デジタル大辞泉
「スクリバ」の意味・読み・例文・類語
スクリバ(Julius Scriba)
[1848~1905]ドイツの外科医。1881年(明治14)に来日して西洋外科学を紹介し、日本の近代医学に貢献。
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スクリバ
- ( Julius Scriba ユーリウス━ ) ドイツの医学者。ハイデルベルク大学卒。明治一四~三四年(一八八一‐一九〇一)、帝国大学医科大学教授。退官後は、聖路加病院外科主任をつとめ、日本の近代外科医学の基礎を築いた。東京で没。(一八四八‐一九〇五)
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スクリバ
すくりば
Julius Carl Scriba
(1848―1905)
ドイツの外科医。明治期のお雇い外国人の一人。1874年ハイデルベルク大学で医学を学び、ドクトルとなる。在学中プロイセン・フランス戦争に従軍、その後ベルリン、フライブルクの大学などで外科医学を学んだ。1881年(明治14)シュルツェEmil A. W. Schultze(1840―1924)の後任として東京大学医学部に招かれた。外科手術に優れ、温和で恬淡(てんたん)な気質で人気があり、1901年(明治34)名誉教師の称号を贈られ東京帝国大学を退任するまで在職20年に及び、ベルツが日本医学の父とよばれるように、彼は日本外科学の恩人と敬慕されている。日本で最初の腎臓(じんぞう)摘出手術や、縫合に絹糸を用いたことなどが知られている。
陸軍軍医総監で侍医の橋本綱常(1845―1909)、枢密顧問官青木周蔵らと親交があり、宮中、貴顕に交際が広く、大学の外科学教授としてだけでなく、陸軍軍医部における軍陣外科学、同衛生学、またベルツとともに中央衛生会委員として検疫、防疫体制の発展に尽力した。大学退任後は聖路加病院外科主任となり明治38年病没。日本人の妻神谷ヤスとの間に3男がある。
[神谷昭典 2018年8月21日]
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スクリバ
Julius Karl Scriba
生没年:1848-1905
明治期に来日したドイツ人医師で,日本近代外科の確立に大きく寄与した。ワインハイムに生まれ,ハイデルベルク大学卒業。陸軍軍医,フライブルク大学講師を経て,招かれて1881年東京大学医学部教師となる。外科学の講義と診療に従事し,積極的に手術を行ったほか,皮膚病梅毒学,眼科学,裁判医学などを担当した。E.vonベルツとともに東大医学部における最後の外人教師となった。日本薬局方の制定に関与したほか,大津事件,濃尾大地震,李鴻章負傷事件などでは現地に出張した。1901年東大を退職し,聖路加病院の外科主任となったが,在日24年,鎌倉で没した。夫人は日本人。墓が青山墓地にある。
執筆者:長門谷 洋治
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スクリバ
没年:明治38.1.3(1905)
生年:1848.6.5
明治期に来日したお雇い外国人。ドイツ人外科医。ハイデルベルク大卒,陸軍軍医。明治14(1881)年6月5日,シュルツェのあとを受け,東大3人目の外国人外科学教師となる。東大ではベルツ(内科学)とスクリバが最後の外国人教師。気管切開や腎臓剔出を行うなど,わが国近代外科・麻酔学の基礎づくりに貢献。皮膚病黴毒学,眼科学,裁判医学も講じ,日本薬局方制定にも関与した。大津事件,濃尾大地震,李鴻章負傷事件などでは現地に出張。34年,在任約20年の東大を退き,その後聖路加病院外科主任となる。その名声は日本国内のみでなく,東南アジア各国にとどろいた。植物学にも造詣が深く,日本の美術品にも注目した。日本でシェパード犬を飼った最初の人ともされる。妻は日本人の神谷ヤス,子孫は須栗場姓を名乗る。鎌倉で没し,青山霊園に葬られた。ベルツと並んだ像が東大にある。<参考文献>石橋長英・小川鼎三『お雇い外国人―医学』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
スクリバ Scriba, Julius Karl
1848-1905 ドイツの医学者。
1848年6月5日生まれ。明治14年(1881)来日し,シュルツェの後任として東京大学の外科教師となる。皮膚病学,梅毒学,眼科学,裁判医学も担当。34年大学を退職し,聖路加病院の外科主任となる。日本外科学の恩人といわれる。明治38年1月3日鎌倉で死去。56歳。ワインハイム出身。ハイデルベルク大卒。
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スクリバ
生年月日:1848年6月5日
ドイツの外科医
1905年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のスクリバの言及
【手術】より
…明治になるや政府は軍事病院(東京府大病院)と幕府時代の医学所とを合わせて医学校兼病院(のちに大学東校と改称)としたが,これが東京大学医学部の前身である。医学校兼病院長であったW.ウィリスはイギリス人であるが,その後(1869年,明治2年6月)ドイツ医学採用の政府決定により,ドイツ人のミュラーL.Müller,シュルツェW.Schultze,J.スクリバの順に大学東校(または東大医学部)教師として外科の講座を担当した。こうして明治以来,日本の医学はドイツ医学の影響を強く受けてきたが,第2次大戦後はアメリカ医学の影響下に置かれ,外科も例外ではなかった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」