19世紀の40年代にドイツに成立し,同世紀後半にかけてドイツで隆盛を誇った経済学の一思潮。学説史のうえではA.スミスやD.リカードらの古典派経済学(古典派と略称)に対する批判ないしは反動として位置づけられている。古典派や,また古典派を批判する社会主義が,それぞれ独自の体系を有するのに対して,歴史学派は結局は体系らしきものを生み出さなかった。歴史学派は特定の体系を共有する学派というよりは,むしろ特定の思考方法を共有する学派だという性格をもっている。その意味で,同じ思考基盤に立つ法学,政治学,言語学などにも歴史学派の名称を冠する場合がある。
歴史学派の思考方法を特徴づけ,この学派の血となり肉となっているのがロマン主義であり,またそれを一つの世界観に昇華させた歴史主義である。ロマン主義は啓蒙主義に対する対抗運動として,みずからの立場を徐々に明確にしていき,フランス革命を契機にしてその政治的立場をあらわにしていったもので,反理性が思想的中核をなしている。理性に対して,生のもつ意義が強調され,抽象的,概念的な思考方法に対しては状況論的な思考方法,すなわち時代の状況に身をおいて状況の具体的な連関を直観によって把握する方法が主張される。さらに啓蒙主義が歴史を直線的な進歩の観点から眺めるのに対して,ロマン主義は過去のおのおのの時代に独自性を与える。そしてまた,前者が地理上の異質性に考慮を払うことがないのとは対照的に,後者はその多様性と異質性を重視する。一言でいうとロマン主義の反理性主義は時間,空間における個性の重視,その意味での反普遍主義として現れ,初期ロマン主義者のJ.メーザーはロマン主義のこの傾向を典型的に示している。
ところでロマン主義は反理性主義の立場とともに,反自然主義,反自然法の立場をとり,主として後者を通して歴史的方法としての歴史主義に結びつく。自然主義もやはり一種の普遍主義であるが,しかしここにいう〈普遍〉性は理性主義のそれとは多少異なっている。理性主義が説きまた目ざすところの普遍性とは,理性をもった人間がつくり上げることのできる完成態としての普遍性のことである。そして人間は啓蒙の力によってこの普遍性に到達しうるのである。これに対し自然主義の説く普遍性は自然法のように時と場所を超えて妥当する法則としての普遍性であって,ここにいう自然とは人為に対置されたものとしての自然である。ロマン主義の反自然主義が批判の照準を定めるのはこのような意味での普遍性に対してであり,また,社会の中にこのような普遍性を読みとろうとする社会理論,ことに古典派に対してである。代表的なロマン主義者A.ミュラーはスミスの個人主義的な経済学説を批判してイデオロギー色の濃い社会・国家学説を唱えたが,イデオロギー色を抜きとり,反自然主義を世界認識の方法に高めようとしたのが歴史主義である。歴史主義は自然主義の静態的な世界観を世界認識の方法としては不適当だとみる。すなわち世界は変化と生成の過程にあり,このような世界を認識するには予定調和の世界観では不適当だと考えるのである。こうして歴史のもつ意義が力説されることになるが,この歴史は二重の断面,すなわち縦断面と横断面において,有機的,全体的に把握される。縦断面においては歴史は機械的因果関係とは異質の形態変化としてとらえられ,形態変化=発展の法則性が追求される。他方,横断面においては,発展の各段階で芸術,文化,政治,経済などが有機的に関連しあっている様が考察されるのである。このようにロマン主義の反理性主義は世界を具体性と個別性の観点から,そしてその反自然主義は世界を生成と全体的関連の中において,それぞれ考察しなければならないと説くが,このような思考方法は歴史学派にも貫かれている。
歴史学派経済学は国民経済学Volkswirtschaftslehre(Nationalökonomie)とも呼ばれるように,その考察の対象は,〈国民〉,とりわけドイツ〈国民〉の経済である。ここにいう国民とは〈個人と人類の中間に位置する〉個性をもった独特の存在であり,政治的にも経済的にもあるまとまりをもった一つの単位をなす(なすべき)ものである。このような国民の営む経済が国民経済であって,国民経済学としての歴史学派は国民経済を歴史の中において,生成と変化の相のもとに把握しようとする。古典派が個人主義に立脚し,諸個人がみずからの利益のみに関心をもちそれを追求すればかえって社会は調和に導かれ,ひいては人類の幸福がもたらされるとする普遍主義を唱えたのに対して,歴史学派=国民経済学は国民主義に立脚し,経済社会を一つの有機体だと考えて,その生成・発展のありさまを理論面,実証面で明らかにしようとしたのである。
