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タウト タウト Taut, Bruno

9件 の用語解説(タウトの意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

タウト
タウト
Taut, Bruno

[生]1880.5.4. ケーニヒスベルク
[没]1938.12.24. イスタンブール
ドイツの建築家。 M.タウトの兄。生地の建築学校を終え,シュツットガルトで T.フィッシャーに師事,1909年ベルリンに設計事務所を開設。 13年のライプチヒ国際建築博覧会のための鉄記念館,14年ケルンドイツ工作連盟展で設計したガラスパビリオンによって一躍有名となり,マクデブルク市の建築土木課長時代 (1921~24) に色彩建築を試みて注目された。

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タウト
タウト
Taut, Max

[生]1884.5.15. ケーニヒスベルク
[没]1967.3.1. ベルリン
ドイツの建築家。ブルーノ・タウト (1880~1938) の弟。カルルスルーエで学んだのち,1911年兄の建築事務所に入り,学校,住宅,事務所建築などにユニークな仕事を残した。 45~53年ベルリン美術大学教授。

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タウト
タウト
Tout, Thomas Frederick

[生]1855.9.28. ロンドン
[没]1929.10.23. ロンドン
イギリスの歴史家。イギリス中世政治史,行政史を専攻。 1890~1925年マンチェスター大学歴史学教授。 26年王立歴史学会会長。主著『イギリス政治史,1216~1377年』 The Political History of England,1216-1377 (1905) ,『中世イギリス行政史』 Chapters in the Administrative History of Medieval England (6巻,20~31) 。

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デジタル大辞泉の解説

タウト(Bruno Taut)

[1880~1938]ドイツの建築家。「鉄の記念塔」「ガラスの家」「色彩建築」やベルリンの集合住宅の設計・建築で注目されたが、ナチス政権を逃れ、1933年(昭和8)来日。桂離宮など日本の伝統的な建築の美をたたえ、研究書も多く残した。著「日本美の再発見」「日本文化私観」など。

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百科事典マイペディアの解説

タウト

ドイツの建築家。生地ケーニヒスベルクの建築学校卒業後,ベルリンで建築事務所を開き,ライプチヒの国際展に鉄の記念塔(1913年),ケルンのドイツ工作連盟展にガラスの家(1914年)を発表,また《アルプス建築》などの著書を通してユートピア的な社会変革プランを提示し,表現主義建築の先導者となる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

タウト Taut, Bruno

1880-1938 ドイツの建築家。
1880年5月4日生まれ。表現主義の代表的建築家として活動。昭和8年ナチスをのがれて来日し11年まで滞在。仙台や高崎で工芸指導のかたわら,桂離宮や伊勢神宮などの日本建築や日本文化の独自性に注目,14年「日本美の再発見」を刊行した。1938年12月24日死去。58歳。ケーニヒスベルク(現ロシアカリーニングラード)出身。著作はほかに「日本―タウトの日記」など。

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世界大百科事典 第2版の解説

タウト【Bruno Taut】

1880‐1938
ドイツの建築家。旧ケーニヒスベルクに生まれ,故郷の建築学校をおえ,シュトゥットガルトのT.フィッシャーの建築事務所で見習い後,1910年からベルリンで独立。第1次大戦前には,田園都市運動に連なる都市郊外の集合住宅や博覧会建築の《鉄の記念堂》《ガラスの家》などで注目された。とくに総ガラスの円蓋に色彩照明の人工滝を収めたガラス館は,石や煉瓦の暗い建築を否定するガラスの多彩で美的な造形により評判になった。

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大辞林 第三版の解説

タウト【Bruno Taut】

1880~1938) ドイツの建築家。鉄の塔、ガラスの家、色彩建築、集合住宅など進歩的作風で世界に名声をはせた。来日して日本の伝統建築を高く評価し、工芸指導や「日本美の再発見」などの著作を残した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

タウト
たうと
Bruno Taut
(1880―1938)

