、フリードリヒ2世(1212~50)の時代である。皇帝は強大を誇った教皇(法王)権に対等の立場をとる。ローマ皇帝の継承者として神から直接ヨーロッパの統治権を授かっていると考えた彼らの時代は、第三次から第五次までの十字軍、ドイツ軍の度重なるイタリア遠征、シチリア島を本拠地にしていたフリードリヒ2世の二度のドイツ行幸、ドイツ国内における対抗皇帝の登場など、広範囲にわたって交通のしげき時代であった。文学の担い手は、騎士やミニステリアーレとよばれる武力と知力を売り物に各地の領主に奉公した人々である。ヨーロッパの中心にいるという自覚をもった彼らは、文芸の先進地域であった南および西ヨーロッパから伝来した題材をおもに取り上げた。スペインのアラビア文芸やプロバンスの吟遊(恋愛)詩人(トルーバドゥール)から北上してきた宮廷恋愛詩と、フランス・イギリス両国にまたがるケルト伝説を種子(たね)として発達してきた聖杯物語、アーサー王と円卓の騎士、トリスタン伝説などの宮廷叙事詩がそれである。なかでも、フランス12世紀後半の詩人クレチアン・ド・トロアの影響が著しかった。宮廷叙事詩の主要な作家は、ハルトマン・フォン・アウエ(『グレゴリウス』『哀れなハインリヒ』『イーベイン』)、ウォルフラム・フォン・エッシェンバハ(『パルチバル』『ウィレハルム』『ティトゥレル』)、ゴットフリート・フォン・シュトラスブルク(『トリスタン』)である。恋愛抒情詩(じょじょうし)はドイツではミンネザング(愛の歌)とよばれる。高貴な身分の夫人への愛という本来の宮廷恋愛詩の型はラインマルによって完成された。しかし、おそらくドイツにおける貴婦人と騎士との関係がフランスとは異質なものであったため、ワルター・フォン・デァ・フォーゲルワイデは「高い愛」に加えて「低い愛」、つまり平民の女への愛を歌った。この傾向はその後ナイトハルト・フォン・ロイエンタールによって強められた。ちなみに、ミンネザングの作者であるミンネゼンガーは詩のみつくったのではなく、楽器をつま弾きながら朗唱した。そのありさまは、19世紀の作曲家ワーグナーの『タンホイザー』第二幕、ワルトブルクの歌合戦の場を見ることによって、想像することができる。ワルターやナイトハルトの曲は不完全ながら保存されており、20世紀における古楽復興に伴い、演奏されたものを聞くことができる。やや時代が下がって、15世紀前半の南チロールの詩人オスワルト・フォン・ボルケンシュタインは、ルネサンス的な個人の歌を清新に響かせ、詩人としてだけではなく作曲家としても高い評価を受けるようになった。ゲルマン系文学では叙事詩『ニーベルンゲンの歌』(1205ごろ)が傑出している。

 中世後期においては、盛期に好まれた叙事詩や恋愛詩が継続すると同時に、辛辣(しんらつ)な観察の加わった『ヘルムブレヒト』や、さらに野太い笑いに発展したシュトリッカーの『司祭アーミス』(1240ごろ)のような作品が注目される。

[樋口大介]

神秘主義

後世の文学に底流としての影響力をもった点で、神秘主義は見逃しえない。男性ではエックハルト(1260ごろ―1328)、タウラー(1300ごろ―1361)、ゾイゼHeinrich Seuse(1295ごろ―1366)ら、女性ではヒルデガルト・フォン・ビンゲンHildegard von Bingen(12世紀)やメヒティルト・フォン・マクデブルクMechthild von Magdeburg(1207―1282)らの教説である。神が恩寵(おんちょう)によって人の内面のすみずみまで行きわたるという体験は、個人が仲介者もなく原罪の重荷に打ちひしがれることもなく神と交わるという敬虔主義(けいけんしゅぎ)を通して、ゲーテ時代の文学の酵母となる。また神秘主義の源流となっているプラトニズムにおける現象界とイデア界の二分、神秘主義における肉に属するもの(感性界)と霊に属するもの(神との神秘的な合一)の二分は、宗教から離れていきつつも、近代ドイツ文学の重要な人々に受け継がれている。ムシル(1880―1942)は『幼年学校生テルレスの惑い』のなかで、世界は二重であるが、それは「数に実数と虚数がある」のと同じようなかたちである、と述べている。似たような二重性は、リルケやカフカやノサックなどでも重要な表現要素となっている。

[樋口大介]

近世

文字を記す素材としての安価な紙の使用は14世紀末に始まっている。15世紀中葉の印刷術の発明により、大衆的出版物の刊行が可能となった。宗教改革はこれを最大限に利用し、信仰の単位として個人をたてることで市民を鼓舞する。文芸復興は一挙に新たな教養の地平を拓(ひら)く。人文主義は印刷術の高度な洗練と相携え、みごとな工芸美を備えた本を生み出す。この時期のイギリスのシェークスピアやフランスのラブレーに匹敵する文人といえば、宗教改革者ルターがあげられる。ルターはそれまでのラテン語聖書に代えて、旧約をヘブライ語の、新約をギリシア語の原典からドイツ語訳した。これはドイツ共通文語の成立に多大の貢献をしている。大衆の話しことばを生かそうとしたルターの聖書文体は、20世紀のカフカやブレヒトの作品中にも顔をのぞかせている。ルターはまた宗教歌曲の作詩・編纂(へんさん)者として、ドイツ一国を超えて親しまれている。ニュルンベルクの靴匠ハンス・ザックスは、16世紀後半に豊穣(ほうじょう)な創作活動をした。中世後期からギルドに属する都市職人の間で、一定の規則にのっとった歌曲の制作競争が行われたが、ザックスはその職匠歌人(マイスタージンガー)であった。また日常口語的な生気あるセリフを活用した復活祭劇、謝肉祭劇、受難劇にも佳作を残した。

 民衆本とよばれるドイツ版御伽(おとぎ)草子では、『ティル・オイレンシュピーゲル』『美しいマゲローネ』『ゲノフェーファ』『ヨハン・ファウスト博士の物語』(1587)などが知られ、韻文および散文を用いた物語では、『フォルトゥナトゥス』、ブラントの『阿呆船(あほうぶね)』(1494)、写実的作風のウィクラムなどが登場する。

 17世紀はバロックの時代とよばれる。バロックということばは、ポルトガル語で真珠が「いびつできらきら多彩な色を発する」という意味のバロカという形容詞に由来するという説が有力である。もともと装飾過剰で均斉を欠くという蔑称(べっしょう)であったが、20世紀に入って美術史家ウェルフリンがルネサンスと並べられる独自様式であると唱えて以来、さまざまな見直しが行われてきた。実際17世紀ドイツでは、もったいぶって威風堂々とした、しかもこみいった長たらしい文章が競って書かれた。王侯貴族が国家の権威を代表するかたちで公の場に出るとき、どのような態度、ふるまいをするものであるか、どのような修辞を駆使して口上を述べるべきものであるか、といったところを磨き上げていった。その雄弁様式は後のシラーに伝わっている。

 17世紀前半には、三十年戦争(1618~1648)によってドイツは荒廃の極みに達した。この世紀の文学を貫く基調は、この世の空しさ、人生のはかなさであって、戯曲ではグリューフィウス、小説ではグリンメルスハウゼンを代表とする。後者の『阿呆(あほう)物語』(1669)は、ピカレスク小説としても、三十年戦争を生きのびる人物の描写としても秀作である。グリューフィウスの作品にはプロテスタンティズム宣揚の意図がこめられているが、反宗教改革の立場からはイエズス会劇が盛行した。また、各地に言語改善のための協会が設立され、ドイツ語浄化と表現力の向上が図られた。ゲルハルト、フレミング、シュペー、ジレージウスらの宗教詩は、今日なお多くの人々に愛されている。

[樋口大介]

第二次最盛期

ドイツ文学の第二次最盛期は、およそ1770年から1820年の間である。宗教改革とルネサンスは、16世紀には豊かな実りをもたらす結びつきを生まなかった。宗教と政治上のけわしい対立抗争のなかで、文人たちは文芸に専念する余裕がなかった。自由意志を否定し、罪障感を強調するルターの思想は文芸向きといえず、個人の覚醒(かくせい)によって直接神と出会うという敬虔(けいけん)主義が介在しなければならなかった。一方文芸復興は、それに見合うだけのドイツ語の表現能力の向上を待たなければならず、さらにイギリス・ルネサンスの生んだシェークスピアのような偉大な範例に出会う必要があった。ニーチェがゲーテのことを「古典古代と敬虔主義の間」と要約したのは、そうした事情を物語っている。中世神秘主義から敬虔主義につながる系譜の中で、信仰告白という性格をもつ書物は数多く著されたが、告白を宗教からもっと個人の生へ大胆に向ける方法を教えたのはルソーであった。

