アフリカ大陸の中央部、赤道にまたがる国。1997年まではザイール共和国。中央アフリカ、南スーダン、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニア、ザンビア、アンゴラ、コンゴ共和国の各国と国境を接している。面積234万4858平方キロメートル、人口6780万(2010年推計)。面積はスーダン、アルジェリアに次いでアフリカでは3番目に大きい。
国土の大半はコンゴ川(ザイール川)の流域が占め、コンゴ川河口のわずか40キロメートルだけが大西洋に面している。首都はキンシャサ。かつてのベルギー領コンゴで、1960年にコンゴ共和国として独立した。独立直後のコンゴ動乱を経て1964年に国名をコンゴ民主共和国、さらに1971年ザイール共和国、1997年にふたたびコンゴ民主共和国と改称した。天然資源に恵まれ豊かな可能性をもちながら、戦乱と政治的混乱によって長らく経済は低迷してきた。2006年に独立後初の民主的な手続きで大統領選挙が行われ、政治的安定を取り戻しつつある。2011年に行われた大統領選挙を経て、本格的な経済的成長を達成することができるか注目される。
[赤阪 賢・澤田昌人]
ほぼ全土がコンゴ盆地を中心とするコンゴ川の流域に含まれる。コンゴ川は全長4370キロメートル、ナイル川に次ぐアフリカ第二の長流で、流域面積は369万平方キロメートル、アマゾン川に次いで世界第2位を占める。源流はザンビアに発し、ルアプラ川、ルブア川、ルアラバ川と名称を変え、キサンガニ近くのワゲニア滝からコンゴ川の本流となる。さらにウバンギ川、カサイ川と合流し、マレボ湖を経てキンシャサに至る。さらに下流はインガ峡谷に入り急流となり、マタディ湖を経て大西洋に注ぐ。コンゴ盆地は第四紀完新世(沖積世)まで大きな湖盆(湖のへこんだ水底)をなしていた。もっとも低い部分で300メートルの標高があり、周辺に向かってしだいに高くなる。盆地の東はアフリカ大地溝帯西縁の山地をなし、盆地の南は高度1000メートルを超える古い凝灰岩の高原をなしている。大地溝帯に沿って、北からアルバート湖、エドワード湖、キブ湖、タンガニーカ湖など点々と湖が連なっている。また、ルウェンゾリ山地(5110メートル)のほかカリシンビ火山(4507メートル)、ニーラゴンゴ火山(3470メートル)などのビルンガ火山群が連なって高原の景観を形成している。
コンゴ盆地は熱帯雨林に覆われ、高温多湿の典型的な熱帯雨林気候を示す。首都キンシャサの年降水量は1400ミリメートル、年平均気温は25.3℃。盆地の周辺部は乾期・雨期の区別が明らかなサバナ気候へと移行する。カタンガ州の州都ルブンバシでは乾期の7月には月平均気温は16.1℃に下がり、年降水量も1229ミリメートル、年平均気温20.6℃で温和な気候を示す。樹種の多様な熱帯森林にはとくにサル類が豊富で、低地部にはチンパンジー、東部のカフジ山にはマウンテンゴリラが生息している。またオカピはコンゴ盆地東北部にのみ生息する珍しい動物である。オカピの野生生物保護区は1996年に世界遺産の自然遺産(世界自然遺産)に登録された。このほかに4か所の国立公園が世界自然遺産に登録されており、コンゴ国内の世界遺産の合計は5か所であるが、森林伐採、密猟、内戦などの影響により、すべてが危機遺産リスト入りしている。
[赤阪 賢・澤田昌人]
行政的にはキンシャサ市を含めて11の州に分かれている。人口の多いのはキンシャサ市、東部州、カタンガ州、赤道州などである。国全体の人口密度は1平方キロメートル当り29人と希薄であるが、キンシャサ市の人口密度は約1000人で人口が集中しており、下コンゴ州、東・西カサイ州は人口密度50人前後と、平均より濃密な人口分布を示している。
