基本情報
正式名称=チャド共和国République du Tchad
面積=128万4000km2
人口(2011)=1150万人
首都=ヌジャメナN'Djamena(日本との時差=-7時間)
主要言語=フランス語,アラビア語,多くの民族語
通貨=CFAフランFranc de la Coopération Financière en Afrique Centrale
アフリカ大陸の内奥部,ほぼ中央に位置する共和国。北はリビア,東はスーダン,南は中央アフリカ,西はカメルーン,ナイジェリア,ニジェールの各国と国境を接する内陸国である。領域の西端にチャド湖を有する。
北のリビアとの国境地帯にはティベスティ山地,東のスーダンとの国境地帯にはエネディ高原があるが,中部から南部にかけての国土の大半は平たんな低地で,チャド湖盆をなしている。気候は南北ではっきりと分かれ,北部はサハラ砂漠に含まれる砂漠気候,南部はサバンナ気候に属しており,チャド湖を含む中間地帯はステップ気候となっている。植生は南部にサバンナ林をみるにすぎず,一部に熱帯雨林がみられる。雨季に集中する降雨は,中央アフリカあるいはカメルーンから流れ出たシャリ川,ロゴヌ川流域を経て,チャド湖に流入している。そのためチャド湖の面積は,雨季と乾季とで大きく変化する。
執筆者:端 信行
国内には100以上の部族が居住する。南部の熱帯サバンナにはバントゥー系の農耕民が居住し,北部のサヘル地帯には,アラブ,トゥアレグ族やトゥブ族などの遊牧民が居住する。南部の部族と北部の部族は人口がほぼ同数であり,歴史的にも文化,社会の面でも異なり,深刻な対立を繰り広げている。北部は9世紀以降カネム・ボルヌー帝国に属し,早くからイスラム化した。帝国は南部住民の奴隷狩りに経済的繁栄の基礎を置いていたが,19世紀には帝国を征服した奴隷商人出身のラービフによって奴隷交易はいっそう強化された。南部のサラ族(人口の約30%を占める)をはじめ,ブーム族,ラカ族,ムンダン族,トゥブリ族などのバントゥー系諸部族には,集権的な政治組織が欠如していたため,北部の支配を甘受せざるをえなかった。フランスの植民地時代に入ると,南部には商品作物のワタ栽培が導入され,また稲,ヤムイモ,キャッサバ,ミレットなどの豊かな農業地帯となり,経済的地位が北部と逆転して優位に立った。植民地政策も南部において進展し教育も進んだため,その後の独立運動の指導者層はおもに南部から輩出した。独立後,南部のサラ族の中央支配に不満をもつ北部のイスラム教徒が,ティベスティ山地や東部,中部で反政府運動を繰り広げ,周辺諸国を巻き込んで現在にいたっている。公用語はフランス語であるが,ラジオ放送にはフランス語,アラビア語のほか,サラ,トゥブリ,マサ,ゴラネ,ムンダン,フルフルデ(フラニ),カネンブの七つの言語を使用している。北部住民がイスラム教徒であるのに対し,南部住民は固有の信仰をもち,一部にキリスト教が広まっている。
執筆者:赤阪 賢
国土の西端にあるチャド湖周辺はサハラ交易の重要な交差路で,古くから北の地中海地方と南のサバンナ・森林地帯の接点であった。この地域に興亡した国のなかで最も重要な国はカネム・ボルヌー帝国で,9世紀ごろ王朝が創建され,16世紀にはチャド湖から北方のビルマ(交易拠点で岩塩の産地)に至るまでを支配,イスラムを国教とし,中央スーダン最強の国家となった。17世紀には周辺にワダイ,バギルミーなどの王国が現れたが,19世紀末にラービフによって滅ぼされた。このころヨーロッパ列強のアフリカ分割は最終段階に入っており,1900年にフランスがラービフを倒してこの地域に支配を広げた。20年に現在のチャドの領域がフランス領赤道アフリカ植民地の行政単位の一つとなった。植民地化以前は北部のイスラム諸王国が,アニミズムを信じる南部のバントゥー系諸部族に支配を及ぼしていたが,植民地化により逆に南部の政治的地位が強まった。フランスが南部の開発に重点を置き,フランス語教育を普及させ,キリスト教も若干浸透した南部出身者を下級官吏に登用したためである。46年フランスの海外領土に,さらに58年フランス第五共和政に関する国民投票によりフランス共同体内の自治共和国となり,60年8月11日,独立を宣言した。