 この時期の文人はおおむねプロテストタント系の大学を出ており、新教聖職者の家系出身者も多い(レッシング、ウィーラント、ビュルガー、クラウディウス、ジャン・パウル)。このことから、プロイセンのフリードリヒ大王が間接的に及ぼした感化を想定してよいであろう。大王自身はフランス語の賛美者で、ドイツ文学を軽蔑(けいべつ)していた。しかし、国力の上昇と領土拡大を目ざすその強烈な意志、そして結果的にドイツ国内でカトリックのオーストリア帝国と対等に向き合えるプロテスタンティズム国家を築いたこと、それがドイツの若い文人たちに刺激を与えたと考えられる。

 ゲーテより年長の人々の中では、レッシング、クロプシュトックウィンケルマン、ウィーラント、ヘルダーなどが特筆すべき存在である。レッシングは啓蒙(けいもう)主義を代表する作家で、道義心の強さは無類であり、理性という武器による裁断の切れ味にすごみがある。クロプシュトックは通常の韻律を捨ててホラティウスら古代詩人のオード詩型を採用した抒情(じょじょう)詩と、熱狂的な宗教感情を盛った長編詩『救世主』とによって、若者たちのアイドル詩人となった。ウィンケルマンは、それまでローマ中心だった古代観をもっとギリシアに引き寄せ、「高貴な単純さと静かな偉大さ」という簡潔な定式のうちに要約した。この定式は、100年以上のちにニーチェが「ディオニソス的なもの」という、それとは正反対の陶酔的・悲劇的要素を指摘するまで、ドイツ人の古典古代観を決定した。ゲーテとシラーが古典派とよばれるのも、敬虔主義伝来の自我の自由な伸長が「超人」の方向へはみ出そうとする傾向に抑制を加え、調和ある均衡をもたらすものがウィンケルマン的古代であったからである。「超人」という語は、ニーチェが華々しく用いる以前にゲーテの『ファウスト』に出ている。並外れた能力にめぐまれた人間の自我意識の高揚が、誇大妄想すれすれのひとりよがりに陥る危険を、このことばは孕(はら)んでいる。『若きウエルテルの悩み』や『タッソ』は、作者ゲーテにとってそうした危険を浮き彫りにする自戒の作品だった(W・H・オーデン)。次にウィーラントは、古典古代を優美きわまりないロココ風の文体に織り上げた。ヘルダーの思想のなかでは、古典古代は全体の一部を占めるだけである。さまざまな地域のさまざまな民族はそれぞれ根源的な歌声を有する。そうした諸民族の独自性が、相互に作用し合いながらも保持されていくなかで、文化の発展が実現していく。ゲーテにシェークスピアとオシアン、そしてフォークロア的なものを教えたのはヘルダーであった。

 ゲーテと並び称されるシラーは、19世紀から20世紀前半にかけて、ゲーテ以上にドイツ人に愛された。歴史上の有名人物を題材にとって文字どおりドラマチックな葛藤(かっとう)を展開させる作劇術は、ゲーテの作品より親しみやすく、作者の人格は、「高邁(こうまい)な男らしい性格、熱情と理想精神との合体、病弱な体に宿っていた高貴な意志」(片山敏彦)によって人を感銘にいざなった。

 敬虔主義的な自我の伸長はもんどり打ってカトリック的普遍に反転する。その上昇とも下降ともつかぬ斜面を行きつ戻りつしたのは、ロマン派の人々である。イエナ派(ノバーリス、シュレーゲル兄弟、ティーク)、ハイデルベルク派(アルニム、ブレンターノ、グリム兄弟)、ベルリン派(ホフマン、シャミッソー、フケー)それにアイヒェンドルフ。ラント文学的にはシュワーベン派(ウーラント、ケルナー、シュワープ)も含まれる。イエナで教えていた哲学者フィヒテを参考にしよう。フィヒテの第一原理は「自我は端的に自己自身を定立する」である。この自我(感覚し認識し体験し行動する統一体)は、個々人ばらばらのそれではなく、万人に共通のものであって、その意味で共同主観といってよい。この原理もプラトニズムの一変種であるが、フィヒテの表現をとれば、主観は目くるめき特権的な王座に据えられる。と同時に客観ないし外部世界とのかかわりにおいては、はなはだ不安定な位置に置かれる。共同主観としての自我の立場は、中世敬慕、プロテスタントであってもカトリック的普遍にひかれる傾向、フォークロア的基底の尊重に結びつく。一方、客観に対する自由なふるまいの余地が自我に与えられ、それどころか主観が客観を生み出すというニュアンスまで含むところから、シュレーゲル弟の「ロマンティシェ・イロニー」やノバーリスの「魔術的観念論」、童話や妖怪変化(ようかいへんげ)愛好癖などが生まれる。ロマン派文人の多くは百科全書的な膨大な教養知識の持ち主であったが、フランス革命後の世代として社会革新への期待を捨て、歴史学派の源流となる。

 古典派とロマン派の中間に位置づけられるのがジャン・パウル、ヘルダーリン、クライストである。ジャン・パウルは多量の読書によって膨大な抜き書きをつくっていた。彼の文章は衒学(げんがく)臭を帯びて難解だが、同時代人には人気が高かった。もって当時の読者の教養の高さがうかがえる。ジャン・パウルは、ドイツ観念論が無神論であることを見抜き、難解な、しかし無類に心優しい言い回しで、神の存在や魂の不死への信仰を維持すべきことを説いた(ゲオルゲの詩による)。ヘルダーリンはクロプシュトックの先例にならって無韻のオード詩形による長編詩を残した。彼はきわめて敬虔(けいけん)な詩人であったが、神あるいは神々は超越的存在というより世界に内在するものであり、天、日、山河、国土などのうちに人間が見出すべきものであった。神なき時代の神託をそこに聞きとろうとする熱心な読者が多い。クライストは戯曲と短編小説に佳作を残した。そこでは、思いがけぬ時のすきまから、人間の心の深みが露出する。またドイツ文学では、会話を直接話法ではなく、接続法動詞を用いた間接話法で表すことがよく行われ、それによって会話が作品の場の空間においてではなく、作中人物たちの、そして読者の心中において響くのであるが、クライストはこの話法の名手であった。

[樋口大介]

19世紀

「ドイツ国民による神聖ローマ帝国」は1806年に終り、その皇帝はオーストリア皇帝となる。ナポレオン軍のドイツ侵入以前には350を超えた帝国等族(帝国議会を構成する諸身分)は、ナポレオン政治のもとで統合が行われ、ウィーン会議後のドイツ連邦の構成員は35の諸侯と4の自由都市となった。しかし、国民国家形成の課題は先送りされた。ウィーン会議以降は、1848年の三月革命に至るまで、平和が続く。けれども、一度フランス革命を目の当たりにした以上、政治的急進派は過激化しないわけにはいかない。逆にこの平和のなかで家庭を中心にしてささやかな満ち足りた生活を営む人たちを形容する語を用いて、この時期は「ビーダーマイアー(正直者というほどの意味)」とよばれる。産業革命と資本主義は成長を続けるが、ドイツ人の大多数の意識をそれによって規定するまでには至っていない。それまでのように、ワイマール、イエナ、ハイデルベルクといった小さな町が大きな文学活動の根城になることはなくなる。出版社もミュンヘン、ケルン、ベルリン、ライプツィヒ、フランクフルト・アム・マイン、シュトゥットガルトなど比較的大きい町に集中するようになる。

 19世紀前半に、政治への参加を重視した人たちのなかから、2人の重要な作家が生れる。1人はビュヒナーで、スイス亡命後若くして死んだ。現に革命が進行している渦中における革命家の言行や表情を、ほとんど体温が感じとれるくらい生々しく劇化した『ダントンの死』(1835)や、人体実験に利用される哀れな一従卒を主人公とする『ウォイツェック』(1836未完、1879刊)など数少ない彼の作品はどれも際だった独創性で光っている。もう1人はデッセルドルフからハンブルクに移住したユダヤ人家庭に育ったハイネで、やはり亡命先のパリで客死した。19世紀には抒情(じょじょう)詩人としてゲーテに匹敵するほどの高い国際的名声を博していた。鋭い風刺と機知のみなぎる評論や紀行文でも目覚しい仕事を残した。ハイネのことば遣いには、どこか熟しきらず展開が寸詰まりになるという印象があり、のちに同じユダヤ人の批評家カール・クラウスに酷評されるが、着眼点が鋭利で広範囲にわたることは驚嘆に値する。これに対し、ラント文学者的な生涯を送ったメーリケとドロステ・ヒュルスホフは抒情詩に秀でていた。メーリケはシュワーベン地方で生涯を過し、安隠自足を絵にかいたようなビーダーマイアー様式の典型的作家と久しくみなされていたが、むしろ生を取り巻いている怪しく揺れ動く不気味なものをとらえた詩人であり、フランスのボードレールに近い、とのとらえ方もされている。ウェストファーレン地方で育ったドロステ・ヒュルスホフは、自然の中に息づくなまなましい生き物の存在を力強く表出した。