首都のキンシャサは、コンゴ川を挟んでコンゴ共和国の首都ブラザビルと向かい合っている。かつてレオポルドビルとよばれたが、1966年に名称を改めた。イギリスの探検家スタンリーが植民地建設の基地を築き、ベルギー領時代には総督府が置かれた。1950年代から急速に拡大し、1999年には人口は488.5万人に、2009年には約840万人に達したと推定されている。市内のメーンストリートの「6月30日(独立記念日)大通り」に沿って近代的なビルが建ち並ぶ。一方旧市街の外には、新しく流入した人口で形成された地区が広がっている。キンシャサは国内の交通の中心であり、コンゴ川河口近くのマタディとは鉄道で結ばれている。コンゴ川中流のキサンガニへは河上交通が利用できる。国外・国内の航空路の中心でもあり、カナンガ、ルブンバシ、ムブジ・マイなど国内の空港およびラゴス、ナイロビ、ヨハネスブルグ、パリ、ブリュッセルなどの国外の空港と定期便で結ばれている。
第二の都市はカタンガ州の州都ルブンバシで人口約150万人である。カタンガ州はコンゴ民主共和国経済を支える銅、コバルトを産出する。ルブンバシのほかリカシ、コルウェジなどの鉱山都市が発展している。銅の輸出は、かつてはアンゴラを通過するベンゲラ鉄道によっていたが、アンゴラ内戦による閉鎖(1975)後は鉄道や河上交通でマタディに、あるいはジンバブエを経由して南アフリカに運んでいる。ダイヤモンドはカサイ川流域で産出する。東部の北・南キブ州は、高原の気候を利用したコーヒー、紅茶などのプランテーションが発達している。
[赤阪 賢・澤田昌人]
中部アフリカのこの地域が世界史に登場するのは、ヨーロッパの大航海時代が始まる15世紀のことである。ポルトガルの航海者ディオゴ・カンは、1482年コンゴ川の河口に達し、川の名を住民にたずね、ンゼレと記録した。当時、この地域にはコンゴ王国が成立していて、現在のアンゴラからガボンにかけての広い領域を支配していた。コンゴ王(マニ・コンゴと称していた)はポルトガルと友好関係を結び、国王アフォンソ1世はキリスト教に改宗した。しかし、ポルトガルとの関係は、奴隷貿易が開始されたため悪化した。また、コンゴ王国の支配下にあった諸王国の抗争が激化し、その影響で王国の勢力は衰退し、統一した政治勢力はその後生まれないままヨーロッパ諸国の植民地的進出の時代を迎えた。
19世紀に入りヨーロッパ人のアフリカ内陸部の探検が進んだ。コンゴ川流域についてはフランスとベルギーが熱心で、フランスのド・ブラザPierre Paul François Camille Savorgnan de Brazza(1852―1905)はコンゴ川の北岸地帯を探検した。1874年から1877年にスタンリーは、アフリカ大陸を横断しコンゴ川の流路を見極めた。ベルギー国王レオポルド2世Leopold Ⅱ(1835―1909)は1878年以降スタンリーを派遣し、アフリカ人の首長と条約を結び、それに基づき1884~1885年のベルリン会議においてコンゴの植民地化を正当化した。この時点で成立したコンゴ自由国(コンゴ独立国)は実質的にレオポルド2世の私的領地であり、その目的はゴムと象牙(ぞうげ)などの資源の収奪にあった。この暴政は国際的な世論の非難を浴び、1908年にベルギー政府が直接支配するベルギー領コンゴが成立した。ベルギーの植民地統治も資源開発に重点を置き、住民の自治や教育などについては無関心であった。
アフリカ各地の民族主義運動に刺激を受け、20世紀なかばから本格的な独立運動が展開した。1950年にJ・カサブブはコンゴ民族を糾合してアバコ党(ABAKO=Alliance des Bakongo、コンゴ民族同盟)を結成、1958年にはP・ルムンバがコンゴ国民運動(MNC=Mouvement National Congolais)を結成した。コンゴの脱植民地化はベルギー政府の予想以上に急展開し、1959年1月首都レオポルドビルで勃発(ぼっぱつ)した騒乱をきっかけに、1960年6月30日の独立が決定された。独立によりコンゴ共和国が成立、同年5月の選挙で第一党を占めたMNC党首のルムンバが首相に選ばれ、カサブブが初代大統領に就任した。
