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チャド Chad(Ceadda)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

チャド
Chad(Ceadda)

[生]?
[没]672.3.2. スタッフォードシャー,リッチフィールド
イギリス,七王国時代の聖職者宣教師。聖人。リンディスファーン修道院で学び,ノーサンブリア王オスウィによりヨーク司教,次いでリッチフィールド初代司教に任じられた。強風のときは常に全人類のため祈ったという。祝日は3月2日。

チャド
Chad

正式名称 チャド共和国 République du Tchad。
面積 128万4000km2
人口 1201万8000(2011推計)。
首都 ンジャメナ

アフリカ大陸中北部の内陸国。北はリビア,東はスーダン,南は中央アフリカ共和国,西はニジェール,ナイジェリア,カメルーンと国境を接する。国土はチャド湖を中心とする広大な盆地の東半部を占め,北東部にエネディ高原,北西部にティベスティ山地がある。北部はサハラ砂漠,中部はステップ地帯,南部は低木を含む草原サバナ。年降水量 300~1200mmで南部に多い。新石器時代から人類が居住,9世紀前後にはいくつかの部族王国が栄えたが 11世紀頃イスラムが侵入,王国をイスラム化し,16世紀には強大なイスラム王国カネム=ボルヌ王国を形成した。17世紀にはワダイ王国,バギルミ王国も興ったが,1883~93年にラバー・ズバイルに滅ぼされた。1897年フランスが進出,1910年ガボン,ウバンギシャリ(→中央アフリカ共和国),中央コンゴ(→コンゴ共和国)を含むフランス領赤道アフリカの一部となった。1946年フランス海外領,1958年フランス共同体内の自治国となり,1960年独立。農業と牧畜を主とし,輸出額の大半を占める綿花をはじめ家畜,肉,天然ソーダを輸出。ほかにラッカセイ,ミレット,モロコシ類,米などを産する。古来サハラ砂漠縦断路の要地,東西アフリカの交易路にあたるため,人種,言語ともアフリカでは最も多様な国の一つ。風土,文化の南北の相違が大きく,住民は北部はアラブ系,ベルベル系の遊牧民でイスラム教徒が多く,南部はサラ族などバンツー語系諸族で,農業に従事し部族固有の伝統宗教をもつものが多い。北部と南部の対立から,独立以来内戦が繰り返された。公用語はフランス語アラビア語であるが, 北部ではアラビア語系,南部では部族固有の言語が広く用いられる。

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デジタル大辞泉の解説

チャド(Chad/〈フランス〉Tchad)

アフリカ中部の共和国。首都ヌジャメナ内陸国で、北部は砂漠が多く、牧畜が行われ、南部はサバンナ地帯で、綿花などの栽培が行われる。フランス領から1960年独立。人口1054万(2010)。

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百科事典マイペディアの解説

チャド

◎正式名称−チャド共和国Republic of Chad。◎面積−128万4000km2。◎人口−1151万人(2010)。◎首都−ンジャメナNdjamena(95万人,2009)。

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世界大百科事典 第2版の解説

チャド【Tchad】

正式名称=チャド共和国République du Tchad面積=128万4000km2人口(1996)=654万人首都=ヌジャメナN’Djamena(日本との時差=-7時間)主要言語=フランス語,アラビア語,多くの民族語通貨=CFAフランFranc de la Coopération Financière en Afrique Centraleアフリカ大陸の内奥部,ほぼ中央に位置する共和国。北はリビア,東はスーダン,南は中央アフリカ,西はカメルーン,ナイジェリア,ニジェールの各国と国境を接する内陸国である。

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大辞林 第三版の解説

チャド【Chad】

アフリカ北部にある内陸国。共和制。北部はサハラ砂漠、南部は草原。住民の多くはアラブ人で、南部にスーダン系黒人がいる。主要言語はフランス語・アラビア語・サラ語。1960年フランスから独立。綿花・落花生などを産する。首都ンジャメナ。面積128万4千平方キロメートル。人口970万( 2005)。正称、チャド共和国。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

