ドイツの経済学者、社会学者。ベルリン大学で学び、G・シュモラー、A・ワーグナー、W・ディルタイ、K・マルクスなどの影響を受けた。大学卒業後1885~1888年イタリアのピサに遊学。1888~1890年ブレーメン商工会議所顧問。1890年からブレスラウ大学、1906年からベルリン商科大学、1917年からベルリン大学教授を歴任し、1931年ベルリン商科大学名誉教授。1904年以来、M・ウェーバーらと『社会科学および社会政策雑誌』Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitikの編集にあたり、社会政策における倫理的立場をも重要視するシュモラーらの新歴史学派と争い、社会政策の科学性を確立しようとした。
初期の著作『社会主義と社会運動』Sozialismus und sozial Bewegung im 19. Jahrhundert(1896)では多分にマルクス主義に共感を示していたが、晩年はマルクス主義に批判的になり、同書の改訂版『プロレタリア社会主義』Der proletarische Sozialismus(1924)では、民族に基礎を置く社会主義を主張するようになった。経済学者としては、理論を軽視する歴史学派、自然科学的方法に依拠する当時の理論的経済学のどちらに対しても批判的で、「経済体制」Wirtschaftssystemという概念を中心に、理解社会学的な角度から理論と歴史とを総合した経済社会の全体的把握の道を切り開こうとした。その面での代表作として『近世資本主義』全2巻Der moderne Kapitalismus(1902)、『高度資本主義』Das Wirtschaftsleben im Zeitalter des Hochkapitalismus(1927)があり、またその方法論をより詳細に展開したものに、晩年の『三つの経済学』Die drei Nationalökonomien(1930)がある。
[早坂 忠]
『小島昌太郎訳『三つの経済学』(1933・雄風館書房)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ドイツの経済学者,社会学者。ハルツのエルムスレーベンに生まれる。ベルリン大学,ピサ大学に学び,1890年ブレスラウ大学助教授,1906年ベルリン商科大学教授を経て,17年ベルリン大学教授となる。31年退職して名誉教授となった。30代半ばころまでは,マルクスの強い思想的影響のもとに階級闘争史観を信奉していた。《社会主義と社会運動》(1897)はその当時の代表作である。しかし,第1次大戦後の歴史的動乱の中で体験した階級闘争の現実に失望してマルクス主義を放棄し,理想主義的色彩の強い民族社会主義を唱道した。その結果,ナチズムに協力したという評価が生まれたが,民族有機体説および民族中心主義の否定という点で,ナチズムに対しても批判的だった。それよりも,彼の本領は,理解社会学的方法(理解には合理的なものと感情移入的な追体験によってなされるものがあり,人間を対象とする科学では,後者がもっぱら個別的な解明をもたらすという考え)を駆使して,〈経済体制〉としての資本主義の具体的・包括的把握を試みた点にある。資本主義を初期,高度,後期の3段階に分類し,それぞれについて,(1)企業家とその精神,(2)政治組織としての国家,(3)技術と知識の3側面からアプローチした《近代資本主義》全3巻(1902-28)は,M.ウェーバーの著作と並び,資本主義の体系的理解に大きく寄与した。
執筆者:高橋 徹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
1863~1941
ドイツの経済学者。経済理論と歴史の総合に努め,『近代資本主義』(全3巻)を著した。当初マルクス主義に好意的であったが,しだいに右傾,民族に基礎を置く社会主義を主張するに至った。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新