[赤阪 賢・澤田昌人]
独立直後にコンゴ人兵士の反乱、その収拾をめぐる大統領と首相の対立など政治的混乱が生じた。1960年7月にはカタンガ州の首相M・チョンベが州の分離独立を宣言し、これをきっかけにコンゴ動乱が本格的に始まった。カタンガ州の鉱物資源の利権を守るためベルギーは軍隊を派遣、首相ルムンバはカタンガ州の独立を阻止するため国連軍の迅速な介入を要請したが、安全保障理事会におけるこの問題の議論は紆余曲折(うよきょくせつ)を極め、ルムンバが期待するような介入は行われなかった。そのためルムンバはソ連の援助を求めることになったが、冷戦下におけるこの行動はルムンバへのアメリカ、ベルギーの敵意をかき立てることになった。同年9月に大統領カサブブは首相であったルムンバを解任したが、逆にルムンバはカサブブの解任を発表した。
この混乱に乗じ軍司令官で大佐のJ・モブツが政治的介入を行い、ルムンバは逮捕されて拘禁されたのちカタンガ州に送られ、1961年1月17日カタンガ軍により銃殺された。銃殺の現場にはチョンベのほか複数のベルギー人も立ち会ったといわれている。ルムンバ派の後継者A・ギゼンガはスタンリービル(現、キサンガニ)を本拠地として反政府運動を起こした。こうして国内は各政治勢力が割拠するに至った。その後、ベルギー軍の撤退、外人部隊の導入などの経過を経て、1961年8月に幅広い政治勢力を結集してC・アドゥラCyrille Adoula(1921―1978)政府が誕生した。1962年12月、国連軍はカタンガへの攻撃を開始、チョンベ軍は敗退し、1963年1月にカタンガの分離問題は終結した。しかし国連軍の完全撤退後、国内の混乱は広がり、ルムンバ派の流れをくむP・ムレレPierre Mulele(1929―1968)の反政府軍はスタンリービルを根拠に1964年7月コンゴ人民共和国の設立を宣言した。アドゥラ政権が崩壊すると、1964年7月大統領カサブブはチョンベを首相に任命し、同年8月コンゴ民主共和国が誕生した(コンゴ共和国から国名を改称)。同年11月アメリカの軍事援助やベルギーの軍事介入などで、スタンリービルは制圧され、この第二次動乱は1965年3月に終息した。その後カサブブとチョンベの対立が激化すると、1965年11月に軍最高司令官で中将のモブツがクーデターを起こして政権を握り大統領に就任した。
モブツは大統領就任後、5年間の非常事態宣言を出し政敵、もしくは政敵になりそうな政治家、軍人を次々に粛清し独裁色を強めた。1966年には首都の名称をキンシャサとし、ついで都市名、地名、人名などを外国語名から現地語に改め、1971年には国名、川名、通貨名をすべてザイールと改称した(国名はザイール共和国)。彼は1970年11月の大統領選挙で勝利を収めると、革命人民運動(MPR=Mouvement Populaire de la Révolution)の一党制国家としての独裁体制をさらに強固なものにした。1973年11月にはザイール化計画を発表し、ベルギー資本の鉱業会社MIBAの国有化をはじめとして、外国人所有の企業、プランテーション、商店などの経営をザイール人の手に移した。経済的独立を目ざした政策であったが、接収した企業、商店などの多くは、結局モブツおよびその周辺の政治エリートたちに分配された。彼らは経営、商売に不慣れなため、これらの企業、商店などの経営はたちまち行き詰まり、ザイール経済は深刻な打撃を被った。