歴史学派は,ロマン主義の影響を受けつつ,当時勃興期にあったドイツ資本主義の特殊な事情を背景において成立した。その先駆者はF.リストである。19世紀に入るとドイツにも産業革命の波が押し寄せてくるが,ドイツ国内はいまだ領邦国家に分裂しており,封建的束縛が至るところに存在していた。このような事情を前にしてリストは国内市場を早急に統一化すべきことを説き,対外的には自国産業を育成すべく保護貿易主義を唱えた。彼はイギリスとの対抗上,古典派に対して経済の国民的・国家的観点を強く打ち出したが,彼にとってイギリスは両義的な意味をもっていた。すなわちイギリスはドイツの強力な競争相手であるとともに,それはまた後進国ドイツが目ざすべき目標でもあったのである。リストが生産力理論を唱えて企業家の革新的な創造力をことさら称揚したのも,もとはといえばドイツ資本主義をイギリスの段階に押し上げるためであったし,保護主義もそこに至るまでの暫定的な措置であった。彼の学問上,実践上の活動は旧勢力の迫害の中で続けられ,ついに彼は非業の最期をとげる。しかし彼の晩年,ドイツ資本主義は関税同盟の成立(1834)を経て新たな段階に入り,官僚層による上からの資本主義化が急速に進んでいった。
歴史学派はドイツにおける資本主義発展のこのような局面に即応し,官立大学の経済学者によって学派としての成立をみる。W.G.F.ロッシャー,B.ヒルデブラント,K.G.A.クニースはその3巨人であり,彼らの歴史学派は後の新歴史学派に対して旧歴史学派と呼ぶこともある。まず口火を切ったのがロッシャーである。彼は1843年に歴史学派宣言ともいいうる《歴史的方法による国家経済学講義要綱》を著し,経済研究においては歴史的・生物学的観点が必要であること,また個人ではなく国民をこそ経済学固有の対象にすべきことなどを主張した。もっとも彼にあっては古典派を排斥するところまでは至らず,むしろ歴史研究と古典派理論の両立を図ろうとする意図さえみられる。古典派批判を徹底させ,それとの対決という形で歴史学派の方法的基礎を固めていったのがヒルデブラントとクニースである。ヒルデブラントは《現在および将来の国民経済学》(1848)を著し,その中で彼は,原子論に依拠し時代と場所を超えた普遍的な経済法則を発見しようとする古典派を痛烈に批判し,経済生活の変化や発展を考察することが経済学に課せられた課題だと主張した。いま一人のクニースは論理性と方法的一貫性とにおいて優れており,この点にかけて旧歴史学派はもとより歴史学派全体を見渡しても彼に勝る人はいない。《歴史的方法の立場からみた政治経済学》(1853)は歴史学派方法論のプリンキピアといってもよく,そこにおいて彼は上記2者の不備をただし,歴史的方法の精緻化を図っている。このように旧歴史学派の3巨人はおのおのが歴史的方法に関する綱領をもち経済研究における歴史的精神の必要性を説いたけれども,彼ら自身はというと,この綱領を実施に移し経済の歴史的研究にみずから手をつけたというわけではなかった。この仕事を実行したのはG.シュモラーをはじめとする新歴史学派に属する人々である。
新歴史学派の代表的な学徒としては彼のほか,A.H.G.ワーグナー,L.ブレンターノ,K.ビュヒャー,G.F.クナップらの名を挙げることができる。歴史学派はこの段階に至ってはじめて学派と呼ぶにふさわしいグループを形成するが,旧歴史学派を特徴づけた歴史哲学の要素はここでは影をひそめ,代わって没理論的な〈細目研究〉が盛んに行われるようになった。経済発展の法則性を追求するよりは多種多様な個別テーマについて事実をできるだけ多く収集することのほうが肝要だとみなされ,それらを寄せ集めれば経済史の百科全書ともなるほどの各種モノグラフが大量に生み出された。細目研究と並んで新歴史学派を特徴づけるのはその強い実践指向である。ドイツ資本主義もようやく成熟の域に入るとさまざまな社会問題が発生し,社会主義の勢力はいまでは無視できない存在になりつつあった。新歴史学派は資本主義の生み出す弊害を社会政策によって解決しようとし,社会政策によって社会主義への道を封じようとした。歴史学派は時代の潮流にさおさしつつドイツ経済学を席巻する勢いであったが,まさに絶頂期に入ろうとするころ,C.メンガーによって歴史学派批判が行われ,これを機にオーストリア学派との間で方法論争が闘わされた。この消耗戦の過程で歴史学派はしだいに衰退していき,歴史学派内部ではM.ウェーバーによる方法論上の再装備がなされたが,流れを食い止めることはできなかった。