 19世紀の中葉から後半にかけて、ある特定地方を舞台にした小説をもっぱら書くというラント文学的な作家が、おもに小説、そして詩に重要な作品を残す。スイスのケラー、ボヘミアのシュティフター、ドイツ北海岸の港町フーズムのシュトルム、ブランデンブルク地方のフォンターネなどである。彼らのスタイルは詩的写実主義とよばれる。ここで「詩的」という形容には、特別高尚な意味や、またフランス・リアリズムのような精緻(せいち)さと明快さを欠いている、という否定的評価を読み込む必要はない。この時代までのドイツの都市はほとんどみな小都市といってよく、一歩郊外に出れば茫々(ぼうぼう)たる田野森林河川が広がっている。そうした背景のなかでは、人事のこみいったもつれや、事件が積み重なって最後にクライマックスに達するといった劇的な展開は期待できない。長編小説であっても、間延びすれすれのゆったりした叙述のなかで、わずかに1か所身も凍るような危機が裂目をあける。そこまでの叙述は言わず語らずのうちにこの一瞬を予感させるものであり、それ以降の叙述はこの一瞬を咀嚼(そしゃく)するためにある。危機といっても誰の身にも起こりうるありふれたもので、しかし当の本人にとっては生涯を左右する。単純化していえば、シュティフターやフォンターネの詩的写実主義は、そうした作風である。

 ドイツは、19世紀の100年を通じて人口は3倍(ベルリンは10倍)となり、産業と科学技術と軍事力の分野でヨーロッパ大陸最大の強国にのし上がった。交通網は飛躍的に発達し、おびたたしい企業が設立され、19世紀末からは電機・化学産業が急速に台頭する。世界は帝国主義競争の時代に突入し、国内的には社会民主党の躍進に象徴される社会矛盾があらわとなる。こうした背景と、文学の担い手が1871年におけるドイツ帝国の成立以降の世代に移ったこととが相まって、詩的写実主義と1890年に始まる自然主義およびそれ以降の文学との間に深い断裂を生じさせた。文明のダイナミズムと喧騒(けんそう)とが読者の耳目を驚かすようになる。

[樋口大介]

第三次最盛期

19世紀末からベルリン、ウィーン、ミュンヘンなど大都市が文学活動の中心となり、1900年から30年の間は第三の最盛期とみなされる。とりわけウィーンを中心とするオーストリア・ハンガリー帝国圏内で優れた作家が輩出した。近代オーストリアの生んだ最初の大作家は19世紀のグリルパルツァーであるが、気むずかしい狷介(けんかい)な性格のこの劇作家の特性をなすものは、ペシミズムに裏打ちされた、人間に対する曇りない洞察のまなざしであった。1866年のプロイセン・オーストリア戦争敗北後、オーストリア・ハンガリー帝国は未来のない帝国であったため、余計な期待に惑わされる必要がなく、しかも多民族国家であって人的、文化的な内部交流が盛んだった。文人たちは、哲学と科学の到達した高い水準をわがものとし、ことばについての自覚を飛躍的に犀利(さいり)なものにし、文明と精神の危機にすこぶる敏感であった。宗教的にはカトリック圏だが、ユダヤ系作家の寄与が顕著である。ゲーテの場合、祖父は仕立屋で、三代かかって教養と立身の階段を登りつめたが、18世紀の啓蒙(けいもう)専制君主の時代から徐々に始まったユダヤ人解放の結果、ユダヤ人にも同じような現象がみられた。たとえばホフマンスタールは真にオーストリア的な繊細で高尚なドイツ語を駆使したが、彼の曾祖父は商事会社の支店長としてプラハからウィーンに出て、一代で帝国の世襲貴族に任ぜられるほどの成功を収めた。シュニッツラーは都会的な愛欲の心理表現では他の追随を許さなかった。彼の祖父はハンガリーの寒村で一生を送ったが、父はウィーンに出て医学者となった。カフカの祖父はボヘミアの片田舎の肉屋で、父は少年のうちに行商人となり、のちプラハの中心街に服飾品店を開業するまでになった。カフカ自身はプラハ大学出の法学博士である。シオニズムの父といわれるテーオドル・ヘルツルは秀れた小説家でもあった。彼はブダペストの商人の家に生まれた。

 カントは批判哲学によって神を哲学的思考の世界から追放したが、人間の認識能力の及ばない「物自体」というものがあるとした。ニーチェは激しいキリスト教批判を行って倦(う)まなかったが、そこにはイエス・キリストへの「嫉妬(しっと)」が歴然としている(アンドレ・ジッドの言)。かつて宗教が占めていた位置は、ニーチェの「神は死んだ」の断言でかたづきはしなかった。第三の最盛期を代表する作家はリルケ、ムシル、カフカである。彼らの作品では、文学という俗なることばが織りなす具象的な光景の間から、三人三様の神秘なもの、不可思議なものが姿をのぞかせる。

 ウィーンやプラハでは文人や芸術家が特定のカフェに集まって知識や情報の授受や意見の交換を行った。この交友圏にはまた個性的な女性たちが参加していて、この時代の文学に濃厚なエロティシズムがただよう一因となった。オーストリア・ハンガリー帝国出身の著名作家は上記のほかにも多い。日本では小説よりフランス王妃マリー・アントワネットなどの伝記で知られるシュテファン・ツワイク、ハプスブルグ朝オーストリアへの挽歌となった長編『ラデツキー行進曲』の作者ヨーゼフ・ロート、言葉というものにきわめて厳重だったジャーナリスト・批評家・劇作家カール・クラウス、賑(にぎ)やかな文体で多彩な人間像を描いたハイミート・フォン・ドーデラー、蔵書の世界に閉じこもる一学究が周囲の人たちによって破滅させられる『眩暈』を代表作とするエリアス・カネッティ、叙情味と哲学的沈潜とが綯(な)い交ぜになっているヘルマン・ブロッホ、プラハにおけるカフカの友人でライバルでもあったフランツ・ウェルフルなどである。

 ベルリンは19世紀末に自然主義演劇のメッカとなった。G・ハウプトマンがその中核的作家であるが、彼はまたまったく違った作風の作品も書いている。20世紀に入ってベルリンを本拠に活動した作家は多い。小説家デーブリーンは、罪を犯して入獄した労働者が獄中で壮大な神秘的夢をみる小説を書いてドイツ的特色を表している。ユーモアと心深い優しさにあふれた詩人モルゲンシュテルン、スイス出身でこのうえなく繊細な感性の持主ローベルト・ワルザー、ドイツでは珍しい軽妙な筆致のケストナーなども重要である。批評家ベンヤミンもベルリンに育った。ベルリン生まれでベンヤミンの友人ショーレムGershom Scholem(1897―1982)は、ユダヤ神秘主義を初めて一般に知られるかたちで記述・解釈するというスリリングな研究を残した。ミュンヘンを本拠にしていた人ではまずウェーデキントがあげられる。ハウプトマンが坑夫や織工といった労働者を主題にしたのに対し、ウェーデキントは娼婦(しょうふ)・山師・ボヘミアン・犯罪者・サーカスの人々などアウトサイダーを主人公にした。リューベック出身のトーマス・マンもミュンヘンに邸宅を構えた。マンは、文体上はむしろ詩的写実主義に連なる作家で、ドイツ人の心性にひそむ魔的、病的なものを、魔的、病的ならざる余裕のある文体で描いた。

 印象派(リーリエンクローン)、新ロマン派(R・フッフ)、象徴派(ゲオルゲ)、新即物主義、ダダイズム(バル、アルプ)などさまざまな名称が付された芸術作品の流派のなかで、いちばん広範囲にわたって目覚しいことばの革新をもたらしたのは表現主義である。描写より内面から立ち上がるものの表現を重んじたこの運動を代表するにふさわしいのは詩人トラークルであるが、一方近代都市の風貌(ふうぼう)を抒情詩でとらえる20世紀的な課題に、ハイム、シュタードラー、ベンらが成果をあげた。

 第一次世界大戦時における一兵士に対する軍事裁判を扱ったアーノルト・ツワイクの『グリーシャ軍曹をめぐる争い』(1928)、バイエルンの片田舎における迫害のケースを扱ったフォイヒトワンガー(1884―1958)の『成功』(1930)は、ナチス登場の背景を伝える格好のドキュメントとみなしうる(ジャン・アメリー)。

[樋口大介]

