チャド(英語表記)Tchad
Chad

精選版 日本国語大辞典 「チャド」の意味・読み・例文・類語

チャド

  1. ( Tchad, Chad ) アフリカ大陸中央部の共和国サハラ砂漠の南部、チャド湖東側の乾燥地帯を占める。住民の約半数はイスラム教徒。一九一四年フランス植民地となり、一九六〇年独立。首都ヌジャメナ(ンジャメナ)。

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改訂新版 世界大百科事典 「チャド」の意味・わかりやすい解説

チャド
Tchad
Chad

基本情報
正式名称=チャド共和国République du Tchad 
面積=128万4000km2 
人口(2011)=1150万人 
首都=ヌジャメナN'Djamena(日本との時差=-7時間) 
主要言語=フランス語,アラビア語,多くの民族語 
通貨CFAフランFranc de la Coopération Financière en Afrique Centrale

アフリカ大陸の内奥部,ほぼ中央に位置する共和国。北はリビア,東はスーダン,南は中央アフリカ,西はカメルーンナイジェリアニジェールの各国と国境を接する内陸国である。領域の西端にチャド湖を有する。

北のリビアとの国境地帯にはティベスティ山地,東のスーダンとの国境地帯にはエネディ高原があるが,中部から南部にかけての国土の大半は平たんな低地で,チャド湖盆をなしている。気候は南北ではっきりと分かれ,北部はサハラ砂漠に含まれる砂漠気候,南部はサバンナ気候に属しており,チャド湖を含む中間地帯はステップ気候となっている。植生は南部にサバンナ林をみるにすぎず,一部に熱帯雨林がみられる。雨季に集中する降雨は,中央アフリカあるいはカメルーンから流れ出たシャリ川,ロゴヌ川流域を経て,チャド湖に流入している。そのためチャド湖の面積は,雨季と乾季とで大きく変化する。
執筆者:

国内には100以上の部族が居住する。南部の熱帯サバンナにはバントゥー系の農耕民が居住し,北部のサヘル地帯には,アラブ,トゥアレグ族やトゥブ族などの遊牧民が居住する。南部の部族と北部の部族は人口がほぼ同数であり,歴史的にも文化,社会の面でも異なり,深刻な対立を繰り広げている。北部は9世紀以降カネム・ボルヌー帝国に属し,早くからイスラム化した。帝国は南部住民の奴隷狩りに経済的繁栄の基礎を置いていたが,19世紀には帝国を征服した奴隷商人出身のラービフによって奴隷交易はいっそう強化された。南部のサラ族(人口の約30%を占める)をはじめ,ブーム族,ラカ族,ムンダン族,トゥブリ族などのバントゥー系諸部族には,集権的な政治組織が欠如していたため,北部の支配を甘受せざるをえなかった。フランスの植民地時代に入ると,南部には商品作物のワタ栽培が導入され,また稲,ヤムイモ,キャッサバ,ミレットなどの豊かな農業地帯となり,経済的地位が北部と逆転して優位に立った。植民地政策も南部において進展し教育も進んだため,その後の独立運動の指導者層はおもに南部から輩出した。独立後,南部のサラ族の中央支配に不満をもつ北部のイスラム教徒が,ティベスティ山地や東部,中部で反政府運動を繰り広げ,周辺諸国を巻き込んで現在にいたっている。公用語はフランス語であるが,ラジオ放送にはフランス語,アラビア語のほか,サラ,トゥブリ,マサ,ゴラネ,ムンダン,フルフルデ(フラニ),カネンブの七つの言語を使用している。北部住民がイスラム教徒であるのに対し,南部住民は固有の信仰をもち,一部にキリスト教が広まっている。
執筆者:

国土の西端にあるチャド湖周辺はサハラ交易の重要な交差路で,古くから北の地中海地方と南のサバンナ・森林地帯の接点であった。この地域に興亡した国のなかで最も重要な国はカネム・ボルヌー帝国で,9世紀ごろ王朝が創建され,16世紀にはチャド湖から北方のビルマ(交易拠点で岩塩の産地)に至るまでを支配,イスラムを国教とし,中央スーダン最強の国家となった。17世紀には周辺にワダイ,バギルミーなどの王国が現れたが,19世紀末にラービフによって滅ぼされた。このころヨーロッパ列強のアフリカ分割は最終段階に入っており,1900年にフランスがラービフを倒してこの地域に支配を広げた。20年に現在のチャドの領域がフランス領赤道アフリカ植民地の行政単位の一つとなった。植民地化以前は北部のイスラム諸王国が,アニミズムを信じる南部のバントゥー系諸部族に支配を及ぼしていたが,植民地化により逆に南部の政治的地位が強まった。フランスが南部の開発に重点を置き,フランス語教育を普及させ,キリスト教も若干浸透した南部出身者を下級官吏に登用したためである。46年フランスの海外領土に,さらに58年フランス第五共和政に関する国民投票によりフランス共同体内の自治共和国となり,60年8月11日,独立を宣言した。