このような状況のもと、1977年3月および1978年5月に、反モブツ派のコンゴ民族解放戦線がアンゴラを基地にしてシャバ州(現、カタンガ州)に侵入した。とくに1978年の侵攻では一時鉱山都市コルウェジを占領したが、ザイール軍はほとんど抵抗できなかった。結局、モロッコやフランス、ベルギーから援軍を受け入れ、そのおかげで侵入した武装勢力を撃退することができた。
1973年のザイール化政策以降、主力輸出品である銅の国際価格低迷もあって、経済が疲弊し長期的な国力低下をきたしていた。1980年代を通じて、道路などインフラを整備することもできず、そのため経済活動は徐々に低下していき、貨幣価値の低下に伴うインフレが進行していった。
経済低迷の原因が腐敗したモブツ政権にあることは明らかであったが、アメリカを中心とする西側諸国は冷戦時代におけるザイールの戦略的重要性に着目し、支持してきた。しかし、冷戦が終わるとともにザイールの重要性は低下した。また東欧での民主化のうねりもアフリカに及びつつあった。その状況を受けて、アメリカはザイールにおける政治の民主化を要求した。国際社会による圧力を受けてモブツは1990年4月、複数政党制への移行を宣言し、1992年4月にはザイールが直面する諸問題と民主政治への移行を議論するため、国民会議が始まった。しかし政治混乱が続き民主化の動きは停滞するようになった。
1994年4~7月に起きた東隣のルワンダでの大虐殺と、その後ザイール東部に流入した大量のルワンダ難民は、政治的苦境にあったモブツ大統領にとって復権を図るチャンスであった。国際社会も難民への人道援助のために、モブツ政権と良好な関係を保つ必要があったからである。
しかし1994年から1996年にかけて、東部のルワンダ難民のキャンプから、旧ルワンダ政府軍やその民兵が、新政府の治めるルワンダへの越境攻撃を繰り返していた。当時のルワンダ政府は、モブツ政権に対して「難民キャンプからの攻撃をやめさせるよう」要求していたが、効果はほとんどなかった。1996年8月にモブツ大統領は突然スイスに運ばれ入院し、ガンの手術を受けた。
モブツの健康不安に便乗するかのように、1996年9~10月ザイールに定住していたツチ系のバニャムレンゲ人主体のコンゴ・ザイール解放民主勢力連合(AFDL=Alliance des Forces Démocratiques pour la Libération du Congo)が、ルワンダ軍、そしてウガンダ軍の支援を受け、ザイール軍および旧ルワンダ政府軍との戦闘を開始した。この結果、ルワンダ難民キャンプからフツ人を中心とする難民約50万人のルワンダ帰国が実現した。AFDLはモブツ政権の打倒を唱えて首都キンシャサに進撃し、各地で政府軍を撃破し、1997年5月17日にキンシャサに入った。モブツはその前日国外に逃亡し、32年間に及ぶ独裁政治が終了した。同年9月7日、モブツは亡命先のモロッコで死亡した。
AFDL議長のローラン・カビラはザイール共和国の名称をコンゴ民主共和国に変更し、元首(大統領)就任を宣言した。さらに憲法の効力を停止し、暫定政権の内閣を組織した。内閣はAFDLのメンバーを中心に構成され、それ以外にはモブツ時代の野党から少数の閣僚が選ばれただけで、反モブツ勢力の中心人物であったチセケディと彼の党は内閣から排除された。1998年3月、首相廃止や二院制議会の設置などを規定した新しい憲法案を発表した。
ローラン・カビラは政権奪取にあたりルワンダ、ウガンダの支援を受け、実際はルワンダ軍が戦闘の指揮をとった。戦後その司令官はコンゴ民主共和国軍の参謀長になっていたことからカビラはルワンダの傀儡(かいらい)と目され、国民に人気がなかった。その後、カビラ自身もルワンダ、ウガンダと距離をとり始め、両国との関係は悪化した。1998年8月ブカブ、ゴマ、キサンガニなどで政府軍のバニャムレンゲ兵が一斉に蜂起、ほぼ同時にルワンダ軍、ウガンダ軍もコンゴ民主共和国領内に侵攻し内戦が始まった。