1930年以後

ホフマンスタールが「保守革命」を口にするのは1928年である。このことばは、保守派にとっても旧来の宗教や人文主義精神の措辞によっては自らの重んじる価値を支えきれず、政治化してゆく様相を暗示している。小説家のアンデルシュ(1914―80)は、1930年に青年であった者にとって、コミュニズムかナチズムか、どちらかに組みするほか道はなかった、と語っている。ニーチェは、人間にとって大切なのは宗教と哲学と芸術であると主張したが、1930年代ははっきり、そうではなく政治と経済とプロパガンダ(宣伝)であると告げた。このことはナチス・ドイツの敗北によって終わったのではなく、90年ごろ、象徴的にはベルリンの壁崩壊をもって一区切りする。20世紀を特徴づけるのは戦争と全体主義の惨禍である。その意味でこの世紀はドイツの世紀であったといってよく、その歴史はいまもドイツ人とドイツ文学のうえに重くのしかかっている。ナチス時代および社会主義ドイツ時代、体制に沿って時流に掉(さお)さした人々は、それぞれの体制崩壊後信憑(しんぴょう)性を失う。内的亡命の立場を貫いたとされる人々にも、とかく疑心暗鬼の目が向けられる。亡命した人々は、亡命せず体制下を生き抜いた人々からみると、縁なき衆生(しゅじょう)に感じられる。どことなく腰の据わらないよそよそしさが、長く文芸のうえにも立ちこめる。

 第二次世界大戦後の西ドイツでは、帰還した兵士に戻るべき家がないことを切なく訴えたボルヒェルト、混乱のなかでその混乱を誠実に克明にとらえようとしたケッペン、北欧風の憂愁をたたえた恋愛小説に佳作をあらわしたノサックらが注目された。批評家リヒターが1947年以降毎年開いた文学者の集まりに加わった人々は、「グループ47」とよばれるが、彼らのなかから目覚しい作品が生まれるのは50年代後半からである。衆目のみるところギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』(1959)がその代表作である。ドイツ人とポーランド人とがともに住むダンチヒ(現グダニクス)を舞台に、3歳で成長を止め、ブリキの太鼓を愛し、甲高い声でガラスを割る超能力を持った少年の目から1933~45年という艱難(かんなん)に満ちた時代をあけすけで克明な語り口で伝え、青春小説・ピカロ小説・戦争小説の三重の厚みを築き上げている。グラスと、もう1人の「グループ47」の重要作家ベルは、次第に作品に作者の価値観を強く持ちこむことになる。その点、東ドイツのゼーガースやフランツ・フューマン(1922―84)らの小説と共通していたといえよう。そのような啓蒙精神の透けてみえる勧善懲悪風の文学に対する反動は、70年代にやってきた。オーストリアのベルンハルトやハントケ、西ドイツの詩人ニコラス・ボルン(1937―1979)、劇作家・小説家ボート・シュトラウス(1944― )らで、いわばドイツ文学における「内向の世代」のおもむきがある。次の1980年代には家族のこと、たとえばナチ党員だった父のことを主題とする小説が盛行した。戦後詩人では、母をナチスに殺されパリに住み続けたユダヤ人で、ぎりぎりまで切りつめられたことばの秘儀にたどり着いていったツェラーン、抒情詩というにふさわしい胸を打つことばを語ったオーストリアのバッハマン、それにアメリカのサブカルチャーにのっとったロルフ・ディーター・ブリンクマン(1940―75)、絶妙なユーモアの持ち主ローベルト・ゲルンハルト(1937―2007)があげられる。

 東ドイツでは、技術と商品の開発に後れをとったぶん、フーヘルやヨハネス・ボブロウスキー(1917―65)のようにラント文学的な抒情詩に優れた詩人が出た。ザーラ・キルシュ(1935― )においては、自然は愛の激情と重なり合う。70年ころから、東ドイツの体制に完全に従順でないがゆえに西ドイツで高く評価され、そのことが東ドイツ内での作家としての声価を高める作用をする、といった逆説的な現象の伴う作家があらわれた。小説のクリスタ・ウォルフ、詩のクンツェ、劇作家のミュラーらである。

 スイスの戦後作家では、「グループ47」に通じる作風のフリッシュと、人間のグロテスクさをあぶりだすデュレンマットが知られている。

 1970年代から80年代にかけては、童話風の物語を書いたエンデ(『モモ』1973)、東ドイツの生活を渋く表現したクリストフ・ハイン(1949― )(『竜の血を浴びて』1982)、ストーリーの楽しさで異色のパトリック・ジュスキント(1949― )(『香水』1985)らが国内外で広く読まれた作家である。

 1990年の東西ドイツ統一後では、健筆のベテラン作家マルティン・ワルザーの『子供時代の弁護』(1991)が好評を博した。第二次世界大戦後、ドレスデンと西ベルリンとに別れて暮らさなければならなかった母と一人息子の細やかな愛情を丁寧に描いている。学んだのはデーブリーン一人だけというグラスに対し、ワルザーは先人作家をよく読み参考にする小説家・戯曲家であり、作家論にも秀れている。近年、世界的に好評を博した作品としてベルンハルト・シュリンク『朗読者』、ダニエル・ケールマン『世界の測量』がある。またドイツ語圏における女性作家の輩出も顕著な現象であり、そのうちオーストリア作家のエルフリート・イェリネックはノーベル賞を受賞した。

[樋口大介]

ドイツ文学の一特質

因果関係を設定することへのためらい、あるいは疑念がしばしば感じられるのがドイツ文学のひとつの特質である。時間的に先行する事態Aから後続する事態Bが生じた、というとき、AとBとは原因と結果の関係にあるとみなされる。しかしここに疑念が発せられる。私たちの思考のなかでは、Bという結果をみて(時間的に先行)、Aという原因に思い至る(時間的に後続)のではないか。Aという原因を指し示すにあたって、私たちの先入見なり都合なりによる選択が働いていはしまいか。また因果律の想定なくして物事を考えることは不可能であるにしろ、因果は必然的な結合というよりむしろ確率的なものであろう。確率の低い方への飛躍は起こりうる。こうした発想は、ドイツ人は「存在」よりも「生成」を好む、というふうにも説明されてきた。

 このことが文学においてどのように現れるかといえば、ゲーテにおいては、作品が一貫した骨子のもとに短期間で仕上げられることが少ない。『ファウスト』の完結には60年もかかった。作家も作中人物も未決定状態にあることを好む。20世紀小説の傑作、ムシルの『特性のない男』、カフカの三大長編はいずれも未完に終わっている。「私たちの洞察はみな事後のものであり決算である。すぐその後で新しいページがまったく別のことを始める」とリルケの『マルテの手記』(1910)にある。おそらく幽霊や妖怪(ようかい)や幻覚がドイツ文学によく出てくるのも、聖なるものや奇蹟(きせき)への接近を感じさせる部分が多いのも、ここにつながっている。いいかえると、よく指摘されるドイツ文学のプロットやストーリー性の貧しさということになるのであるが、聞き手の目を輝かせるような「話」の面白さを軽視しているわけではない。人前に立つのを億劫(おっくう)がったカフカは、朗読ならば積極的に引き受けたし、ウェーデキントやリルケは朗読を生計の資としていた時期がある。ドイツの詩と音楽の強い結びつきにもあるように、「声」がドイツ文学における「話」なのだ、ともいえよう。

[樋口大介]

日本におけるドイツ文学受容


 日本におけるドイツ文学の紹介には、大まかにいって前後二つの山脈がある。最初の山脈は森鴎外(おうがい)の翻訳で、作家でいえばゲーテを別格としてハウプトマン(自然主義、ベルリン、プロテスタント圏)およびそれぞれ初期のシュニッツラーとホフマンスタール(世紀末唯美主義、ウィーン、カトリック圏)が中心である。第二の山脈は第二次世界大戦後に築かれた。それは文学史的にちょうど鴎外による紹介が終わった時点からあとを引き継いでいる。ホフマンスタールが若き天才抒情(じょじょう)詩人時代に別れを告げる指標である『チャンドス卿への手紙』(1902)あたりを目安に、旧オーストリア・ハンガリー帝国の文学が、表現力でも表現内容でも特別に高い水準に達していたこと、そこではユダヤ系作家の役割が大きかったことが明らかになったのは、ドイツでもようやく戦後になってからである。原田義人(よしと)・川村二郎・中野孝次・古井由吉(よしきち)・柏原兵三(かしわばらひょうぞう)・飯吉(いいよし)光夫その他多くの訳者によって、カフカ、ムシル、ホフマンスタール、ヘルマン・ブロッホ、J・ロート、K・クラウス、第二次世界大戦後のツェラーンらの翻訳が続々と行われた。古井由吉の場合、ムシルやブロッホの訳業と作家としての出発がほぼ同時併行している。

