翻訳|star system
映画会社が、専属するスターの人気や知名度に依拠した映画の製作方式をいう。このシステムは、いろいろな形で世界各国でみられ、現在でも存在する国もある。もっとも典型的なケースは、かつてのアメリカ映画におけるシステムである。1910年代末には完成していたといわれ、その後、大きな発展を遂げ、第二次世界大戦前から、他の国とは比較にならないほど大規模なものになった。1910年、女優フローレンス・ローレンスFlorence Lawrence (1886―1938)が新聞や雑誌などでその名を大々的に宣伝され、スター第1号が誕生した。以後、「アメリカの恋人」とうたわれたメアリー・ピックフォードを筆頭に、女優ではリリアン・ギッシュやグレタ・ガルボ、男優ではダグラス・フェアバンクス、ルドルフ・バレンチノ、ハンフリー・ボガートらのスターが大人気となり、戦後でも、男優のジョン・ウェインやジェイムス・ディーン、女優のマリリン・モンローらが人々の憧れの的となった。しかし1950年代になって従来の製作システムが破綻し始めると、スター・システムも後退していくことになった。
[奥村 賢 2022年6月22日]
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…こうして,名まえが大衆に知られた最初の〈スター〉が誕生したのであった。
[スター・システム]
1900年代の初めにフランス映画界の支配者となったシャルル・パテは,映画では俳優の頭から足まで全身がスクリーンに写るように撮影しなければならないと配下の監督たちに指示したと伝えられているが,アメリカのエドウィン・S.ポーター(1869‐1941)やD.W.グリフィスの実験的なクローズアップの使用は,演劇の伝統に固執するパテの考えをくつがえし,俳優の魅力を強調してその人気をさらに高めた。 09年,バイタグラフ社の映画のスチール写真をいれてプロットやあらすじをよびものにした最初のファン雑誌《モーション・ピクチャー・ストーリーズ》が発刊されて,初めてメリー・ピックフォードの名まえが明かされた。…
…あと二つは,〈蒲田調〉と呼ばれる作風の松竹映画と,これに対して〈日活調〉と呼ぶことのできる日活映画であり,ともに現代劇が中心になっている。 松竹の蒲田撮影所からは,《虞美人草》(1921)で人気スターになった栗島すみ子につづいて,川田芳子,五月信子らの人気女優が続出し,日本映画における〈スター・システム〉誕生の転機となったことで知られる栗島・川田・五月共演の《母》(1923。野村芳亭監督)を一つの頂点とするメロドラマが多くつくられた。…
…なかでもアメリカでは1910年代に,大資本によって大規模にスターがつくり出されるようになった。いわゆるスター・システムの盛況である(詳しくは〈スター〉の項を参照)。そしてこの映画俳優のありようは1930年前後に,サイレント映画がトーキー映画に変わるにつれて,そこに要求される資質は内容を変え,たとえば従来の容姿端麗なスターでも声の悪いスターは退陣を余儀なくされた。…
…第1次世界大戦が始まると同時に,ヨーロッパではほとんどすべての国で映画の製作を中止したが,アメリカ映画は大戦中のアメリカ資本主義の成長におとらないテンポで膨張発展し,レオン・ムーシナックによれば〈アメリカは世界の陸地の6%を所有し,人口は7%,小麦の生産は27%,石炭は40%,電話の使用は63%,トウモロコシは75%,自動車は80%,そして映画の製作は世界の85%を超えて〉いた。そして1920年には,ヨーロッパから才能ある監督や俳優や技術者を〈輸入〉した主要撮影所のめざましい成長と〈スター・システム〉のおかげで,ハリウッドは毎年2億ドルを投じて800本近い映画を製作していた。カウボーイを偶像視した活劇が〈フロンティア・スピリット〉を賛美する西部開拓劇に変わった22年ころ,土地ブームが始まり,石油が発見されて,戦後の苦境と不況から脱出を夢みる人々がアメリカのいたるところから南カリフォルニアへ大挙して押しかけ,そのなかでハリウッドは〈夢の都〉であった。…
※「スターシステム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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