この内戦には、カビラ支持のジンバブエ、ナミビア、アンゴラなどと、反政府軍支持のウガンダ、ルワンダなどが参戦、国際紛争化した。参戦国の多さ、戦闘地域の広大さはアフリカ大陸で前例をみないものであり、当時「第一次アフリカ大戦」とよばれたこともある。
紛争開始直後から、ザンビアや南アフリカの仲介で何度も和平交渉が行われたが、実効性のある合意には至らなかった。こうしたなか、2001年1月カビラが殺害され、息子のジョゼフ・カビラJoseph Kabila(1971― )が大統領に就任した。ジョゼフ・カビラは、父親と異なり和平交渉に積極的で、2002年7月ルワンダと、同年9月にはウガンダと和平合意。同年12月、政府、反政府勢力らの間で、暫定政府樹立を含めた和平協定が南アフリカのプレトリアで調印された。翌年制定された暫定憲法の下、2006年には大統領選挙、議会選挙が行われ、ジョゼフ・カビラが大統領に選出された。彼は、コンゴ東部における反乱を制圧するために、敵対していたルワンダと友好関係を結んで共同作戦を行ったほか、ウガンダとの関係改善も進めた。ジョゼフ・カビラは2011年11月に再選(三度目の就任)されたが、選挙結果がねつ造されたとの指摘も多く、大統領の正統性を認めない野党関係者も少なくない。民主主義が定着して平和が続くのか注目されている。
2005年12月に制定された憲法によれば、コンゴ民主共和国は共和制で複数政党を認める民主主義体制である。大統領は国家元首であり、首相を任免できる権限をもっている。大統領は直接選挙で選ばれ、任期は5年、再選は1回のみ(2選まで)と定められている。議会は、議員数500名の国民議会と、108名の上院からなる二院制である。前者は各選挙区での直接選挙、後者は各州議会で選出される。両者とも任期は5年で再選は妨げられない。
三権分立もうたわれているが、現実に司法権の独立が保障されているか疑問をもたれている。また憲法で定められているが、いまだ実現していない項目もある。たとえば行政区分は首都と25の州から構成されることになっているが、従来の首都と10州からの再編はいまだに実施されていない。憲法と現実の乖離(かいり)が長く続けば、法による支配の原則が危うくなりかねない。コンゴ民主共和国にとっては、民主主義の確立と並んで法の支配の確立が重要な課題といえよう。
[澤田昌人]
コンゴ自由国時代(1885~1908)の間、輸出産品のほとんどはゴムと象牙(ぞうげ)であった。その後ベルギー領コンゴとなり、1920年代には大規模な鉱山開発が始まるようになった。銅その他はカタンガ州南部、錫(すず)はカタンガ州北部とマニエマ州、ダイヤモンドはカサイ州、金は東部州およびキブ州南部で鉱山開発が行われ、いずれも現在に至るまで採掘が続いている。
第二次世界大戦後、ベルギー領コンゴの経済は地下資源の輸出を中心に順調に発展してきたが、独立直前の1950年代後半には資本の逃避も始まり、減速が明らかとなってきた。さらに独立直後から始まった動乱のため、経済活動は停滞した。1965年のモブツによるクーデター以降は、1970年代初めにかけて銅、亜鉛、錫、コバルトなど主要鉱産物の産出は増加し、経済成長が続いた。
しかし、1973年のザイール化政策以降、経済は急激に悪化した。1971~1973年まで1桁(けた)台であったインフレ率は、1974年に約30%、1975~1977年は約60%、1978年には約80%に達した。それに伴って実質賃金の指数も1970年を100として、1975年には約70、1976年には約55、1977年には約38と急速に悪化した。1980年代になっても回復の歩みは遅々としたものであり、1980年から1990年までの10年間でGDPは約13%しか増加していない。この間の人口増加率は年約3.2%と推定されているので、10年間で約33%の人口増加である。つまり1人当りのGDPはこの間15%ほど低下しているのである。1980年代に重債務国に対してIMFが義務づけた政府支出の削減政策、いわゆる構造調整政策も、経済に悪影響を及ぼしたとされている。