 この二つの山脈の中間に大きな山としてそびえているのが、リルケ、トーマス・マン、ヘッセ、ブレヒトの紹介であろう。リルケの初期作品はすでに鴎外によって訳されているが、それは小説と戯曲であった。翻訳詩が多くの愛読者を得るのはまれなことであるが、リルケは例外であり、茅野蕭々(ちのしょうしょう)、片山敏彦、大山定一(ていいち)、高安国世、富士川英郎(ひでお)(1909―2003)その他の人々の訳詩で親しまれた。愛と死と神について終生辛抱強く思いをめぐらせ、詩の成熟を待った、「詩人」のイメージがぴったりする人であること、「ボヘミア生まれのヨーロッパ人」という形容に表されているように、ヨーロッパの辺境と中心とを重ねて生きているようなリルケの文学が、日本というヨーロッパからは僻遠(へきえん)の地にいて、ヨーロッパの美と芸術に憧憬(しょうけい)を抱いていた読者に深く愛されたのは、自然であった。次に、ヘッセは初め、周囲の無理解に苦しめられる若者を描いた青春小説の作者として迎えられ、次に現代人の寄る辺なき孤独を浮かび上がらせる実存的作家、次にインド的解脱(げだつ)を目ざしたヒッピーのアイドル、次いで田園生活を楽しむ達人ふうの庭師として注目を浴びた。ブレヒトの人気はほぼ共産主義のそれと消長をともにしている。初め政治的急進派に愛されたのはハイネであったが(田岡嶺雲(れいうん)、中野重治(しげはる))、その後もっと現代的で、芝居という効果性の高いジャンルに主として活躍したブレヒトに関心が移った。ピカレスク風のセリフは中世以来の笑劇(しょうげき)やバイエルン地方土着の悪童物語(L・トーマ)に通じ、説教調はキリスト教教導劇に連なり、ところどころに抒情味のあるバラード(物語詩)をはさんで気分を転換し、思想的には左翼であるが題材はロシアよりも多くイギリス、アメリカにとる、そうしたしたたかさが人気の一つの理由であったろう。クルト・ワイルが曲をつけた『三文オペラ』は、親しみやすいメロディーで大ヒットした。

 トーマス・マンが及ぼした影響には二つの面がある。一つは、富裕な市民の家の繁栄と没落を描く『ブデンブローク家の人々』(1901)によるもので、北杜夫(きたもりお)の『楡(にれ)家の人々』(1962~64)はその代表である。他方に、主人公がエピローグでアルプス山中の結核療養所を出て第一次世界大戦に出征する『魔の山』による影響があり、第二次世界大戦に出征していった世代に熱い共感をもって読まれた。森川義信が鮎川(あゆかわ)信夫に宛てた文面にある「僕のことを思ひ出すことがあつたら『魔の山』の一頁を読んでくれたまへ。私の未来は起きてゐても倒れてゐても暗いのだ」は、それをよく伝えている。ちなみにカフカの小説は、安部公房や倉橋由美子によって学ばれたことはよく知られているが、鮎川信夫ら詩誌『荒地(あれち)』の詩人たちにもよく読まれた。北村太郎の詩『K』では、Kはカフカと北村に共通するイニシャルである。

[樋口大介]

『相良守峯著『ドイツ文学史』全2巻(1977・春秋社)』『藤本淳雄ほか著『ドイツ文学史』(1977・東京大学出版会)』『佐藤晃一編『ドイツ文学史』(1972・明治書院)』『手塚富雄編『ドイツ文学』(1962・毎日新聞社)』『J・F・アンジェロス著、原田義人訳『ドイツ文学史』(白水社・文庫クセジュ)』『手塚富雄著『ドイツ文学案内』(岩波文庫)』『H‐J・ゲールツ著、中村英雄ほか訳『ドイツ文学の歴史』(1978・朝日出版社)』『F・マルティーニ著、高木實ほか訳『ドイツ文学史』(1979・三修社)』『古井由吉著『日常の“変身”』(1980・作品社)』『片山敏彦著『ドイツ詩集』(1984・みすず書房)』『グラーザーほか著、織田繁美訳『ドイツ文学の流れ 近代・現代』(1989・芸林書房)』『深見茂編『ドイツ文学を学ぶ人のために』(1991・世界思想社)』『青山南ほか著『世界の文学のいま』(「ドイツ文学」樋口大介執筆、1991・福武書店)』『手塚富雄・神品芳夫著『増補ドイツ文学案内』(1993・岩波書店)』『小沢俊夫編著『ドイツ文学史―ドイツの伝承文学・民衆文学史』(1994・放送大学教育振興会)』『藤本淳雄他著『ドイツ文学史』第2版(1995・東大出版会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「ドイツ文学」の意味・わかりやすい解説

ドイツ文学 (ドイツぶんがく)

文学のためにドイツ語が用いられる地域は,現在でもドイツ,オーストリア,スイスのドイツ語圏にまたがるが,過去にはさらにシュレジエン(現,ポーランド領シロンスク),東プロイセン,チェコの一部などを含んでいた。これらすべての地域を包括して論ずるのがドイツ文学の通例であるが,特にオーストリア,スイスには独自の文学伝統があることにも留意しなくてはならない。

 一般的にドイツ文学の特性に対する見解には,今なお19世紀以来の国民文学史観にもとづくところが多い。深い内面性,素朴な生活感情,悲劇性と思索的要素など,民族としての独立精神の属性として強調されたものが,暗黙のうちに積極的な価値規準とされやすいのである。第2次大戦以後,新しい視点が採り入れられて,文学史全体にわたる再検討が幅広く行われているが,それは多くの点で過去のドイツ文学像を解体しつつあっても,日本のわれわれから見て新しい像を結ばせるまでには至っていない。ここでは,ジャンルの交替と変遷を軸にし,社会と文学とのかかわり方の推移に重点をおいて,各時代の特徴を素描してみたい。

古代高地ドイツ語期(8~11世紀)の文献はわずかしか残されていない。当時文字になった主要なものは聖書の翻訳やキリスト教の教説文などであるが,ほかに古代ゲルマン歌謡《ヒルデブラントの歌》も書き残されている。オットー朝(ザクセン朝)ルネサンス期(10世紀)にはラテン語だけが用いられ,古典古代の文物がゲルマン人の地域に流入して,〈ドイツ文学〉と呼べるものがはじめて開花する基礎となった。

中世高地ドイツ語の時期(11~14世紀)には,シュタウフェン朝による中世の政治体制が完成,これに応じて騎士階級が新たな文化の担い手となり,伝承のゲルマン英雄伝説のうえにキリスト教文化,古典古代の文化,プロバンス宮廷文化,イスラム宮廷文化,北方神話圏文化などが合流してドイツ中世文学が生み出された。宮廷で口誦された叙事詩は,素材の点で(1)アウエのハルトマンの《イーワイン》やエッシェンバハのウォルフラムの《パルチファル》のように,アーサー王と円卓の騎士の伝説を中心にしたもの,(2)ゴットフリートの《トリスタンとイゾルデ》のようにトリスタン伝説を扱ったもの,(3)《ニーベルンゲンの歌》や《クードルーン》のように,ゲルマン伝説から生じたものなどの系統に分類できるが,個々のものはいずれも強い混合形態を示している。残存する写本が最も多い《パルチファル》は,当時最も愛好された作品と目される。人気の理由はドイツ的心情が濃いということより,各文化圏の要素が最も複雑に入り組んでいるおもしろさにあったと思われる。これらの叙事詩の基礎にある倫理は,行動に節度を保ち,調和のある生き方をすすめるものであったが,宮廷社会が混乱し,その倫理が空洞化するにつれて,長編の叙事詩形式は維持されなくなっていく。ウェルンヘル・デル・ガルテネーレの《ヘルムブレヒト》のように,身分社会の混乱をそのまま映し出す短い形式への移行が生じたし,またそこに滑稽譚という領域を開拓して風刺文学の草分けとなったのが,シュトリッカーである。

抒情詩ではトルバドゥールの様式を受け継いだミンネザングが成立し,貴婦人への愛の奉仕を最高の理念とする歌が多く作られた。ラインマルReinmar von Hagenauを頂点とする盛時のミンネザングは,この愛を神への愛にまで結びつけようとしたが,一方ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデは身分の低い娘を登場させて世俗の愛をうたい,あるいは政治的発言を織り込んだ格言詩をつくり,ナイトハルト(ロイエンタールの)などにいたると,騎士と農民の間の力関係の混乱がパロディの形をとって農村を舞台にした詩に反映されることになる。他方宮廷詩とは別に,《カルミナ・ブラーナ》のように,遍歴学生や農民によって歌われていた巷間の歌がたくましく育っていた。その原形は,のちにロマン派の手によって集成された〈民謡〉などより,もっと粗野で,混沌としたものである。

中世末期に入ると演劇と散文が芽生える。14世紀には,ようやく興隆した都市を中心に復活祭劇や受難劇が演ぜられ,15世紀にはそれが世俗的な発展を示して謝肉祭劇Fastnachtsspielとなるが,その担い手となったのはギルドの職人たちで,実生活のなかから笑いのタネを見つけて寸劇にした。ハンス・ザックスらの職匠歌もこれと同じ基盤から生まれる(マイスタージンガー)。その一方散文は別の次元に育ちはじめ,法書《ザクセンシュピーゲル》がドイツ語で書かれたのが一つの実験となって,エックハルトなどの神秘思想家が思弁的表現の領域にこれを活用するようになり,ルターやミュンツァーなどの宗教改革者の論説によって深く民衆に浸透する。ルターの聖書翻訳と印刷術の発明が統一的な文章語の成立と普及に大きな役割を演じ,宗教改革と農民戦争に際して配布された多数のビラ,それにまた《ティル・オイレンシュピーゲル》などの民衆本も,それを助長する効果があった。

