翻訳|Gypsy
ヨーロッパを主として,日本など一部の国を除く世界各国に散在している少数民族を指す他称(英語)。ジプシー自身は,自分たちのことをロムromとかロマroma(複数形),あるいはロマニチェルromanichelなどといっている。これらは彼らの言葉で〈人間〉を意味し,軽蔑的なニュアンスがまったくないから,最近ではジプシーのことをロマとか,ロマニーRomany,彼らの言葉をロマニー語と呼ぶことが多くなっている。定住しないということで,定住民の側から〈流浪の民〉などと呼ばれてきたが,そのような生活様式は彼らの置かれた歴史的状況から強いられたという事情もあり,また定住した人々も少なくない。彼らは定住民などの他者を〈ガジョgadźo〉(複数形〈ガジェgadźé〉)などと呼んでいる。定住民の側が彼らを指すのに用いた他称には,歴史的状況からして多くの場合に差別的含意が伴うことに留意すべきであろう。
ジプシーの人口は正確にはつかめない。1975年の調査推定によると,ヨーロッパにおよそ270万,西アジアと北アフリカに200万,南北アメリカに200万,世界全体で700万~800万とされているが,出生率が相対的に高いこともあって,近年の推定ではヨーロッパだけで500万以上とするものもある。ヨーロッパのなかでは東欧が圧倒的に多い。
ヨーロッパの各国語には,ジプシーに対する呼名が,それぞれいくつかある。英語では,イジプシャンEgyptian(エジプト人)がつまったジプシー,フランス語ではジタンgitan,スペイン語ではヒタノgitanoと呼んでいるが,いずれも,彼らがエジプトから来た,と考えられたことを示している。フランス語では,ボエミアンbohémien(ボヘミア人),ツィガンtsigane(tzigane)とも呼ぶが,後者はドイツ語のツィゴイネルZigeuner,イタリア語のツィンガロzingaroなどと同じく,昔ギリシアでジプシーがアツィンガニ(〈異教徒〉の意)と呼ばれていたことに由来する。また,フランスでは,ジプシーが自分たちのことを職業や地域などによって,カルデラシュ,ジタン,マヌーシュと三つに分け,ドイツでは,ジンテとロマの二つに分けている。しかし,こういう細分はジプシーのなかにいくつかの系統があることを示すものかもしれないが,他の地域では行われていない。
バルカンやギリシアを経て,15世紀初頭に,ジプシーは初めて西ヨーロッパに現れる。15世紀前半のパリ生活のすぐれた描写で知られる《パリ一市民の日記》によれば,1427年に12人のジプシーがパリに到着する。〈たいていの男たちは両耳たぶに穴をあけ,銀のイアリングをつけているが,顔色は黒く,頭髪は縮れている。……女たちは手相を見たり,占いをしたりするが,そのほかに魔術を使って人々の財布を巧みにからにしてしまうことがある〉。彼らは,いったん捨てたキリスト教に戻るために,教皇の命により7年の懺悔(ざんげ)と苦行の旅を命じられていたという。顔色は浅黒く,頭髪は漆黒で,身体は大きくない。人種が明らかに違い,話す言葉はヨーロッパのどの言葉とも異なり,文字はもっていない。定住して農耕に従事することはせず,住民のなかにとけこむこともない。占いを得意とするところから見ると,キリスト教徒ではないらしい。エジプト人であるとの憶測もなされたが,正体はまったくわからなかった。
18世紀末,ドイツの言語学者ハインリヒ・グレルマンらが,偶然のことから,ジプシーの話す言葉がインドの言語に似ていることを発見し,言語学的研究を進めた結果,ロマニー語はインド・ヨーロッパ語系の一つであって,ある時期のサンスクリットと共通点が多いことをつきとめるに至った。これがジプシー・インド起源説の発端である。現在のところ,ジプシーは,アーリヤ系の民族で,紀元1000-1100年ごろ,インドの西北部を離れて西へ移動を開始した,というのが定説になっている。ただ,移動の経路,人数など,つまり,インドとヨーロッパの中間については何もわかっていない。ジプシーの一部は東に向かい,日本で傀儡(くぐつ)になったという説も,想像としてはおもしろいが根拠に乏しい。これに反し,ヨーロッパに入ってからの動静については,住民側の記録もあり,ロマニー語の研究も進んでいるので,かなりよくわかっている。現在の人口分布は(1980年推定,G. パックソンらによる),旧ユーゴスラビア(75万),ルーマニア(68万),スペイン(66万),ハンガリー(60万)の順に多く,旧ソ連(48万),ブルガリア(45万),旧チェコスロバキア(37万),フランスと続くが,イギリス,ドイツは10万以下である。なお,アメリカ合衆国とカナダは合わせて30万程度だといわれている。
イランの詩人フィルドゥーシーの《シャー・ナーメ》(1010)に登場する,牛とロバを連れ,楽器を持ってインドから移動してきた1万人のルリLuri族が,ジプシーの先祖だとすると,彼らの乗物はロバだったかもしれない。しかし,西ヨーロッパに入ったとき,ジプシーの一部は馬に乗っていたが,大部分は徒歩で,テントを携行していた。家馬車といわれるジプシー特有の居住できる馬車を使うようになったのは19世紀に入ってからのことである。しかし,第2次大戦以後になると,多くのジプシーが馬車を自動車に乗りかえているし,定住するものも多くなっているので,昔のように馬車で流浪するジプシーは,全体の1~2割にすぎないといわれている。