第2次大戦後,民族主義勢力はアフリカ民主連合の支部であるチャド進歩党(PTT)に結集し,独立時には議会の多数派を構成した。しかしPTTは南部の地域政党の色彩を脱することができなかった。初代大統領は南部の国内最大部族サラ族出身のトンバルバイエFrançois Tombalbayeで,1963年にPTTの一党支配体制を確立した。トンバルバイエ政権は南部中心の排外主義的政策により,北部住民の反発を招いただけでなく,民衆からの過酷な収奪,強権的支配と官僚の腐敗によって国民の不満を呼び,65年から自然発生的な反乱が続発するようになった。66年には北部を基盤とするチャド民族解放戦線(FROLINAT)が結成され,武装闘争を開始,長期にわたる内戦が始まった。他方,トンバルバイエは腐敗と独裁の度を強めるのみで,75年4月軍部のクーデタによって倒され,代わってマルームFélix Malloum将軍の軍政が成立した。ところが交渉相手となるべきFROLINATは内部の主導権をめぐって分裂を深め,さらに軍隊をチャドに駐留させるフランスをはじめ,リビア,ナイジェリア,スーダンなどの近隣諸国も,直接あるいは間接に紛争に介入したため内戦は泥沼化した。とりわけ78年11月の首都での武装衝突以降,チャドは武装集団割拠の戦乱状態に陥った。
79年11月,近隣諸国の調停により国内13派の妥協が図られ,北部主導の国家統一暫定政府が結成されたが,翌80年3月には早くも暫定政府大統領グクーニGoukouni Oueddei派と,やはり北部出身のハブレHissène Habré国防相派との間に戦闘が起こり,内戦が再燃した。6月にグクーニ大統領はリビアと友好条約を結び,リビア軍の介入を要請,介入したリビア軍は12月にはハブレの北部軍団(FAN)を打ち破った。翌81年1月にグクーニ大統領はチャドとリビアの統合に向けた協定に署名したが,この統合に対する内外の反対は強く,グクーニはリビア軍の撤退を要求,12月にリビアもこれに応じた。スーダンに逃れていたハブレは,これをみて再び進軍を開始した。リビア軍と入れかわりに進駐したアフリカ統一機構(OAU)平和維持軍も82年6月には撤退したため,外部の支えを失ったグクーニ政権は,エジプト,スーダンなどの支援をうけるハブレの北部軍団の進撃に抗しきれず,ついに6月首都ヌジャメナは陥落した。ハブレは10月には大統領に就任し,17年ぶりに全土を統合した。83年に入って民族平和政府の樹立を宣言したグクーニ派が南進を開始すると,ハブレ大統領はアメリカの軍事援助,フランス軍の導入でこれにこたえ,内戦はまたもや大きく国際化した。
その後,戦況は膠着状態に陥り,ハブレ政権とグクーニ派は北緯16度線をはさんで対峙し続けた。87年に入ると,ハブレ政府軍が北上してリビア軍と対峙したが,OAUの調停で停戦に合意した。チャド,リビア両国は89年に和平協定を結び,これに呼応してハブレ政府とウマル軍も和解,ウマルも参加した新内閣が成立した。
執筆者:大林 稔
GNP(国民総生産)1人当り180ドル(1995)という最貧国の一つで,サハラ以南アフリカの平均(490米ドル)を大きく下回る。GDPの構成比(1995)は農業44%,工業22%(うち製造業16%),サービス35%であり,農業のシェアが高く,サハラ以南アフリカの平均(20%)の2倍以上である。雇用面での農業のシェアはさらに大きく,81%(1995)である。鉄道はなく,全天候型の道路もほとんどない。地域別にみた主要な経済活動は,南部では農業,北部サハラ,サヘル地域では牧畜である。人口が集中する南部は農業の適地であり,かつては食糧の自給を支えてきた。しかし長期にわたる治安の悪化のため,今日では毎年約1万5000tの穀物が不足しているといわれる。農村における現金収入の中心は,綿花と畜産,ゴムである。製造業生産の大半は綿紡績によるものである。鉱産物として北部にウラニウムのほか,タングステン,ボーキサイト,さらに石油の埋蔵が確認されている。鉱業開発が本格化すれば,経済に大きな影響をもたらすと見られている。
経済は治安の悪化と政治的混乱のため長期にわたって低迷を続けた。しかし1994年のCFAフランの切下げにより,綿花の輸出競争力が回復し,加えて適切な降雨,国際綿価格の上昇と経済成長の条件が整った。さらにIMF,世界銀行の支援を受けた構造調整政策が軌道にのったため,1990-95年の年平均成長率は6.9%を記録した。貿易,援助,通貨ともにフランスへの依存度が高い。中部アフリカ諸国銀行(BEAC)を発券銀行とし,フランスと関係が深いフラン圏に属している。中部アフリカのフラン圏と加盟国が重複するUDEAC(中部アフリカ諸国関税同盟)にも参加している。カメルーン,ニジェール,ナイジェリアとともにチャド盆地委員会を,コンゴ民主共和国他の国々と中部アフリカ諸国連合(CEEAC)を構成している。
執筆者:大林 稔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