17世紀は,悲惨な三十年戦争の影響を全面的にうけて国土が荒廃し,一般に厭世観の強い時代であった。反宗教改革運動によってカトリックが力を盛り返し,バロック文学が栄えることになる。詩はこの時期に多彩な表現技法を外国から採り入れた。オーピッツがフランス詩法をドイツ語に適用する方法を見つけ,シュレジエン派がイタリアからマニエリスムを移植して,修辞的誇張の技巧を積極的に活用したのもその実例である。言葉の遊びや寓意画の試みもこの時期に生じているが,これはドイツの悲惨な現実に対応するために強い表現が要求されたと見られよう。演劇では,カルデロンの殉教劇の流れを汲んで,イエズス会演劇Jesuitendramaが盛んになり,近代劇の基礎となる舞台技術上の種々の試みがなされた。散文で異彩を放っているのは,スペインの悪者小説を受け継いだグリンメルスハウゼンの《ジンプリチシムスの冒険》である。このように外国の影響は圧倒的であったが,ブルボン朝のもとで古典主義が開花したフランスと,戦争の荒廃から立ち直れないドイツとの差はまたあまりにも大きかった。文学者の間に,ドイツ語を整備し,自国の文学の独自性を主張しようという願望が強くなり,それによって次の時代での国民文学誕生の素地がつくられたが,また長く尾を引くルサンティマン(怨恨)もここで胚胎した。

18世紀にはいり,宗教の束縛がゆるむにともなって,一方では合理的な思惟による生活規範の見直しが行われ,他方では自由な感情の飛翔による自然への帰依が生ずる。教訓的な寓話は前者を,田園詩は後者を表現するジャンルとして好んで用いられるが,クロプシュトックが古代ギリシアの無韻の詩形式をドイツ詩に移植することに成功し,それ以後は,抒情詩自体が自然の息吹を直接表現しうるものとして尊重された。演劇は,ゴットシェートがイエズス会演劇の宗教色をぬぐいさる浄化運動を起こして以来,合理的な思想の表現に適するものと考えられていたが,レッシングはさらに劇場こそ〈精神界の学校〉と主張し,市民劇によって時代の問題を明示するところまで進んだ。それによって演劇は,この世紀の最も重要なジャンルとなったが,この場合もその導き手となったのはほかならぬシェークスピア劇である。レッシングにつづくシュトゥルム・ウント・ドラング期の演劇は,ふたたび啓蒙精神を超えて,いわば自然としての人間を描くことになる。小説も,イギリスの小説やルソーを範として,啓蒙的教訓小説から内面的な感情を吐露する告白小説へと進展し,その頂点にゲーテの《若きウェルターの悩み》が立つことになる。しかし同じ時期に風刺文学の系譜を受け継ぎ,ウィーラントの《アブデラの人々》が書かれていることも注目に値しよう。告白性と風刺性はその後のドイツ小説の2本の柱となるからである。

啓蒙思想の洗礼を受けつつ自然の意義を再発見したドイツの18世紀にとって,なによりの関心事はあらゆる束縛からの解放であった。解放への希求はフランス大革命がその先例を示すことになるが,革命の現場から残酷な知らせがつぎつぎに伝えられると,理念に賛同していたドイツの知識人も,革命の実行に対しては疑惑を抱くようになり,その傾向はナポレオン指揮下のフランス軍がドイツに侵攻するに及んで,ますます強くなった。この時代背景のもとに,過激な行動を排し,個人の内面的な形成によって調和ある人間性の実現をめざそうとするワイマール古典主義が成立する。主としてゲーテとシラーの演劇において完成され,散文では《ウィルヘルム・マイスターの修業時代》のような教養小説で展開されていくのがそれである。自由の理念は,内面の自由や外国支配からの解放に変形され,さらに内面の自由からは諦念の思想が生じて,社会への節度ある奉仕を美徳とする観念が育っていく。ロマン主義も本来の原理からすれば,個人の生の自由な高まりが社会の抑圧を破砕する方向に進むはずであるが,ドイツ・ロマン派の活動期にナポレオン戦争が起こったため,ロマン主義的エネルギーは外国支配からの脱却を求める民族意識の高揚に吸収されていく。ヘルダーの提唱に端を発して,民謡の研究調査が進められ,中世文学が発掘されるなど,自国の遺産を見いだした功績は大きいが,そこに民族性を美化する色合いが強く生まれ,これがドイツの反動的な政治体制と結合しやすかったことは,知っておかなければならない。しかしロマン派の行った精神と文学の圏内における仕事は大きかった。それまで文学におけるジャンルは,文学的表現のための不可欠の枠と考えられていたが,F.シュレーゲルは各ジャンルの奥に共通の文学空間があることを見抜いて,〈普遍ポエジー〉をとなえ,真の創造はその源泉から発するものでなければならないと考えた。そのために批評が必要となる。批評は各ジャンル間を結んでたえずポエジーの所在を喚起する自由な表現手段と考えられた。こうして,文学の普遍的源泉と具体化された表現の場との関係を解き明かすことによりシュレーゲル兄弟が近代的な意味での文芸批評家となった。

 一方,古典主義とロマン派の中間に位置するクライストヘルダーリンジャン・パウルは,それぞれ固有の破滅的な人生を通じて強烈な作品を書き残すこととなった。ゲーテ的な規準からは正当な評価を受けず,ロマン派の運動のなかでも重要な役割を演じなかったが,創作面ではこの3者がそれぞれ演劇,詩,小説の各分野でロマン主義の名にふさわしい最もすぐれた作品を書いている。またこの時期にフランス革命に背を向け,世界史の進展にもとる形で国民意識が育成され,それが主流となったことは事実であるが,革命の理念の浸透が皆無であったわけではない。この潮流はJ.G.A.フォルスターの紀行文に見られるように,自由な散文形式によって具現され,それがハイネの《ハルツ紀行》などの青年ドイツ派の散文作品に受け継がれていく。

1830年以後,社会の変動につれて文学の様相も大きく変わってくる。古い貴族支配体制は弾圧を強めるたびに土台のもろさを露呈し,市民階級が実権を徐々に拡張して,下層の人々にも目が向けられていく。調和のとれた人間的な成熟よりも,遅れたドイツの政治状況を反映して直接に社会的な変革が求められ,今日的な意味での政治文学が生じてくる。ハイネが,政治詩はある党派のテーゼをうたうのではなく,現実社会の状況を忠実に伝達するべきだと主張して,これを《ドイツ,冬物語》によって実証したのは,すでに路線論争をはらむものであった。その一方ではまた政治にことさら背を向けるメーリケドロステ・ヒュルスホフのような詩人もこの時代の一面を代表している。ビーダーマイヤーの名で総称されるこうした作家たちは,身辺の生活や自然を凝視して,かえって時代の本質をつかんだのであった。散文が文学の中心ジャンルとなるのもこの時代である。そうした散文は紀行文,評論,随筆などをも含み,インマーマンからフォンターネに至る写実主義の本格的な小説を中心にして,世紀の後半から現れる大衆小説,ウェールトに代表される風刺小説など,きわめて多岐にわたるが,なかでも緊密な構成と厳格な文体の要求される短編小説は,19世紀固有のジャンルであると言えよう。この世紀の際立ったもう一つの現象は,多数の文学史が書かれたことである。ゲルビヌスの《ドイツ国民文学史》はその代表的なもので,小国家割拠の状態を克服するための統一的国民意識を涵養しようとした。

プロイセンによって強行された1871年のドイツ統一以後,この軍事的・政治的統一に欠落していた文化的内実を回復するために,ますます国民文学の意識の強化がはかられ,文学研究を通じて国粋主義の核がおかれたが,その反面,ゾラ,イプセン,ワイルド,トルストイなど多数の外国作家の受容が行われ,ドイツ文学は思想と表現の幅を急激に広げると同時に,内部に深刻な緊張を胚胎した。この間,自然主義はリアルな庶民生活の描出によってとくに現代演劇への端緒をひらき,ホフマンスタールたちの開拓した詩劇風の一幕物は,デカダンスの思想と芸術に表現の場をあたえ,ウェーデキントがフランスから移植した文学寄席(キャバレー)は,新しい大衆芸術の芽を育てた。この時期には一方で作家たちが芸術界のエリートという自覚をもち,一部では宗教にも代わるような高い精神の営みに従事する意識を抱くようになったが,他方では一般的な生活水準の向上と技術の進展によって,文学の大衆化がかつてないほど進んだ。この広がりと,それに伴う出版産業の成立は世紀転換期の基本的な特徴である。ミュンヘン,ベルリン,ウィーンの各都市が三つの特色ある中心を形成して競い合う形になったのもこの時期である。ミュンヘンでは反ブルジョアを打ち出す芸術家精神がよく育ち,ベルリンでは工業文明が生みだす都市の問題がいち早くテーマ化され,ウィーンでは伝統の大衆劇に外国の世紀末文学が混合して独特の爛熟した文学が生みだされ,その切先では言語表現への懐疑と精神の危機とが感じ取られていく。