歴史的思考を重視し,ドイツの国内事情を反映して成立した歴史学派はまさしくドイツ的な経済学であり,その外国への影響力は必ずしも大きくはなかった。もっとも,ドイツと同じ後発資本主義国であるアメリカ,イタリア,それに日本では,とくに政策的な関心から新歴史学派の導入が試みられた。アメリカではイリーR.T.Ely(1854-1943)が,イタリアではコッサL.Cossa(1831-96)がその中心となって導入の労をとった。ちなみにイリーの尽力で1885年創設されたアメリカ経済学会はドイツの社会政策学会を範としたものである。日本では97年に社会政策学会が設立されるに及んで歴史学派は急速に普及し,明治・大正時代を通じて歴史学派は経済学の主流となった。このように歴史学派の社会政策論は国によっては大きな影響を及ぼしたし,その歴史研究も経済史の分野である程度の影響力をもった。しかし歴史的思考を重視するその理論面での影響力は乏しく,方法論争ではむしろ歴史学派の没理論性が批判の矢面に立ったほどであった。こうして歴史学派は今日では古典派から新古典派(近代経済学)へと連なる経済学の主流に対する傍流もしくは一エピソードとして位置づけられている。しかしだからといって歴史学派の提起した諸問題の中にはみるべきものがなかったというわけではない。分析に対する総合の観点,静態的世界観に対する動態的世界観,個人を孤立させてとらえるのでなくそれを社会との相互関係においてとらえる見方,歴史学派を特徴づけるこのような要素は社会科学においてはやはり重要である。T.ベブレンは歴史学派の影響を受けそれを理論面で修正発展させた数少ない経済学者の一人であるが,彼が歴史学派から受け継いだのはまさにこれらの要素であった。彼もやはり古典派や新古典派の静態的な経済社会理論を手厳しく批判する。彼は経済学は〈進化の科学〉たるべきだと主張し,そして彼の制度学派は経済社会の累積的な変化のプロセスをプロセスそれ自体に即して考察しようとするものであった。歴史学派はベブレンの制度学派と同様に社会科学としての経済学に重要な示唆を与えるものであり,その意味で歴史学派を古典派に対する単なる反動とみなすことはできない。
執筆者:間宮 陽介
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A・H・ミュラーや、ことにF・リストを先駆者とし、19世紀40年代から20世紀初頭にかけてドイツで最大の影響力をもった当時のドイツにおける正統的経済学派。後発資本主義国ドイツは、19世紀に入っても、プロイセン・フランス戦争(1870~71)の勝利によりプロイセンを中心に(第二)ドイツ帝国が成立するまで、あまたの領邦国家に分裂していて資本主義が育ちにくい状態にあった。ナポレオン戦争中および以後のプロイセンにおけるシュタイン‐ハルデンベルクの改革(1807~)や1834年の関税同盟の成立によってようやく資本主義的発展も緒につき始めたが、当時ドイツでは、18世紀末にいち早く独訳されたA・スミス『国富論』(1776)の影響を受け、自由貿易を説く「ドイツ・マンチェスター学派」が力をもっており、その説くところに従う限り、ドイツ市場は先進資本主義国たるイギリスの工業製品の蹂躙(じゅうりん)下に置かれざるをえなかった。国家有機体説や経済学の歴史性・国民性、経済発展段階説などはミュラーやリストによってすでに説かれていたが、その延長線上にたってイギリス古典派経済学の抽象性に反対し、経済現象の歴史性と、したがってその歴史的研究の必要性を強調したのが歴史学派である。1873年の社会政策学会の創設を契機に、それ以前のW・G・ロッシャー、K・G・クニース、B・ヒルデブラントらを代表者とする旧(ないし前期)歴史学派と、それ以後のG・シュモラー、L・ブレンターノ、A・H・ワグナーらを代表者とする新(後期)歴史学派とに通常二分される。
[早坂 忠]
歴史学派は普通、1843年刊のロッシャーの『歴史的方法による国家経済学講義要綱』に始まるとされ、経済学はイギリスで解されているような致富の学でなく、国ないし民族を単位とする政治経済学でなければならぬと説き、「歴史的ないし生物学的方法」を提唱した同書の序文は、やがて「歴史学派宣言」とみなされるようになった。旧歴史学派の人々も、形はさまざまにせよ経済発展段階説をとる点ではリストを継承しているが、当面のドイツの状況の変化上、リストがもっとも念頭に置いたドイツ国民経済の形成よりむしろ、徐々に台頭しつつあった労働問題のほうに関心を寄せがちだったが、しかしまだ社会政策を説くには至らなかった。