アフリカ大陸のほぼ中央に位置する内陸国。正称はチャド共和国République du Tchad。海岸から遠く離れているため、輸出入はおもにナイジェリアおよびカメルーンに依存しているが、窓口となる貿易港のポート・ハーコート(ナイジェリア)から2500キロメートル、ドゥアラ(カメルーン)から1500キロメートルの距離にある。面積は128万4000平方キロメートルで、北はリビア、東はスーダン、西はニジェール、ナイジェリア、カメルーン、南は中央アフリカ共和国とそれぞれ国境を接している。人口789万(2000推計)、1103万9873(2009センサス)。首都はエンジャメナ。
[端 信行]
地形的にも気候的にも特色ある自然をもち、変化に富む自然世界が展開している。まず地形的には、国土の中央部から西部にかけ広大な低地が発達している。そして西端には、ニジェール、ナイジェリア、カメルーンと国境を共有するチャド湖がある。国土の北部にはティベスティ高原(最高峰はエミ・コーシ山、3415メートル)、東部にはエネディ高原があり、チャド湖盆の分水嶺(れい)をなしている。したがってチャドの地勢は、中央、西に低く、すべての水系はそこに集中している。
気候的には、中央から北にかけてが完全な砂漠気候で、南部は乾燥サバナとなる。最南端のサールでは5~11月が雨期で、年降水量は900~1200ミリメートル程度である。中央アフリカ共和国に水源をもち、南部を流れてチャド湖に注ぐロゴーヌ川、チャリ川の流域が、国内ではもっとも農耕用水に恵まれた地方となっている。なおチャド湖は、その水系域が砂漠気候かサバナ気候であるため水位の季節的変動が激しく、その面積が1年で大きく変化するのが特徴である。
[端 信行]
チャド盆地からは多くの先史遺跡が発見されており、おそらく新石器時代から人間の居住があったことは明らかであろう。サハラの砂漠化が進んだのちも、チャド湖は南北や東西の交通の目標となり、古代以来、多彩な歴史がチャド湖周辺で展開された。紀元後800年ごろには、カヌリ人がチャド湖北西岸に王国を興し、トリポリやエジプトと交流をもち繁栄した。この勢力はその後衰えたが、16世紀末にはふたたび強大化し、カネム・ボルヌ王国として栄えた。17世紀にはその東にワダイ王国が、北にバギルミ王国が出現した。
18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパ人による内陸探検が盛んとなり、19世紀末の1885年にはフランス軍が進駐した。1894年にはイギリスとフランスが協定で国境を定めた。1900年には旧勢力のバギルミ、ボルヌ、ワダイの連合軍がチャリ川(シャリ川)でのフランス軍との交戦で敗北し、以後この地域は完全にフランスの支配下となった。1910年にはフランス領赤道アフリカの一部となり、第二次世界大戦後の1945年にはフランス領赤道アフリカの一国となり本格的な植民地体制下に置かれた。しかし、同時に民族独立の気運が高まり、その動きのなかで1958年にはフランス共同体内の自治共和国となり、1960年にはチャド共和国として独立した。
[端 信行]
独立を達成したものの、チャドは国民を構成する民族の多様さが原因となって、政情不安な歴史をたどることになった。とくに北部のベルベル系やアラブ系のイスラム教徒と南部のサラ人をはじめとするネグロイド系の民族との対立が独立当初から表面化した。
初代大統領には、民族主義政党チャド進歩党(PPT)の指導者であった南部出身のトンバルバイエFrançois Tombalbaye(1918―1975)が選ばれたが、1963年以来、北部イスラム教徒によるPPTに対する敵対的政治運動が高まり、1966年には北部イスラム教徒はチャド国民解放戦線(FROLINAT)を結成し、反政府的ゲリラ闘争を開始した。ゲリラ活動の激化により、1968年には一度は撤退していたティベスティ地方へフランス軍が再度進駐するなど、政情は混乱の一途をたどった。
1975年4月、クーデターで大統領は殺害され、将軍マルームFélix Malloum(1932―2009)が政権を掌握し、のち大統領となった。しかし、FROLINATはクーデターに反対し1977年から大攻勢に出たため、1978年マルーム政権は当時のFROLINAT指導者であったハブレHissène Habré(1942―2021)を首相に迎えたが、1979年2月には大統領派と首相派で武力衝突が起こった。