20世紀の文学は人間精神の危機的状況をいかに表現し,いかに克服するかという問題にまず直面する。カフカ,ホフマンスタール,ムージルなどオーストリア系の作家が先進的な活躍をなしえたのは,国家社会の崩壊がとりわけ彼らの鋭敏な感受性を刺激したためである。散文は19世紀の小説に特有のものであった物語る文体から脱皮して,新しい表現領域の開拓を進め,即物的言語による精神の状況の照射を試みる。これは表現主義者たちの実験を経てデーブリーンらの代表する新即物主義の散文へと広がっていったが,他方では19世紀の小説を継承発展させたトーマス・マンの活動や,社会主義リアリズムの本流を築いたA.ツワイクらの歩みがあり,小説は結局実験か写実かの二つの道に大きく分かれてゆく。この両者の相克を露呈したのが1937年に,亡命作家たちの間で起きた表現主義論争である。詩は,19世紀の民謡調マンネリズムからの脱却を心がけたホフマンスタールやリルケによって,ギリシア系ないしラテン系の古い形式が用いられ,さらにそれを変形し突き崩していく過程で,現代詩としての表現形態が探求されていく。こうした面での表現主義詩人たちの寄与も大きかったが,さらにそこにシュルレアリスムの手法が加わって,これが第2次大戦後の詩人たちに受け継がれていく。他方1920年代にブレヒトは,芸術的純粋詩の無効を宣告して,社会改革のために実効のある〈実用詩Gebrauchspoesie〉の重要性を主張したが,それ以後ハイネその他の詩風を継承する政治詩も多彩な展開をみせ,ナチス体制に踏みにじられた苦い経験のために,戦後はそれがいっそう根強く生き続けている。

 演劇は,自然主義から表現主義へと移行する過程で,社会的現実を舞台の上で追究する試みがなされ,それをふまえてブレヒトの〈叙事演劇Episches Theater〉が成立する。観客を幻影の世界にひき入れるのではなく,観客に考える材料を提供して発見と認識へ刺激していくブレヒトの基本姿勢は,その後のドイツ演劇の中心的な柱となっている。ロマン派によって開かれた批評のジャンルは,世紀転換期から1920年代にかけて,F.メーリングベンヤミンアドルノなどすぐれた批評家を輩出して,国民文学の理念とはまったく違う面からドイツ文学の根源と真髄を究明し,批評の創造性と前衛性を発揮した。しかし,これらの真価が理解されるようになったのは,ようやく1960年以後のことである。ナチス政権下のドイツ文学は,ナチスに協力する文学と反ナチスの亡命文学(亡命)に分裂した。ナチスのイデオロギーは歴史の歪曲によって成り立っていたから,その思想的な土台作りのために〈血と土の文学Blut-und-Boden-Dichtung〉と総称される作品が量産されなければならなかった。それはまた長い間につちかわれてきた隣接諸国へのルサンティマンの悲惨な帰結でもあった。亡命文学者たちの足跡はモスクワからブラジルまでの広い範囲にわたり,亡命のきっかけもさまざまだったが,長期にわたるその生活が精神的にいかに過酷なものであったかは,S.ツワイクの自殺にもよく表れている。他方,ナチスの政策に反対しながらもドイツにとどまったいわゆる〈国内亡命〉の文学者の立場も十分な考究を要する。

第2次大戦後のドイツは東西に分裂したが,基本的にはどちらの側もそれぞれの立場で,1920年代を軸とした文学の発展を継承してきた(1990年統一ドイツが成立)。トーマス・マンとブレヒトのように,東西両ドイツで後継者を輩出している場合もあるが,カフカやベンヤミンのように西ドイツでのみ評価の高いもの,ベッヒャーやハインリヒ・マンのように東ドイツでとりわけ尊重されているものもある。しかし過去の文学遺産の発掘や再評価の作業はまだその途上にあり,1960年代後半の文化革命的局面を経て,西ドイツでは文学のあり方に対する根本的な見直しが提起されたし,東ドイツでは社会主義の立場から組織的に文学史の再検討が進められてきた。その間にあって詩人や小説家の仕事も,民族の過去の罪過を直視しながら現在のあり方を考えるという苦悩に満ちたものが多く,ドイツ文学の精神構造は大きく変化したと言えよう。1950年代は詩の時代とも言うべく,アイヒフーヘルらの自然抒情詩の成熟に加えて,バハマンエンツェンスベルガーツェラーンの華々しい登場が見られた。60年代の谷間を経たのち,70年代には新形式のバラードや身辺雑記的な詩が新生面を開拓したが,全体としては低迷が続いており,ツェラーンの希有な詩業のみが異様な光芒を放っている。また文学寄席の系譜がビーアマンWolf Biermann(1936- )によって新たな開花をとげたことも特記されよう。1950年末からは散文が主流となり,H.ベルG.グラスヨーンゾンなどによって,現代史を正しい意味での市民の観点からとらえ直そうとする小説が相次いで書かれ,戦後の代表的な傾向を形づくっていった。それにつづいて現代社会における抑圧状況を描く作品が書かれ,70年代以降はそのテーマが主流をなしている。一般にルポルタージュ的な手法が目だち,新しい形での労働者文学も活発になったが,物語そのものによって読者をひきつける伝統的な小説ジャンルは,クリスタ・ウォルフなど主として東ドイツの作家たちによって担われている観がある。戦後のドイツ演劇の方向を決定したのは,60年代にP.ワイスが確立したドキュメンタリー劇(記録演劇)であるが,その後は現代を描くために歴史劇を取り上げる傾向も見られる。いずれもブレヒト劇の発展的継承である。70年以降の西ドイツでは自然主義的風俗劇が優位を占めており,ブレヒト劇の伝統はむしろ東ドイツのP.ハックスH.ミュラーなどの手によって受け継がれている。総じてドイツの現代文学には社会性の強い作品が多く,またそれによって文学そのものの自律性が維持されているとも言えるが,これは映像文化とマスコミの普及によって元来の役割が大きく変化し,マス・メディアがつくり出す厚い意識の層に切り込むような社会批評こそ,文学に課された使命となっているからである。

日本におけるドイツ文学の受容は1880年ころから始まる。当時ドイツに留学した森鷗外は現地の文学現象を克明に日本へ伝え,世紀の転換期にかけて登場するシュニッツラーなどの作品をつぎつぎに翻訳紹介した。木下杢太郎がこれをひき継ぎ,その世紀末的土壌の上に〈パンの会〉や〈スバル〉などの耽美的情調の文学が日本に開花した。また森鷗外によるゲーテの《ファウスト》の完訳(1913)は,日本の読者にドイツ文学の代表作を提供するものとなった。生田長江の《ツァラトゥストラ》訳(1911)をはじめとするニーチェの翻訳紹介も大きな反響をよびおこし,とりわけ萩原朔太郎にその影響が認められる。茅野蕭々(1883-1946)の《リルケ詩抄》(1927)は名訳の評判が高く,堀辰雄や立原道造をリルケの世界に近づけた。ヘルダーリンに心酔した伊東静雄を含め,日本浪曼派はドイツ文学から深い影響をうけているが,その一方,生田春月の訳編になる《ハイネ詩集》(1917)の意義も特筆に値しよう。中野重治や舟木重信のハイネ研究に受け継がれて,革命詩人としてのハイネのイメージが早くから築かれたからである。自由民権思想との関連でレッシングの劇作品や宗教論なども早くから翻訳紹介され,ドイツ文学の啓蒙主義的系譜もかなり日本に導入されていたが,国家主義的イデオロギーが強まるにつれて,それらは圧殺されていった。なお,1920年代には秦豊吉らによって表現主義の戯曲が数多く翻訳紹介され,新劇運動を刺激したことも忘れられてはならない。

 日本におけるドイツ文学研究は,19世紀末以降のドイツの学界の動向を反映し,ゲーテを中心とする国民文学成立の時期に重点を置くことによって,規範の大枠が設定されてきた。ドイツの国民性の強調を基底とし,研究方法には実証主義の流儀を当然のこととして受け入れ,徐々に精神史的方法を学びとっていったが,それは純粋な文学研究というよりは,ドイツ民族精神の研究という色彩を強く含んでいた。〈(国家統一後の)ドイツ帝国における文学と文学研究がそのまま日本の大学のドイツ文学教室に流れこんだ〉(中野重治)のである。