1990年代前半は、民主化運動と大統領の対立による政治的混乱、後半は戦乱によって経済は疲弊の一途をたどった。インフレ率が年間数千%、一説には数万%に及んだとの指摘もある。この時期、内戦のさなかであったアンゴラよりもインフレ率が高かったという事実は、この国の経済状況が非常事態であったことを物語っている。
2002年の和平協定成立後、2010年までは40%という比較的高いインフレ率の年もあったが、おおむね10数%から20%前後で推移しており、過去と比較してインフレはやや収まってきている。
2006年の大統領選挙で当選したジョゼフ・カビラは、「5つの改革」として重点的な政策を掲げた。すなわち「道路、空港などインフラの再建」「保健、教育へのアクセスの改善」「住宅の供給」「水道と電気のネットワークを確立すること」「雇用を創出すること」の5つである。
コンゴ民主共和国は莫大(ばくだい)な対外債務をつねに抱えてきた。これまで何度か債務の一部を帳消しにされながらもふたたび債務を増加させることを繰り返してきた。2000年代を通じてふたたび債務は増加し、2010年には約140億ドルの対外債務を負っていたとされている。この債務を削減する交渉はIMFや世界銀行、そのほかの債権国との間で2002年から始まっていたが、2008年に中国企業グループとの間で結ばれた90億ドルにのぼる巨大な援助契約に対してIMFや世界銀行は、債務削減交渉のさなかに債務を大幅に増加させると、この契約に難色を示し、交渉は中断した。結局中国側との契約は60億ドルに減額され、2010年7月になってIMFと世界銀行はコンゴ民主共和国の対外債務を123億ドル削減すると発表した。
ジョゼフ・カビラの「五つの改革」は、中国企業グループによるインフラ整備に頼るところが大きい。インフレの抑制と中国側の投資もあって、2002年の和平合意以降GDPは堅調に推移している。2008年まで5~7%台前半の成長率を維持していたが、2009年には世界的な不況のあおりを受け2.8%に低下した。2009年の1人当りGDPは約160ドルであり、世界の国で最下位と推定されている。通貨はコンゴ・フラン(FC)。
[澤田昌人]
言語は、赤道州を中心に普及しているリンガラ語、東・西カサイ州を中心のルバ語、下コンゴ州中心のコンゴ語、そして東部の北・南キブ州・マニエマ州・東部州中心のスワヒリ語の4種の言語が国語として採用されており、ラジオやテレビの放送で用いられたり、地域の教育や経済活動で使用されたりしている。さらにフランス語が公用語に指定されており、小学校中学年以降の教育、公的な書類、ビジネスに用いられている。リンガラ語は軍隊で用いられており全国的に普及している。さらに、国内には細かく数え上げると200以上もの民族が居住しており、それぞれの言語をもっている。その大部分はニジェール・コンゴ語族(バントゥー諸語を含む)に属するが、北部にはナイル・サハラ語族(スーダン諸語を含む)に属する言語も存在する。人口の多い民族としては、コンゴ、チョクウェ、ルバ、モンゴ、ナンデ、ソンゲ、テテラ、レンドゥ、アザンデなどがあげられる。