彼らの日常生活は,もともと簡素である。酒とタバコは大好きだが,食事は自然の産物を簡単に調理したもので済ませている。民族衣装というものはなく,地域住民の不要になった衣類を手に入れて着る。ただ,女性のだぶだぶした長いスカートと,彼女らがときに身につける金銀の豪華なアクセサリーは,ジプシー独特の雰囲気をかもし出す。男の伝統的な職業は,馬の飼育・売買など,自分たちの流浪の伴侶を扱う仕事が第一だが,蹄鉄づくり,鍛冶,鋳掛け,金属加工などはインド以来の特技である。男がつくった籠や木工品の類を村人に売り歩くのは女性の仕事で,薬草とりや占いは女性しかやらない。ただし,ジプシーは自分たちどうしではけっして占うことをせず,対象はあくまでも非ジプシー(ガジョ)だけである。男女とも他人に恒久的に雇われるのは嫌う。総じて彼らの職業は,流浪しながらできるものであると同時に,農村の住民と有無相通ずる関係のものが多い。熊の曲芸や見世物を専門とするジプシーは,村の祭りには不可欠であり,また,彼らがもっとも得意とする音楽の演奏や踊りは,田舎の貴族の婚礼などで歓迎された。
ジプシーは流浪する場合,数家族から十数家族,100名ぐらいを単位として,つかず離れずに移動するが,その範囲は一定の地域に限られているのが普通であり,移動中の連絡には,パトランpatrinと称する標識が使われる。各グループには,全体を取りしきる首長がいて,クリスkrisと称する代表者会議で,もめごとその他を処理している。ジプシーがこれ以上の大きな集団を組織することはない。
冠婚葬祭をはじめ,日常生活の隅々にまで,数多くのタブーやしきたりがある。結婚においては,原則として両親の同意が必要であり,男のほうの親が花嫁を金で買う。月経期間中の女は男の食事を作ってはいけないし,男の衣服を洗ってもいけない。死は最大の穢れであり,テントや馬車の中で死んだ場合は,死者の持物もろともテント,馬車を焼き払う。ジプシーというと,その特異な風習が強調されがちであるが,地域やグループによる差異も大きく,また,それがジプシー本来のものか,全体に共通するものなのか,はっきりしない場合も多い。ロマニー語も地域の言葉が混入して,方言化が激しいし,伝承による民話も豊富ではあるが,純粋にジプシーだけのものといえない例もある。ジプシー全体に共通の行事としては,毎年5月に南フランスのサント・マリー・ド・ラ・メールで開かれる,彼らの黒い守護神サラSarahの祭りがある。この地への巡礼は19世紀から広まったらしいが,現在でも数万のジプシーが集まってくる。
ヨーロッパにおけるジプシーの歴史は,地域住民から加えられる差別と迫害の連続であった。定住者と流浪の民では,土地の使用権ひとつをとっても,考え方が根本的に食い違う。だれかが土地を独占するという観念は,ジプシーの理解の外にあり,草や樹木,鳥や獣,魚などはすべての人類に共通な財産と考える。どこへ行ってもジプシーは嫌われ,排斥された。彼らは定住したかったが,定住させてもらえなかったというのが真相かもしれない。1554年にイギリスで出された〈ジプシーであれば死刑〉という極端な法令は別としても,18世紀半ばのマリア・テレジアの定住・改宗命令など,公権力の圧迫も激しかった。現在,南北アメリカやオーストラリアに多数のジプシーがいるのも,ヨーロッパ各国政府による集団追放がそのきっかけであった。
しかし,1933年からのナチスによるジプシー絶滅政策ほど徹底的なものはなかった。ジプシーの存在はドイツ人の純潔をそこない,ドイツ社会を堕落させてしまうと考えたナチス政府は,ユダヤ人とともにジプシーを大量処刑することに踏み切った。アウシュビッツその他の強制収容所で殺されたジプシーの数は50万に上っている。この暴挙は,補償問題など今日まで尾を引いているが,逆に彼らの民族的自覚と団結を促すことにもなっている。
第2次大戦までとそれ以後とでは,ヨーロッパのジプシーの状況は著しく異なっている。彼らは,19世紀以来,ある意味ではヨーロッパの人々に親しまれてきた家馬車を捨てて,トラックやキャンピングカーに乗り換え,仕事は馬の飼育や鋳掛けのかわりに,中古自動車の売買や解体作業などに転換した。問題は,こういう近代化に乗り遅れた大多数の人々のことである。いきおい彼らは,都市の周辺などに難民キャンプのような住居をつくって住みつき,盛り場などで生計の資を稼ぐことになる。こういう状況はどこの国でも目につくが,これに環境,治安,衛生などの問題がからんで,住民や官憲のジプシーに対する態度をいっそう硬化させつつある。