 しかしこうした基調をもちながらも,日本の学界がまったく画一的だったわけではなく,また1930年前後にF.メーリングの訳や《ゲーテ批判》と称する翻訳論文集が刊行されるなど,反アカデミズムの活動も息づいていた。さらにまた一般的には,知識層の資としてのドイツ文学という考え方がしだいに定着し,研究者の多くは時流の政治の埒外に立って,いわゆる普遍的な人間形成のために有効と思われる詩人や作品を好んで翻訳しながら研究の対象とした。ドイツの詩人を論ずる場合,現実社会において到達できない理想を自由な内面世界において創造していく点を積極的に評価すると同時に,魂の根源にひそむ魔神の促しのままに限りない追求を重ねる精神が畏怖のまととなった。その無限追求が合理的な秩序づけの精神と結びつくとき,最も創造性豊かな人生が実現するとされ,その実例がゲーテであり,彼を頂点に置く価値規準ができあがった。しかしロマン主義的な無限の追求は危険な巨人主義や排他主義に堕しやすいことも周知の事実である。ドイツ精神のこの誤った逸脱まで比較的抵抗なく容認され,ナチス支配の時期にナチス色のつよい文学が数多く翻訳紹介され,その思想にもとづく文学史まで書かれた事実は,日本のドイツ文学研究史になお打ち消しがたい傷痕を残している。

 戦後はルカーチの《ドイツ文学小史》などによって,ドイツ文学に対するさまざまな新しい見方が導入され,研究者の増加とともに研究対象の幅も広くなったが,情緒優先型の体質はそれほど大きく変化していないように思われる。近年の調査でも日本の読者に愛好されているドイツの作家はゲーテ,ハイネ,ヘッセ,トーマス・マン,リルケなどであり,これらがいぜん教養主義の伝統の根幹をなしており,そこにカフカ,ブレヒト,ホフマンスタール,G.ビュヒナー,ヘルダーリンなどが加わって,ドイツ文学への関心の間口はやや広がっているといえる。ただ,ベルやグラスなど戦後のすぐれた作家は,翻訳されても一般の読者には親しまれていない。このような膠着状態の一因は,日本に定着しているドイツ文化についてのイメージとその実像とのあいだにかなりの距離があることに求められよう。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドイツ文学」の意味・わかりやすい解説

ドイツ文学
ドイツぶんがく
German literature

ドイツ語による文学作品の総称。ドイツのみならず,オーストリア,スイスなどドイツ語圏の古今の作家によるドイツ語作品も含まれる。閉塞的な北方的風土と 19世紀までの社会的後進性などにも影響されて,非社会的で極度に内面的であることを特色とする。小説の分野では教養小説が特に顕著な傾向として主流を占め,戯曲では喜劇はごく少なく,悲劇ないし悲劇的な作品が主流をなしている。
ゲルマン民族の文字による最古の記録は 8世紀にさかのぼるが,それ以前にも口承文芸が存在したという証拠があり,それらは戦士の功績をたたえる英雄詩,キリスト教以前の祭祀の頌歌や戦いの歌などからなっていた。ドイツ語で書かれた初期の文献は,9世紀に伝来したキリスト教を布教するためのもので,その多くはラテン語からの翻訳である。1050年頃になって世俗文学が復活し,一般に中高ドイツ語時代(→中高ドイツ語)と呼ばれるこの時期の中心的な分野は,宮廷叙事詩であった。この種の作品は宮廷ロマンスや封建騎士(→騎士)の戦いなどを物語るもので,ハルトマン・フォン・アウエウォルフラム・フォン・エシェンバハゴットフリート・フォン・シュトラスブルクの 3人が傑出していた。また,この時代には,中世ドイツ最大の民族叙事詩『ニーベルンゲンの歌』が生まれた。この時期のもう一つの重要な分野として,ミンネザングと呼ばれる宮廷抒情詩があり,ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデらのミンネジンガーは,宮廷のしきたりに従って愛する女性への憧れをうたった。
1450年頃から人文主義を標榜する新しいブルジョア・リアリズムが興り,風刺的,あるいは説教的な調子を帯びた文学が発展した。その例がセバスチアン・ブラントの『愚者の船』(1494)である。16世紀の宗教改革はドイツ文学にいくつかの影響を与えたが,その最大のものはマルチン・ルターによる聖書のドイツ語訳である。ルターが用いたマイセン方言は,最終的にドイツ全土で文語として採用された。ほかにはハンス・ザックスのウィットに富んだ寓話詩や謝肉祭劇が重要である。17世紀のドイツのバロック文学は,道徳性と幻想がないまぜとなって長く散漫に展開する小説を特徴とする。なかでもハンス・ヤーコプ・クリストフェル・フォン・グリンメルスハウゼンの『ジンプリチシムス』(1668)は一般的な主題を宗教的,形而上学的考察と組み合わせており,今日でもドイツ文学の最高傑作の一つとされている。抒情詩ではアンドレアス・グリュフィウスアンゲルス・ジレジウス,パウル・フレミングが宗教的熱情とこの時代の希望と恐れを表現した。グリュフィウスの悲劇にも同様の張りつめた感情がみられる。18世紀中頃には啓蒙思想と結びついたゴットホルト・エーフライム・レッシングの戯曲,クリストフ・マルチン・ウィーラントの散文小説が登場し,倫理的問題への関心と人間の完全性についての楽天的な確信が表現された。
1770~80年代にはシュトゥルム・ウント・ドラングと呼ばれる文学運動が興り,ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテ,ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラーらが自然,感情,独自性,権威に対する反抗をうたい上げた。『タウリスのイフィゲニー』(1787)などのゲーテの後期の作品や,シラーの『ワレンシュタイン』(1798~99)などには,ヨハン・ゴットフリート・フォン・ヘルダーの「知性と感情の和解」という理想への発展がみられ,これはドイツの新古典主義の典型とされる。
19世紀初めの文学運動の主流はロマン主義である。とりわけフリードリヒ・ヘルダーリーンの詩には古いものへの憧れが色濃く表現されている。初期のロマン派の主要な理論家は,アウグスト・ウィルヘルム・フォン・シュレーゲルとフリードリヒ・フォン・シュレーゲルの兄弟である。第2のロマン派は,詩の題材として民謡や中世ロマンスに対する関心を復活させた。後期ロマン派は,ハインリヒ・フォン・クライストの戯曲にみられるように,人生の暗い側面に焦点をあてた。エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンは幻想とグロテスクを扱った数多くの物語を書いた。オーストリアの劇作家フランツ・グリルパルツァーは,新古典主義の伝統にのっとった戯曲を書いたが,同時に写実主義を導入した。1820年代になるとロマン主義はハインリヒ・ハイネらの詩人から厳しく批判されるようになった。1830年代には「若きドイツ」という運動が興り,文学を政治批判の手段として用いようとした。また,日常生活自体の積極的な要素を強調することを目的とする詩的リアリズムの発展は,ドイツ文学史上非常に重要なことである。この運動の主要な提唱者に,オーストリアのアーダルベルト・シュティフター,スイスのゴットフリート・ケラー,ドイツのクリスチアン・フリードリヒ・ヘッベル,テオドール・フォンターネがいる。19世紀の最後の 10年には,社会の現実と人生の醜く汚い側面を「科学的」客観性をもって描いた自然主義の運動が発生し,この運動の指導者ゲルハルト・ヨハン・ローベルト・ハウプトマンは,戯曲『織り工』(1892)でシュレジエンの機織り職人の苦難を描いている。
20世紀初頭はウィーンのフーゴー・フォン・ホーフマンスタールやアルトゥール・シュニッツラーらが,印象主義の手法を用いて気分やある精神状態を喚起する作品を書いた。シュテファン・ゲオルゲ,ライナー・マーリア・リルケといった詩人は象徴主義の影響を受けている。トーマス・マンも同様に,いくつかの小説で象徴と神話を用い,その最高傑作が『魔の山』(1924)である。ヘルマン・ヘッセは『デミアン』(1819),『荒野の狼』(1827)で,詩的象徴,幻想,精神分析への傾倒を示している。フランク・ウェデキントの戯曲に予見される表現主義は,第1次世界大戦直後に重要な流れとなった。主要な表現主義作家として,戯曲ではエルンスト・トラーとゲオルク・カイザーが,詩ではゲオルク・トラークル,ゴットフリート・ベン,エルゼ・ラスカー=シューラー,散文ではアルフレート・デーブリンがいる。フランツ・カフカは多くの短編小説で表現主義を思わせる主題を扱い,人間の存在の恐怖と不確定さを鋭く浮き彫りにした。第1次世界大戦後からナチス政権時代には,客観性に重点をおいた社会主義リアリズムが主流を占めた。代表的な作品に,アンナ・ゼーガースの『第七の十字架』(1942),アーノルト・ツワイクの『グリーシャ軍曹をめぐる争い』(1927)がある。第2次世界大戦後の空気と問題をとらえたのがウォルフガング・ボルヒェルト,イルゼ・アイヒンガー,ハインリヒ・ベルの散文小説である。ギュンター・グラスは 1950~60年代の一連の小説で,近代ドイツ史をグロテスクながら生き生きと描いた。いわゆる叙事演劇の創始者ベルトルト・ブレヒトは冷笑的なユーモアと痛烈な社会批評で国際的な評価を得た。スイスの作家マックス・フリッシュとフリードリヒ・デュレンマットは現代生活における感情の不毛を批判した。20世紀の重要なドイツ作家には,ほかにオーストリア人ペーター・ハントケ,クリスタ・ウォルフがいる。

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