第2次大戦後,民族主義勢力はアフリカ民主連合の支部であるチャド進歩党(PTT)に結集し,独立時には議会の多数派を構成した。しかしPTTは南部の地域政党の色彩を脱することができなかった。初代大統領は南部の国内最大部族サラ族出身のトンバルバイエFrançois Tombalbayeで,1963年にPTTの一党支配体制を確立した。トンバルバイエ政権は南部中心の排外主義的政策により,北部住民の反発を招いただけでなく,民衆からの過酷な収奪,強権的支配と官僚の腐敗によって国民の不満を呼び,65年から自然発生的な反乱が続発するようになった。66年には北部を基盤とするチャド民族解放戦線(FROLINAT)が結成され,武装闘争を開始,長期にわたる内戦が始まった。他方,トンバルバイエは腐敗と独裁の度を強めるのみで,75年4月軍部のクーデタによって倒され,代わってマルームFélix Malloum将軍の軍政が成立した。ところが交渉相手となるべきFROLINATは内部の主導権をめぐって分裂を深め,さらに軍隊をチャドに駐留させるフランスをはじめ,リビア,ナイジェリア,スーダンなどの近隣諸国も,直接あるいは間接に紛争に介入したため内戦は泥沼化した。とりわけ78年11月の首都での武装衝突以降,チャドは武装集団割拠の戦乱状態に陥った。

 79年11月,近隣諸国の調停により国内13派の妥協が図られ,北部主導の国家統一暫定政府が結成されたが,翌80年3月には早くも暫定政府大統領グクーニGoukouni Oueddei派と,やはり北部出身のハブレHissène Habré国防相派との間に戦闘が起こり,内戦が再燃した。6月にグクーニ大統領はリビアと友好条約を結び,リビア軍の介入を要請,介入したリビア軍は12月にはハブレの北部軍団(FAN)を打ち破った。翌81年1月にグクーニ大統領はチャドとリビアの統合に向けた協定に署名したが,この統合に対する内外の反対は強く,グクーニはリビア軍の撤退を要求,12月にリビアもこれに応じた。スーダンに逃れていたハブレは,これをみて再び進軍を開始した。リビア軍と入れかわりに進駐したアフリカ統一機構(OAU)平和維持軍も82年6月には撤退したため,外部の支えを失ったグクーニ政権は,エジプト,スーダンなどの支援をうけるハブレの北部軍団の進撃に抗しきれず,ついに6月首都ヌジャメナは陥落した。ハブレは10月には大統領に就任し,17年ぶりに全土を統合した。83年に入って民族平和政府の樹立を宣言したグクーニ派が南進を開始すると,ハブレ大統領はアメリカの軍事援助,フランス軍の導入でこれにこたえ,内戦はまたもや大きく国際化した。

 その後,戦況は膠着状態に陥り,ハブレ政権とグクーニ派は北緯16度線をはさんで対峙し続けた。87年に入ると,ハブレ政府軍が北上してリビア軍と対峙したが,OAUの調停で停戦に合意した。チャド,リビア両国は89年に和平協定を結び,これに呼応してハブレ政府とウマル軍も和解,ウマルも参加した新内閣が成立した。
執筆者:

GNP(国民総生産)1人当り180ドル(1995)という最貧国の一つで,サハラ以南アフリカの平均(490米ドル)を大きく下回る。GDPの構成比(1995)は農業44%,工業22%(うち製造業16%),サービス35%であり,農業のシェアが高く,サハラ以南アフリカの平均(20%)の2倍以上である。雇用面での農業のシェアはさらに大きく,81%(1995)である。鉄道はなく,全天候型の道路もほとんどない。地域別にみた主要な経済活動は,南部では農業,北部サハラ,サヘル地域では牧畜である。人口が集中する南部は農業の適地であり,かつては食糧の自給を支えてきた。しかし長期にわたる治安の悪化のため,今日では毎年約1万5000tの穀物が不足しているといわれる。農村における現金収入の中心は,綿花と畜産,ゴムである。製造業生産の大半は綿紡績によるものである。鉱産物として北部にウラニウムのほか,タングステン,ボーキサイト,さらに石油の埋蔵が確認されている。鉱業開発が本格化すれば,経済に大きな影響をもたらすと見られている。

