1822~90年。ドイツで生まれ、事業家として成功した後に考古学を学んだ。トロイ遺跡(トルコ)などの発掘を手がけて大量の金製品などを発見。紀元前8世紀以前のエーゲ海周辺に、当時は神話と考えられていた高度な文明が実在したことを明らかにし、「ギリシャ考古学の父」とも呼ばれている。語学にも堪能で、十数カ国語を話せたという。世界各地を旅し、幕末の日本を訪問したこともある。
更新日:
出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報
ドイツの考古学者。ミュケナイ文明とミノス文明の発見者。北ドイツの貧しい牧師の子に生まれたが,少年時代にホメロスの物語に魅了されてトロイアの都の実在を信じ,その発掘を決意する。しかしその前半生は独立のための富の追求のうちに過ぎる。中学を終えると小売店の小僧,徒弟,下級船員,商社の社員などの職を転々としながら,少年時の夢を堅持し,また十数ヵ国語を習得する。ようやくロシアにおいて巨富を得ると実業の第一線から退き,自力による初志の実現に没入する。第1回のトロイア発掘(1871-72)においては,通説に反してヒッサルリクの丘にこそトロイアは眠ると信じて,この丘に挑む。その結果は堂々たる堅固な城壁と複雑に重なる多くの遺構,さらに金細工をふくむみごとな多数の財宝が現れて,伝説の都は高度な文明をもって実在したことが証明された。しかし学界の反論に抗するために,さらに1878,82,90年と3度発掘を進めて成果をあげ,トロイアの都の実在についての確信をさらに固めた。この丘に幾重にもある住居層のなかで,彼は下から2番目の第2市をホメロスのトロイアとした。今日では第7市Aがそれにあたるとされるものの,第2市の遺物と遺構はこれまで未知だったミノス文明の精華だった。
なお彼はホメロスの詩にでてくるミュケナイ,ティリュンス,オルコメノスを発掘して,城壁や宮殿,壁画,穹窿墓(きゆうりゆうぼ),財宝を発見したが,ミュケナイの円形墓地の成果は最も華々しい。この各地の発掘の結果明らかになった文明はミュケナイ文明と名づけられた。彼の目標は美術品の探索よりも住居址全体の姿とその生活,すなわちギリシア伝説時代の実証にあった。ギリシア先史時代研究の開幕者といえる。その発掘は粗雑で結論は性急だったと非難されるが,それぞれの発掘報告研究書は今日も価値を失ってはいない。ロマンティストの情熱と商人の現実主義と不屈の精神力とが,彼を単なる考古学者にとどめなかった。
執筆者:村田 数之亮
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
古代のトロヤの遺跡の発見者として広く知られるドイツの考古学者。ドイツ北部、バルト海に面するメクレンブルク州で牧師の子として生まれる。幼時からホメロスの物語にあるトロヤの遺跡の実在を信じ、これの発見を生涯の目的とした。前半生はこのための資金づくりのためロシアに移住しインド藍(あい)の貿易商を営み巨利を得た。40歳代前半には事業をやめ、世界旅行をしている。このとき中国や日本にも立ち寄っている(1865)。ついでギリシア古代史の本格的な研究に入り、ギリシア、小アジアを訪れている(1868)。翌年、アテネ生まれでホメロスの詩編に精通するソフィア(1852―1932)と知り合い結婚する。
1870年に小アジア北西部のヒッサリクHissarlikの丘に初めて鍬(くわ)を入れ、引き続き73年まで行った発掘調査で、この地が古代のトロヤの遺丘であることを立証して大きな衝撃を世界に与えた。この調査は引き続きドイツのデルプフェルトの協力を得て、彼の没年まで続行された。トロヤの発掘と併行して、ギリシア本土でもミケナイ、ティリンスなどの発掘を行い、彼の生涯の目的であったホメロスの世界の実在性を立証した。晩年はアテネに邸宅を構え、古代の世界にふける優雅な生活を送ったが、1890年12月26日、ナポリで急死した。各遺跡の報告のほかに、自叙伝である『古代への情熱』がある。
[寺島孝一]
『村田数之亮訳『古代への情熱』(岩波文庫)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1822~90
ドイツ生まれの考古学者。ホメロスの詩の歴史性を信じ,財を成したのち,考古学を修め,1870年トロヤの発掘に着手,成功を収める。その後さらに76年ミケーネ,78年イタカ,81~82年オルコメノス,84~85年ティリンスと発掘を続け,ギリシア本土における青銅器文明の存在を実証した。彼の説は多くの点で修正されたが,ギリシア先史考古学の基礎を築いた功績は大きい。アテネに墓がある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…この小丘は前3000年ころからローマ時代にいたる住居層が重なって,東西約100m,南北約115m,高さ36mほどの遺跡の丘となっていた。伝説上のトロイアの都が実在すると信じたシュリーマンが,1871年はじめて手をつけ,以来4回の発掘によって,宮殿,城壁,財宝を発見し,多くの著書によってその信念を実証した。彼の死後は協力者であったデルプフェルトが1893‐94年に精密な発掘調査を行い,トロイア遺跡の各時期,遺構,遺物の科学的解明を行った(《トロヤとイリオン》1902)。…
…近代ギリシアの独立後,1837年にアテネ考古学協会が設立され,41年に協会の一幹部が同協会の事業として試みたのがミュケナイ発掘の最初である。次いで74年に,前年トロイアにおいて〈プリアモスの財宝〉を掘り当てていたシュリーマンがアクロポリスにおいて34ヵ所の試掘を行った。本格的な発掘は76年城門内の円形墓域において行われ,5基の竪穴墓から黄金の仮面をはじめとする大量の黄金製品と青銅刀剣類その他の副葬品が出土した。…
※「シュリーマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新