その後ナイジェリアなど周辺5か国の調停により、FROLINATの新しい指導者グクーニ・ウェディGoukouni Weddeye(1944― )が大統領(暫定政権)となった。しかし1980年3月には、ウェディ派と国防相の地位にあったハブレ派とが武力衝突し、リビアの介入を招いた。一時はウェディ派が首都を制圧したが、1982年6月にはハブレ派が攻勢に出て政権を発足させ、国内は完全に二分され、戦線は膠着(こうちゃく)状態に入った。1990年には元軍司令官イドリス・デビーIdriss Déby(1952―2021)が反政府ゲリラを率いて首都に入り、政権を掌握し、大統領に就任した。1996年7月の選挙で、デビーは大統領に再選された。
[端 信行]
チャドの経済の中心は農牧業であるが、その生産性は低く、さらには国土の4分の3が砂漠および半砂漠によって占められているため、世界でも最貧国に数えられる。1人当りの国民総所得(GNI)は200ドル(2000)にすぎない。なかでも牧畜は、中部のサヘル地帯から北部にかけての砂漠・半砂漠地域が中心だが、家畜は近年の大干魃(かんばつ)で大きな被害を受けた。牧畜の中心となる牛は1972年から1973年にかけて100万頭以上も死んだと推定されている。南部のサバナ地帯では、雨期の降雨を利用してモロコシ、キャッサバなどを主作物とする自給的農業が行われているが、これも降雨が不安定なためしばしば干害にみまわれ生産性は低い。
こうしたなかにあって輸出用作物としてもっとも重要なのは、南部のとくにチャリ川流域を主産地とする綿花栽培である。とくにチャリ川の灌漑(かんがい)によって開拓された綿花地帯は、かつては旧フランス領アフリカのなかで最大の生産高を誇った。今日では綿花はチャドの総輸出高の25%弱に落ちている。ここにも干魃や国内政治の不安が影響している。チャドの経済で意外に大きいのがチャド湖やロゴーヌ川、チャリ川などで行われている漁業である。年産約12万トンの漁獲量があるといわれ、それらは干し魚として周辺諸国へ輸出されている。
鉱工業はほとんどみるべきものはないが、石油、ウラン鉱、金、ボーキサイト、鉄、錫(すず)、タングステン鉱などの埋蔵が確認されている。しかし、現状のような政情不安から開発は当分は進展しそうもない。貿易収支も慢性的赤字が続いており、財政的にも危機を迎えている。貿易相手国としては、旧宗主国であるフランスと隣国ナイジェリアと深い関係にある。とくに輸入物資の多くがナイジェリア経由で入ってくることから、運輸、交通の観点からもナイジェリアとの関係は重要である。
[端 信行]
多様な民族文化は一面ではこの国の国民的統合を弱めている。公用語はフランス語とアラビア語であるが、児童の就学率は低く、全国民の非識字率は50%以上といわれ、依然としてこの国の文化的・社会的基盤はそれぞれの民族文化に依存している。とりわけ大きな特色は、北部の砂漠・半砂漠の乾燥地帯に住むベルベル系やアラブ系の遊牧民と南部のサバナ地帯に住むネグロイド系農耕民の対比である。また各地にハウサ人、フラニ人、カネム人などの商業民も居住する。宗教的には北部、中部の遊牧民、農耕民がイスラム教徒で、全人口の50%以上を占める。これに対して南部のネグロイド系民族のほとんどは伝統的土着信仰をもつが、一部にはキリスト教化もみられ、それは人口の7%ほどとされている。
また国内の都市化も他のアフリカ諸国に比べてさほど進展していないが、人口152万1882(2019センサス)を数える首都エンジャメナのほかに南部のムンドゥ(人口20万0963、以下2019センサス)、サール(15万1727)、東部のアベシェ(15万2107)などの都市がある。高等教育機関としてはチャド大学があるほか、東部のアベシェにはイスラム専門学校がある。また国営ラジオ放送では、公用語であるフランス語やアラビア語、サラ語などによる放送がある。
[端 信行]
貿易面での関係はわずかながら続いており、日本はチャドから綿花などを輸入しているため、例年、日本側の輸入超過になっている。
[端 信行]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
アフリカ大陸ほぼ中央に位置する共和国。北部乾燥地にアラブ,トゥアレグなどの牧民,南部サバンナに綿,雑穀などを栽培する農民が住む。北部地域は9世紀以降のカネム・ボルヌー帝国に属す。フランスによる植民地開発は南部地域を主とした。1946年フランスの海外領土,58年フランス共同体内の自治共和国,60年8月独立。南部人主導の政治に北部人が反発,66年北部を基盤にチャド民族解放戦線(FROLINAT)が結成され,以降長期にわたる内戦状態が続いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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