[早坂 忠]
新(後期)歴史学派の人々はほとんどすべて社会政策学会に結集していたので「社会政策学派」ともよばれ、また大学の講壇からかなり社会主義がかった社会政策を説いたので、彼らは資本主義体制の転覆を図るという意味での社会主義には反対だったにもかかわらず、「講壇社会主義派(者)」と(初めは批判的に、しかしほどなく肯定的にも)よばれることも多い。新歴史学派は、各国経済の歴史性や国民性を説く点ではリストの流れをくむ旧歴史学派と同様であるが、ドイツ帝国の統一に伴う資本主義化の急進展に基づく労働問題の深刻化に対応して、国民経済のもつ倫理的性格を強調し、基本的には資本主義体制を承認しつつも、ドイツ資本主義の強化のためにイギリス古典学派の説いた経済的自由主義(通俗化された形では自由放任論)を退け、ある程度まで労働者の生活水準を向上させ労使の対立を緩和するために国家が積極的に社会政策を行う必要があることを強調し、社会政策の経済的・倫理的基礎づけを行おうとした点に、この新歴史学派の最大の特徴がある。旧歴史学派とともに、アメリカの制度学派的思考や19世紀中葉以降のイギリスの一部の経済学者にかなりの影響を与え、また日本社会政策学会の創設(1896)もその直接的影響線上にある。
歴史学派の経済学者たちは、理論を無意味としたわけではないが、とくにリカード経済学によって表面上ほぼまったく無視された経済現象の歴史性・国民性を重視するあまりに、その面の研究では大きな成果をあげたが、狭義の理論面での貢献は乏しく、1880年代のシュモラーとC・メンガーとの間での激烈な方法論争、20世紀初頭のM・ウェーバーによるシュモラー経済学の倫理的性格批判に始まる価値判断論争、さらにW・ゾンバルトによる多方面からする批判が加わって、歴史学派は20世紀初頭には、学派としては事実上、発展的解消を遂げた。しかし、この学派の歴史的研究や、同学派がウェーバー、ゾンバルト、J・A・シュンペーター、そして一部のイギリスや日本の経済学者に与えた部分的影響は甚大であり、1970年ごろからの抽象的経済学の危機の声の高まりとともに、かなりの期間ほぼ無視されるに近かった新・旧両歴史学派に対する関心がふたたび大きく高まりつつあるのが現状である。
[早坂 忠]
『大河内一男編『経済学説全集5 歴史学派の形成と展開』(1956・河出書房)』▽『大河内一男著『独逸社会政策思想史』(1936・日本評論社/『大河内一男著作集Ⅰ・Ⅱ』1968、1969・青林書院新社)』▽『赤羽豊治郎著『ドイツ歴史派経済学研究』(1970・風間書房)』
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…比較生産費説と相互需要説とは,ほとんどそのまま現代の貿易論に取り入れられており,その意味では古典派経済学がわれわれに残した最大の遺産であるといえる。
【古典派批判の経済学】
古典派経済学が主として先進資本主義国であったイギリスにおいて展開されたのに対して,歴史学派の経済学は19世紀の半ばから主として後発資本主義国であるドイツにおいて,古典派経済学を批判する立場から展開された。前者が自然法思想,啓蒙主義に基づき,抽象的・演繹的方法により普遍妥当的な理論を樹立しようとしたのに対して,後者はロマン主義的な歴史意識の影響下に,具体的・帰納的方法による個別的・特殊的な問題の研究を重視した。…
…事実,経済史的な叙述は,経済学と同様,イギリス重商主義の文献やアダム・スミスの《国富論》を起点とする。けれども,経済史学を経済学の理論や政策論から分化した独立の専門科目として確立させたのは,F.リストを始祖とするドイツ歴史学派経済学(とくにG.シュモラー以下の新歴史学派)であり,それは,経済史学がとりわけ後進国の歴史意識にたって,経済現象がもつ歴史性・国民性を強調しつつ成立したことを物語っている。〈二重革命〉(イギリス産業革命とフランス市民革命)に始まる19世紀ヨーロッパ世界のなかで,経済的にも社会的にも後進国であったドイツの現実を背景として台頭した歴史学派経済学は,イギリス古典派経済学の万民的(コスモポリタン)な性格を批判して,たとえば次のように主張した。…
※「歴史学派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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