日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウェルナー」の意味・わかりやすい解説
ウェルナー(Alfred Werner)
うぇるなー
Alfred Werner
(1866―1919)
スイスの化学者。金属錯体化学の体系化において決定的な役割を果たし、いわば現代無機化学の出発点ともなった、いわゆる配位説の樹立者。12月12日、フランスのアルザス州ミュルーズで生まれる。その幼時1871年にプロイセン・フランス戦争の結果、彼の生地はドイツ領となり、第一次世界大戦までミュールハウゼンとよばれることとなるが、彼の家庭ではフランス語が話され続けたという。化学者となってからの彼自身は、ほとんどすべての研究論文をドイツ語で書き、ドイツとスイスの学術雑誌に発表したが、その政治信条と文化的教養はフランスに傾斜していた。ウェルナーは初等教育をミュールハウゼンで、兵役をカールスルーエで終えたのち、1886年にスイスのチューリヒに移り、国立工業大学に入学、当代一流の大化学者G・ルンゲ、ハンチ、トレッドウェルF. P. Treadwell(1857―1918)らから学んだ。1890年チューリヒ大学(工業大学とは別)で学位を得たのち、一時パリのコレージュ・ド・フランスでベルトロに学び、チューリヒに帰った。そして1893年弱冠26歳で発表した『無機化合物の構造への寄与』という論文こそ彼の新しい配位説の基礎を置いた画期的なものである。
彼の配位説の骨子は、たとえば、ヘキサアンミン・コバルト錯体においては、正八面体の中心にコバルト原子が位置し、六つの頂点にアンモニア分子が配位するというものである。それまでブロームストランドChristian Wilhelm Blomstrand(1826―1897)やヨルゲンセンSophus Mads Jørgensen(1837―1914)は、有機化学の体系化において大きな勝利を収めた炭素鎖状説に範をとって、いわゆるアンミン鎖状説を唱え、錯体中にアンモニアの連鎖を考えたが、ウェルナーはこれを排して、一見奇想とも思われる八面体説を提唱し、まったく演繹(えんえき)的に無数の錯体群を一体系に整理したのである。この年(1893)チューリヒ大学の助教授に、1895年には同大学教授となり、生涯をそこで過ごした。この「演繹的」な配位説に基づいた約18年間にわたる実験研究の成果が、1911年に300ページの大論文として発表され、さらに光学異性をもつ錯体の合成へと進んだが、この間1913年にはノーベル化学賞を授けられた。大学教授らしからぬ、街の親分然としたその風貌(ふうぼう)に学生らは「肉屋」Metzgerの愛称を呈したという。2年来の動脈硬化症が悪化して、1919年11月15日、この「無機化学の革命家」はわずか53歳で世を去った。
[中川鶴太郎 2018年6月19日]
ウェルナー(Abraham Gottlob Werner)
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Abraham Gottlob Werner
(1749―1817)
ドイツの鉱物学者、地質学者。世界最初につくられた鉱山専門学校であるフライベルク鉱山学校の教授を40年以上も務めた。アグリコラの伝統を継ぐ実証主義的な鉱物学者であったが、一方、地質学の方面では水成論者の代表として知られている。一部の火山岩以外あらゆる岩石は海水から沈殿したと考えた。したがって、花崗(かこう)岩や片麻岩までも太古の海水から堆積(たいせき)したとした。有名なのは玄武岩(げんぶがん)の研究で、しばしば地層中に層状に挟まれていることから、疑うこともなく堆積岩としたことである。しかし、実際噴火している火山が各所にあるため、こういうものは例外として扱った。この現象は、地下にある石炭層が燃え、その熱で溶けた岩石が地上に出るものと説明した。現在では通用しない面も多いが、ドイツのザクセン地方の層序を確立するなど地質学的貢献も大きい。
[松原 聰]
ウェルナー(Heinz Werner)
うぇるなー
Heinz Werner
(1890―1964)
オーストリアの心理学者。ウィーン、ミュンヘン、ハンブルクなどで学び、のちナチスに追われてアメリカに移住した。ミシガン大学、クラーク大学などの教授を歴任し、知覚・言語・表情の発生に関する実験研究、児童、精神遅滞、未開社会、動物の比較研究など多彩な業績をあげた。現代発達心理学の支柱を築いた一人。未分化な全体から特殊機能が分化し、また、低次な機能がより高次な構造のなかに総合されるという、分化と階層的総合の両過程が発達の原理をなすと説いた。著書に『発達心理学入門』(1922)などがある。
[藤永 保]
ウェルナー(Zacharias Werner)
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Zacharias Werner
(1768―1823)
ドイツ・ロマン派の劇作家。ケーニヒスベルクに生まれる。官能生活への惑溺(わくでき)と敬虔(けいけん)な信仰の間に揺れ動く不安定な性格に苦しみ、1810年カトリックに改宗。のちにカトリック司祭となり、晩年は説教司祭としてウィーンで名声を博した。代表作『二月二十四日』(1810初演)は当時ドイツ演劇界を風靡(ふうび)した運命悲劇の先駆的作品で、偶然のなかに呪(のろ)いが完成してゆく宿命論的悲劇である。
[中井千之]