15世紀から18世紀にかけて、この地域ではコンゴ王国(現在の下コンゴ州周辺)、ルバ王国(現在のカタンガ州周辺)、クバ王国(現在の東、西カサイ州周辺)などのいくつかの王国が形成され、華麗な物質文化を展開した。もちろんこれらの王国の版図以外でも、多彩な彫刻、仮面、床几(しょうぎ)、儀礼用の斧(おの)や、土器、籠(かご)細工、織物など高度な技術的完成をみせている例が数多くある。物質文化に加えて、各地域での口頭伝承や神話などの精神文化も発達し、組織的に収集整理すれば、人類共通の遺産となるであろう。
音楽や踊りも伝統的に盛んである。とくに東部州のイトゥリ地方に住むムブティ(「ピグミー」とよばれることもある)は、緻密(ちみつ)な織物のように濃密に重ね合わされた多声合唱で有名である。また首都キンシャサでは、さまざまな伝統的音楽と、カリブ海諸国から取り入れたルンバを融合したリンガラ・ミュージックとよばれる新しい音楽のジャンルが誕生した。当初はリンガラ語で表現されていたが、リンガラ語以外のさまざまな言語で作曲、演奏され、アフリカ大陸の広い地域で大衆音楽として愛好されている。
植民地時代、教育はおもにキリスト教の布教活動の一環として推進され、金銭的に余裕のない一般のコンゴ人が中等以上の教育を受けようとすれば、キリスト教の神学校に入学するのがほとんど唯一の道であった。憲法では小学校(6年制)は義務教育で、公立小学校は無償ということになっている。2008年に小学校で約1000万人、中学校で約300万人が就学しているとされており、生徒数が急激に増加している。しかし予算が充分でないこともあって、教員や設備の拡充が追いついておらず、保護者による経済的負担はかなり大きい。そのため、小学校の学齢期の児童の25%が就学していないともいわれている。
大学や高等専門学校などの高等教育機関は、近年急速に増加している。就学者も、1999年の合計約6万人から、2008年には約30万人に急増しており、近い将来知的生産性の高い多数の若者が活躍の場を広げていく可能性がある。
宗教は、ベルギー統治時代より、キリスト教が優勢で、人口の50%がカトリック、ついでプロテスタントが20%、キンバンギストが10%、そのほかにイスラム教が10%、土着宗教等が10%といわれている。キンバンギストは1921年4月にシモン・キンバングSimon Kimbangu(1889―1951)が創始したキリスト教の土着形態とでもいうべき宗派である。同年9月に彼は逮捕され1951年に死亡するまで牢(ろう)につながれていた。にもかかわらず、その教えはコンゴ民主共和国のみならず、隣国のコンゴ共和国、アンゴラにも広がっている。
マスメディアのうち新聞、雑誌は大都市、とりわけ首都に集中しており、地方都市で当日の日付の新聞が入手できるのはまれである。テレビ、ラジオは普及しており、国語の4言語とフランス語による放送が行われている。近年目を見張るスピードで携帯電話のネットワークが広がっており、携帯電話の所有人口が急速に増加している。2010年の推計では固定電話4万2000回線に対し、携帯電話数は1100万を超えている。インターネット利用者は2008年時点では約30万人で、地方都市では電子メール用にコンピュータを使わせる店がある。
[澤田昌人]
1960年(昭和35)の独立とともに日本はコンゴ民主共和国を承認し、日本国大使館がキンシャサに置かれている。在日コンゴ民主共和国大使館は1967年に開設された。1971年には大統領のモブツが来日し、1984年には日本から皇太子夫妻(当時)が答礼訪問をするなど友好的関係にあった。日本からの経済援助、技術援助の代表的な例は、コンゴ川下流のマタディ橋の建設である。345億円の円借款で10年間かけて1983年に完成した。そのほか食糧増産援助、災害援助、道路整備や農業機械整備などの無償援助を行っていたが、1993年(平成5)以来の混乱により経済援助は中止された。その後、1995年に難民食糧援助が行われた。混乱以前は技術協力のため研修員の受け入れ、地震学や動物学などの学術交流が行われていた。カタンガ州の銅鉱山開発のため日本企業も進出していたが、その後撤退するに至った。2005年(平成17)には当時暫定大統領であったジョゼフ・カビラが実務訪問賓客として来日した。