チャド
ちゃど
Tchad

アフリカ大陸のほぼ中央に位置する内陸国。正称はチャド共和国Rpublique du Tchad。海岸から遠く離れているため、輸出入はおもにナイジェリアおよびカメルーンに依存しているが、窓口となる貿易港のポート・ハーコート(ナイジェリア)から2500キロメートル、ドゥアラ(カメルーン)から1500キロメートルの距離にある。面積は128万4000平方キロメートルで、北はリビア、東はスーダン、西はニジェール、ナイジェリア、カメルーン、南は中央アフリカ共和国とそれぞれ国境を接している。人口789万(2000推計)。首都はエンジャメナ。[端 信行]

自然

地形的にも気候的にも特色ある自然をもち、変化に富む自然世界が展開している。まず地形的には、国土の中央部から西部にかけ広大な低地が発達している。そして西端には、ニジェール、ナイジェリア、カメルーンと国境を共有するチャド湖がある。国土の北部にはティベスティ高原(最高峰はエミ・コーシ山、3415メートル)、東部にはエネディ高原があり、チャド湖盆の分水嶺(れい)をなしている。したがってチャドの地勢は、中央、西に低く、すべての水系はそこに集中している。
 気候的には、中央から北にかけてが完全な砂漠気候で、南部は乾燥サバンナとなる。最南端のサールでは5~11月が雨期で、年降水量は900~1200ミリメートル程度である。中央アフリカ共和国に水源をもち、南部を流れてチャド湖に注ぐロゴーヌ川、チャリ川の流域が、国内ではもっとも農耕用水に恵まれた地方となっている。なおチャド湖は、その水系域が砂漠気候かサバンナ気候であるため水位の季節的変動が激しく、その面積が1年で大きく変化するのが特徴である。[端 信行]

歴史

チャド盆地からは多くの先史遺跡が発見されており、おそらく新石器時代から人間の居住があったことは明らかであろう。サハラの砂漠化が進んだのちも、チャド湖は南北や東西の交通の目標となり、古代以来、多彩な歴史がチャド湖周辺で展開された。紀元後800年ごろには、カヌリ人がチャド湖北西岸に王国を興し、トリポリやエジプトと交流をもち繁栄した。この勢力はその後衰えたが、16世紀末にはふたたび強大化し、カネム・ボルヌ王国として栄えた。17世紀にはその東にワダイ王国が、北にバギルミ王国が出現した。
 18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパ人による内陸探検が盛んとなり、19世紀末の1885年にはフランス軍が進駐した。94年にはイギリスとフランスが協定で国境を定めた。1900年には旧勢力のバギルミ、ボルヌ、ワダイの連合軍がチャリ川(シャリ川)でのフランス軍との交戦で敗北し、以後この地域は完全にフランスの支配下となった。1910年にはフランス領赤道アフリカの一部となり、第二次世界大戦後の45年にはフランス領赤道アフリカの一国となり本格的な植民地体制下に置かれた。しかし、同時に民族独立の気運が高まり、その動きのなかで58年にはフランス共同体内の自治共和国となり、60年にはチャド共和国として独立した。[端 信行]

政治

独立を達成したものの、チャドは国民を構成する民族の多様さが原因となって、政情不安な歴史をたどることになった。とくに北部のベルベル系やアラブ系のイスラム教徒と南部のサラ人をはじめとするネグロイド系の民族との対立が独立当初から表面化した。
 初代大統領には、民族主義政党チャド進歩党(PPT)の指導者であった南部出身のトンバルバイエが選ばれたが、1963年以来、北部イスラム教徒によるPPTに対する敵対的政治運動が高まり、66年には北部イスラム教徒はチャド国民解放戦線(FROLINAT)を結成し、反政府的ゲリラ闘争を開始した。ゲリラ活動の激化により、68年には一度は撤退していたティベスティ地方へフランス軍が再度進駐するなど、政情は混乱の一途をたどった。
 1975年4月、クーデターで大統領は殺害され、マルーム将軍が政権を掌握し、のち大統領となった。しかし、FROLINATはクーデターに反対し77年から大攻勢に出たため、78年マルーム政権は当時のFROLINAT指導者であったハブレを首相に迎えたが、79年2月には大統領派と首相派で武力衝突が起こった。
 その後ナイジェリアなど周辺5か国の調停により、FROLINATの新しい指導者グクーニが大統領(暫定政権)となった。しかし1980年3月には、グクーニ派と国防相の地位にあったハブレ派とが武力衝突し、リビアの介入を招いた。一時はグクーニ派が首都を制圧したが、82年6月にはハブレ派が攻勢に出て政権を発足させ、国内は完全に二分され、戦線は膠着(こうちゃく)状態に入った。90年にはイドリス・デビー元軍司令官が反政府ゲリラをひきいて首都に入り、政権を掌握し、大統領に就任した。96年7月の選挙で、デビーは大統領に再選された。[端 信行]

