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ゼークト Seekt, Hans von

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ゼークト
Seekt, Hans von

[生]1866.4.22. シュレースウィヒ
[没]1936.12.27. ベルリン
ドイツの陸軍軍人。 1896年陸軍大学校卒業。第1次世界大戦中,ドイツ,オーストリア,ブルガリア軍などの連合方面軍参謀長などをつとめた。敗戦後帰国してドイツ軍最後の参謀総長となり,ベルサイユ条約でドイツ参謀本部が廃止されるまでその職にあった。その後 1920~26年の間,ドイツ陸軍司令官として新国防軍組織の任にあたり,10万人に制限された軍隊の全員に,将校として軍隊を指揮統率できるような教育を行い,軍拡張の人的基礎をつくった。フランスとの戦争が避けられないのを予想して,ソ連軍との積極的な協力政策をとり,ソ連軍を教育する名目で航空機や戦車の搭乗員の訓練をソ連内で行い,最新兵器の取扱いに習熟させた。 26年上級大将に進み,まもなく退役して,30~32年国会議員,34~35年南京政府の軍事顧問をつとめた。著書『一軍人の思想』 Gedanken eines Soldaten (1929) など。

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百科事典マイペディアの解説

ゼークト

ドイツの軍人。第1次大戦中諸戦線で参謀長。戦後陸軍統帥部長官となり国防軍を再建,仏・ポーランドと対抗するためソ連と協力を企図。1926年退官後,一時中国政府軍事顧問となった。

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世界大百科事典 第2版の解説

ゼークト【Hans von Seeckt】

1866‐1936
ドイツの軍人。プロイセン軍人家系の出。シュレスウィヒ生れ。第1次世界大戦間,参謀将校として声価を高め,終戦時トルコ軍参謀長。ベルサイユ会議でドイツ講和全権団の軍事顧問。戦後の1919年国防省軍隊局長,20‐26年同統帥部長官として,条約により10万人に制限された国防軍の再編と育成にあたった。この間国内の混乱,左右勢力の対立のなかで軍を厳格に統制して政治的中立を貫き,〈国家の中の国家〉としての軍の立場と将校団を維持した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ゼークト
ぜーくと
Hans von Seeckt
(1866―1936)

ドイツの軍人。第一次世界大戦では参謀将校として東部戦線、バルカン戦線、トルコ戦線で活躍。1920年陸軍統帥部長官となり、兵力10万の新国防軍を再建した。ここでは指揮官としての教育を徹底しただけでなく、機動戦を重視し、ソ連との軍事協力によってベルサイユ条約で禁止された戦車や航空機の訓練を行い、将来の軍備拡大に備えた。また政治的中立を標榜(ひょうぼう)したが、これは王朝主義的、国粋主義的伝統の温存を意味した。彼自身議会制民主主義を好まず、カップ一揆(いっき)、ヒトラー一揆など右翼クーデターの試みにはあいまいな態度を示しながら、1923年のザクセンとチューリンゲンの左翼政権には断固たる行動をとったからである。1926年、元皇太子の長男の軍事演習参加をめぐって国防相ゲスラーとの対立を深め、長官を辞任した。1930~1932年、資本家の政党ドイツ人民党の国会議員となり、国家人民党、ナチス党、鉄兜(てつかぶと)団などの右翼勢力を結集したハルツブルク戦線の結成に関与した。1934~1935年、蒋介石(しょうかいせき)の軍事顧問として中国国民党軍の育成に努めた。[吉田輝夫]

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367日誕生日大事典の解説

ゼークト

生年月日:1866年4月22日
ドイツの軍人
1936年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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