改訂新版 世界大百科事典 「ブルグント王国」の意味・わかりやすい解説
ブルグント王国 (ブルグントおうこく)
ブルグントBurgund族が5~6世紀にローヌ川流域を中心に建国した国家。443-534年。ゲルマン人の一部族で,スカンジナビア半島を故地とするブルグント族は,300年以後マイン川両岸流域に定住していたが,406年ローマ帝国の領内に侵入することに成功した後,413年ローマの同盟者としてライン川西方地域に植民した。436年彼らは西方に勢力を伸ばそうと企てるが,フン族の援軍の力を借りたローマの将軍アエティウスのために壊滅的打撃を被った。この事件はドイツ中世の英雄叙事詩《ニーベルンゲンの歌》によって,アッティラ指揮下のフン人によるグンターの王国の滅亡として伝承された。
残存のブルグント族は,443年,あらためて同盟者としてジュネーブ周辺の地域に移住して王国を再建した後,461年ころのリヨンの占領を契機に,ローヌ川回廊地域で南北両方向に勢力を拡大,グンドバート(グンドバド)Gundobad王(在位480-516)の時代に最盛期に達する。しかし,王国内におけるブルグント人植民者は少数であったうえに,いくつかの特定の地域,とりわけスイスのフランス語圏地域,ジュラ地方,ソーヌ川流域に集中していた。かつまた,彼らは大規模な集団をなしてではなく,個々ばらばらか小集団で,ローマの国庫領や,あるいはローマ人土地所有者に土地の3分の1と森林の半分と奴隷の3分の1を割譲させて,入植を行っている。こうして彼らは先住民の中に急速に融合していって,彼らの言語は7世紀にはわずかな方言になごりをとどめているにすぎなくなった。ただし,さまざまな要素の混合から成る固有のブルグント民族意識は9世紀まで強く生き続ける。
ブルグント王国は西ゴート王国や東ゴート王国と同じくゲルマンとローマの二元国家であったのは明らかである。グンドバート王によって発布された法を基礎にして成立した〈ブルグント部族法典〉はゲルマン諸部族法のなかで最もローマ法の影響を受けていて,先住ローマ人とブルグント人の間の身分的平等(相応する身分について同一規準の賠償金)を宣明している。また国王は二重の肩書をもっていて,ローマ人にとっては軍隊指揮官,ブルグント人にとっては王であった。ローマ式の執政官名暦の使用や,都市制度の存続や,中央官庁と地方行政機構の継承などは可能な限りローマの国家構造を維持しようとの意図を示している。そのうえ国王の側近や役人としてローマ人貴族も登用されている。さらに宗教面においても,ブルグント人は相変わらずアリウス派を信仰し続けていたが,グンドバート王はローマ人のカトリック信仰に対して寛容政策を実施し,ウィエンヌ(ビエンヌ)司教アウィトゥスと友好関係を保っていた。グンドバートの息子シギスムントSigismund王(在位515-523)はカトリックに改宗するが,この改宗はむしろ,アリウス派ブルグント人の離反,次王グンディマルGundimar(在位524-534)のアリウス派への復帰とカトリック聖職者の動揺と離反といった混乱を王国内に引き起こして,534年のメロビング朝王権の介入によるブルグント王国の滅亡を招くことになった。
執筆者:下野 義朗
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報