経済

チャドの経済の中心は農牧業であるが、その生産性は低く、さらには国土の4分の3が砂漠および半砂漠によって占められているため、世界でも最貧国に数えられる。1人当りの国民総所得(GNI)は200ドル(2000)にすぎない。なかでも牧畜は、中部のサヘル地帯から北部にかけての砂漠・半砂漠地域が中心だが、家畜は近年の大干魃(かんばつ)で大きな被害を受けた。牧畜の中心となる牛は1972年から73年にかけて100万頭以上も死んだと推定されている。南部のサバンナ地帯では、雨期の降雨を利用してモロコシ、キャッサバなどを主作物とする自給的農業が行われているが、これも降雨が不安定なためしばしば干害にみまわれ生産性は低い。
 こうしたなかにあって輸出用作物としてもっとも重要なのは、南部のとくにチャリ川流域を主産地とする綿花栽培である。とくにチャリ川の灌漑(かんがい)によって開拓された綿花地帯は、かつては旧フランス領アフリカのなかで最大の生産高を誇った。今日では綿花はチャドの総輸出高の25%弱に落ちている。ここにも干魃や国内政治の不安が影響している。チャドの経済で意外に大きいのがチャド湖やロゴーヌ川、チャリ川などで行われている漁業である。年産約12万トンの漁獲量があるといわれ、それらは干し魚として周辺諸国へ輸出されている。
 鉱工業はほとんどみるべきものはないが、石油、ウラン鉱、金、ボーキサイト、鉄、錫(すず)、タングステン鉱などの埋蔵が確認されている。しかし、現状のような政情不安から開発は当分は進展しそうもない。貿易収支も慢性的赤字が続いており、財政的にも危機を迎えている。貿易相手国としては、旧宗主国であるフランスと隣国ナイジェリアと深い関係にある。とくに輸入物資の多くがナイジェリア経由で入ってくることから、運輸、交通の観点からもナイジェリアとの関係は重要である。[端 信行]

文化・社会

多様な民族文化は一面ではこの国の国民的統合を弱めている。公用語はフランス語とアラビア語であるが、児童の就学率は低く、全国民の非識字率は50%以上といわれ、依然としてこの国の文化的・社会的基盤はそれぞれの民族文化に依存している。とりわけ大きな特色は、北部の砂漠・半砂漠の乾燥地帯に住むベルベル系やアラブ系の遊牧民と南部のサバンナ地帯に住むネグロイド系農耕民の対比である。また各地にハウサ人、フラニ人、カネム人などの商業民も居住する。宗教的には北部、中部の遊牧民、農耕民がイスラム教徒で、全人口の50%以上を占める。これに対して南部のネグロイド系民族のほとんどは伝統的土着信仰をもつが、一部にはキリスト教化もみられ、それは人口の7%ほどとされている。
 また国内の都市化も他のアフリカ諸国に比べてさほど進展していないが、人口99万8000(1999推計)を数える首都エンジャメナのほかに南部のムンドゥ(人口28万、以下1993センサス)、サール(19万)、東部のアベシェ(18万7000)などの都市がある。高等教育機関としてはチャド大学があるほか、東部のアベシェにはイスラム専門学校がある。また国営ラジオ放送では、公用語であるフランス語やアラビア語、サラ語などによる放送がある。[端 信行]

日本との関係

貿易面での関係はわずかながら続いており、日本はチャドから綿花などを輸入しているため、例年、日本側の輸入超過になっている。[端 信行]

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