一方,外面の近代化と並行して,彼らの自己主張のための組織づくりも始まっている。1971年に結成された世界ロマニー連盟World Romany Unionは,これまでに何度か大会を開き,各国から数百名が参加して当面の問題を討議するとともに,国際機関にも熱心に援助を呼びかけている。1977年にはこの連盟の働きかけによって国連は,〈各国政府は,その領域内に住むジプシーに対し,その権利を完全に与えなければならない〉という趣旨の決議を採択した。
差し迫った問題は,キャラバン・サイト(上下水道,電気,ガスなどを設置したジプシー用の広い駐車場)の増設要求と,ロマニー語の使用を含めた子弟の教育をどうするかという点であるが,前者はEU(ヨーロッパ連合)からの各国政府への呼びかけもあって,すでにある程度は進んでいる。しかし後者はなかなか困難である。もともと彼らには学校教育は必要ないという態度がみられたが,現在では,子弟にロマニー語を含めた全体的な教育を与えなければ民族集団としての将来は危ない,という認識に近づいたというのが実情であろう。ただ,この問題に関しては,ヨーロッパ審議会から1987年に各国の専門家による実情報告書が出されており,また,どのグループが使っているロマニー語を標準とするか,アルファベット表記や文字化のスタイルなどロマニー語教育の基本的な問題も,世界ロマニー連盟やヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE。現,ヨーロッパ安全保障協力機構(OSCE))の下部機関などで,熱心な討議が進められている。
一方,彼らを取り巻く状勢はいちだんと厳しく,ネオ・ナチによる散発的ないやがらせといった段階を超えている。このところ,EC,EUと政治的・経済的な一体化を目ざして進んでいるヨーロッパは,1989年11月のベルリンの壁の崩壊をきっかけに,人の動きの点ではまさにボーダーレスな世界になりつつある。経済状態の悪い旧社会主義圏から西側諸国への移動はとくに著しい。そして,この出稼ぎ労働者,移民,難民などの大きな渦の中に,本来国境を自由に越えていたジプシーまでも巻き込まれる事態が生じている。ルーマニアから入った数万人のジプシーをドイツ政府が経済難民と認定して強制送還した措置(1992)のような,乱暴な対策がすでにとられつつある。越境するジプシーを単に他国へ送り出せばよいというような,EUの目ざす方向とは逆の事態が生じている。
→ジプシー音楽
執筆者:木内 信敬
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ヨーロッパを中心に、東アジアを除くほぼ世界中に分布、生活する少数民族ロマをさす、英語の呼び名。長らく使われてきたが、現在は彼ら自身が用いる自称「ロマ」を採用するよう改められている。
[編集部]
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…そのおもなものとしては,インドの公用語ヒンディー語,パキスタンのウルドゥー語のほか,中央にパンジャービー,ラージャスターニー,グジャラーティー,北にパハーリー,西北にラフンダー,シンディー,カシミーリーの各言語,南にマラーティー語,東にオリヤー,ビハーリー,ベンガリー(ベンガル語),アッサムの各言語,それにセイロン島にシンハラ語がある。なおこのほかに現在ヨーロッパにも分散して居住するジプシーの言語は,インド語派の流れをくむものである。またカーブルの谷の周辺のカーフィリスターンの言語は,インド語派の特徴をもちつつ,言語学的になおこれとイラン語派の中間に位置する,貴重な資料である。…
…スペインではこのような住居をカーサcasaと呼ぶが,これとまったく対照的な穴居住居がアンダルシア地方にある。クエバスcuevasと呼ばれるジプシーの住居で,丘のくぼみを利用した小広場を中心に,周囲の崖を横穴式にくりぬいたものであり,数戸が集まってクラスター(群)を形成する。小広場は作業場,洗濯場,物干場,子どもの遊び場と多目的に使用される。…
…ドイツ民話に語られる〈ハーメルンの笛吹き男〉はその具体例といえるだろう。 14~15世紀にはヨーロッパにジプシーが流入し,大道芸の新たな担い手となった。彼らはインド北西部から移住してきたといわれる芸能に長じた民族で,後方が舞台にもなるワゴンを連ね,猿や熊の曲芸,手品や占い,そして独特な歌舞を演じて生計を立てた。…
…デカン半島の主要人口はメラノ・インド人種またはドラビダ人種と呼ばれ,黒人的特徴に,波状毛,正顎,頤(おとがい)の発達,血液型のRh-の存在など,白人要素が加わっている。ジプシーはこれとインド・アフガン人種の混血と考えられる。メラネシア人種は暗色,多色,モップ状の特有の髪をもち,ときに鉤鼻(かぎばな)を有する。…
…南スペイン,アンダルシア地方のジプシーの間で発達した音楽,舞踊。語源は明らかでない。…
※「ジプシー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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