ドイツの建築家。ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に生まれる。同地の土木建築学校を卒業後、テオドール・フィッシャーに師事。1909年にF・ホフマンと共同事務所を開いて以来、ライプツィヒ博覧会の「鉄の記念塔」(1913)やドイツ工作連盟展の「ガラスの家」(1914)の独創性によって名を馳(は)せた。第一次世界大戦後は表現主義建築運動を推進、18年にグロピウスらと「芸術労働評議会」を結成し、また『アルプス建築』『都市の冠』『宇宙建築師』『都市の解体』を著して壮大なロマンと理想社会をうたい上げる。21年にはマクデブルク市の建築土木課長として果敢な色彩建築を実践し、24年からはベルリンで総計1万2000戸の住宅団地を建設した。
 タウトは1932年に大モスクワ計画のため同地を訪れたのち、ナチス政権を逃れて日本へ亡命、33年(昭和8)5月から36年1月まで滞在した。日本では建築そのものの仕事に恵まれなかったものの、桂(かつら)離宮をはじめとする日本建築や日本の文化のあり方に多大の関心を示し、多くの著書を残した。また仙台と高崎で工芸の指導にあたり、日本の工芸界の方向を刷新させることになった。36年イスタンブール芸術大学教授に赴任、トルコ政府建築顧問として建築活動を再開したが、38年12月アンカラで客死した。[高見堅志郎]
『タウト著、篠田英雄訳『日本美の再発見』(岩波新書) ▽土肥美夫、J・ボーゼナー他著『ブルーノ・タウトと現代』(1981・岩波書店)』

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世界大百科事典内のタウトの言及

【近代建築】より

…それは近代建築の成立期における一つの顕著な傾向であって,空間的性格が近代建築と親近性の強い書院造,数寄屋,庭園の伝統を積極的に評価し,それらの近代における再生を意図したものであった。堀口捨己,吉田五十八,谷口吉郎らはそのような仕事を進め,また33年に来日したドイツの建築家B.タウトは伊勢神宮や桂離宮の造形を賛美して,日本の伝統への注意を喚起した。戦後においても日本的伝統の問題は解決したわけではなく,むしろ60年代の高度経済成長期以後,ポスト・モダンがささやかれるなかでようやく伝統を総体的に見直す動きが現れてきた。…

【秘伝】より

…こうした伝授形式が長い時代にわたって継承された結果,ある種の共通観念が定着したことが認められる。つまり,かつてブルーノ・タウトが日本建築の〈釣合い〉感覚を論じて,〈様式・形式の世界あるいは基本的定型を数世紀にわたって追究するという連続的な仕事によって成就される〉とのべたような,技術に関する基本的観念が人々の間に生まれ定着するのである。秘伝形式を核とする教育関係と家元制度は大なり小なりこの観念によって支持され,その実態がこの観念を再生強化してきたといえる。…

【表現主義】より

… このようにしてドイツ革命前後の表現主義美術は,ダダの過激な否定にもかかわらず,都市の崩壊や戦禍を描く黙示録的表現から,革命を射程におく時代批判的ないし風刺的な傾向へと変貌し,ディックスのようにグロテスクでリアルな作風を成立させた。また運動の主体も少人数から芸術労働評議会や〈11月集団Novembergruppe〉(1918結成)のような大集団に移り,前者からB.タウトを中心に〈ガラスの鎖Die gläserne Kette〉集団(1919‐20)のユートピア的表現主義建築のプランとグロピウスのバウハウス構想が生まれた。なお,表現主義的傾向の彫刻家としてはバルラハのほかレーンブルックWilhelm Lehmbruck(1881‐1919)などがあげられる。…

【ワイマール文化】より

…革命的高揚期のユートピア的傾向から,鉄とガラスとコンクリートの機能主義的なインターナショナル・スタイルを確立して,今日の世界を支配する近代主義建築のモデルを生み出すまで,アバンギャルドと勤労者大衆のためにという社会主義イデオロギーとの結合は,ワイマール文化の両義性を目に見えるものとして提示してくれた点で,大きな意味をもつ。グロピウスやB.タウトの目ざした勤労者のための集合住宅は,日本の団地が今日果たしている役割を考えれば,原型としての意味は測りがたいほど大きい。しかし同時にこの〈住むための機械〉が,結局資本主義的合理性の徹底であったことの限界は,今日その解放的意味を逆転させる空虚さを露呈している。…

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