 経済は治安の悪化と政治的混乱のため長期にわたって低迷を続けた。しかし1994年のCFAフランの切下げにより,綿花の輸出競争力が回復し,加えて適切な降雨,国際綿価格の上昇と経済成長の条件が整った。さらにIMF,世界銀行の支援を受けた構造調整政策が軌道にのったため,1990-95年の年平均成長率は6.9%を記録した。貿易,援助,通貨ともにフランスへの依存度が高い。中部アフリカ諸国銀行(BEAC)を発券銀行とし,フランスと関係が深いフラン圏に属している。中部アフリカのフラン圏と加盟国が重複するUDEAC(中部アフリカ諸国関税同盟)にも参加している。カメルーン,ニジェール,ナイジェリアとともにチャド盆地委員会を,コンゴ民主共和国他の国々と中部アフリカ諸国連合(CEEAC)を構成している。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「チャド」の意味・わかりやすい解説

チャド

◎正式名称−チャド共和国Republic of Chad。◎面積−128万4000km2。◎人口−1151万人(2010)。◎首都−ンジャメナNdjamena(95万人,2009)。◎住民−北部ではアラブ,トゥアレグ人など。南部ではサラ人30%,トゥブリ族などのバントゥー諸民族。◎宗教−北部ではイスラム,南部では民族固有の宗教が有力。◎言語−フランス語,アラビア語(以上公用語)のほか,サラ語,トゥブリ語,フルフルデ語などの民族語。◎通貨−CFA(中部アフリカ金融協力体)フラン。◎元首−大統領,デビIdriss Deby(1952年生れ,1990年12月クーデタで政権獲得,1991年3月就任,2011年4月4選,任期5年)。◎首相−パイミ・ドゥーベKalzeube Payami Deubet(2014年4月発足)。◎憲法−1996年3月国民投票で承認,2005年6月改正。◎国会−一院制。国民議会(定員155)。最近の選挙は2011年2月。◎GDP−84億ドル(2008)。◎1人当りGNP−480ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−78%(1997)。◎平均寿命−男50.3歳,女52.1歳(2013)。◎乳児死亡率−99‰(2010)。◎識字率−33%(2008)。    *    *アフリカ中央部,サハラ南東部の共和国。国土の大部分は標高200〜500mの台地であるが,中部にはボデレ低地が広がり,北西部には標高3000mを超えるティベスティ山地,東部に1000mを超えるエネディ高原がある。西部にチャド湖があり,南部にシャリ川,ロゴヌ川が流れる。熱帯乾燥地域であるが,南部には雨季がある。農業が主で綿花(輸出の第1位を占める),ラッカセイ,モロコシ類が主産物。牛,羊,ヤギの牧畜,チャド湖での漁業も行われる。鉱産資源は乏しい。 チャド湖周辺は古くからサハラ縦断交易路の要地で,ここに9世紀頃から19世紀半ばまでカネム・ボルヌー帝国が栄えた。19世紀末からフランスが進出し,南部を中心に植民地開発を行った。1958年フランス共同体内の自治共和国となり,1960年完全独立した。独立時の新政府は南部の非イスラム勢力が中心で,これに北部のイスラム勢力が反発して南北間の内戦に発展し,さらには北部勢力間での主導権争いも加わって,内戦は泥沼化した。1979年にはリビアが北部のアオズ地区を占拠するなど複雑な経過をへて1987年停戦,1989年には同地区の国境紛争を解決する2国間協定が成立(1994年返還)。1990年北部勢力のデビがクーデタで政権を樹立した。1996年国民投票で新憲法が承認され,初の複数政党制による大統領選挙でデビが選出された。東南部で1996年以来武装闘争を続けてきた国民抵抗同盟(ANR)も,2003年1月,ガボン政府の仲介で政府との和平に合意した。国境を接するスーダンのダルフール地方の紛争で緊張が高まり,国内の反政府勢力を支援しているとの理由から,2006年4月にスーダンと断交。2007年2月ヨアディムナジ首相の病死にともない,カシレクマコエ国務相が新首相に任命された。デビ大統領は2010年3月,ナディンガール元石油相を新首相に指名した。近年はスーダンとの関係は改善してきている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「チャド」の解説

チャド
Tchad

アフリカ大陸ほぼ中央に位置する共和国。北部乾燥地にアラブ,トゥアレグなどの牧民,南部サバンナに綿,雑穀などを栽培する農民が住む。北部地域は9世紀以降のカネム・ボルヌー帝国に属す。フランスによる植民地開発は南部地域を主とした。1946年フランスの海外領土,58年フランス共同体内の自治共和国,60年8月独立。南部人主導の政治に北部人が反発,66年北部を基盤にチャド民族解放戦線(FROLINAT)が結成され,以降長期にわたる内戦状態が続いた。

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