2006年に大統領選挙が実施されたことにより、翌2007年から日本による援助が本格的に再開された。2009年度の実績は無償資金協力、技術協力合わせて約115億円となっている。これには小児感染症予防計画など保健・医療関係事業、道路や浄水場の補修などインフラ関係事業、森林保全関係事業などが含まれている。
2009年10月時点の在留邦人数は46名であり、1990年の83名に比べて大幅に減少しているが、近年京都大学関係の学術調査が赤道州で再開されるなど、人的交流が活発になってきている。コンゴ民主共和国は、地下資源が豊かで耕作可能面積が広く、大きな可能性を秘めていることから、日本はふたたび関係を深めていくことになるだろう。
[赤阪 賢・澤田昌人]
基本情報
正式名称=コンゴ民主共和国République Démocratique du Congo
面積=234万4858km2
人口(2011)=6780万人
首都=キンシャサKinshasa(日本との時差=-8時間)
主要言語=フランス語,リンガラ語,スワヒリ語,ルバ語,キコンゴ語
通貨=コンゴ・フランFranc Congolais
中部アフリカの南部に位置する共和国。中央部北方を赤道が横切っている。1960年にベルギーから独立した当時はコンゴ共和国と称したが,64年にコンゴ民主共和国となった。コンゴ川をザイール川と改名したのに伴って71年に国名をザイール共和国に変更したが,97年5月にコンゴ民主共和国にもどした。面積はスーダン,アルジェリアに次いでアフリカ第3位,人口はナイジェリア,エジプト,エチオピアに次いで第4位である。
執筆者:小田 英郎
国土は大西洋側に突出する部分を除けば,南北約1900km,東西約1500kmで,コンゴ盆地の大部分を占め,コンゴ川水系(この国ではザイール川と改名)によって排水される。盆地の最低部は赤道上の東経18°付近,コンゴ川にウバンギ川が合流するあたりを中心とし,平均標高は400mである。東の国境はアフリカ大地溝帯の底部や肩部に並ぶアルバート湖(この国ではモブツ湖と改名),ルウェンゾリ山地(最高5109m),エドワード湖,ビルンガ山地(カリシンビ4507mやニーラゴンゴ3470mなどの火山をもつ),キブ湖,タンガニーカ湖などを連ねる。その西肩は2000~3000mの傾動山塊で,ミトゥンバ山地と呼ばれる。南境は階段状に高まる高原斜面で,南東に張り出した部分では1000mをこえる。西および北ではコンゴ川,ウバンギ川が国境となる。
赤道をはさんだ国土の40%は高温多湿(年降水量1800~2200mm)の赤道気候下にあり,多くの河川や湿地の存在が湿潤さを強調する。ここでは気温も降水も年2回の極大が特徴的である。南緯および北緯4°以高では,乾季がしだいに明りょうとなるサバンナ気候になり,南部では気温も降水も年1回の極大を示すようになる。盆地底部を中心に降雨林が広く覆い,とくに地形上降水量の多くなる東部は密度が濃い。降雨林は外側へ,落葉広葉樹林を経て,低木種や草本を特徴とするサバンナに移行する。このような環境の変化に応じて多彩な動物群が,大型獣の数は減少傾向にあるとはいえ,まだ各地に生息しており,とくにアフリカ大地溝帯のビルンガ国立公園とルアラバ川上流部のウペンバ国立公園が名高い。
執筆者:戸谷 洋
200以上の部族が居住するといわれているが,大部分はバントゥー諸語を話す人々で,北部にスーダン語系およびナイル語系の人々がわずかいる。公用語はフランス語であるが,別に四つの国語があり,西部の赤道州が中心のリンガラ語(軍隊の公用語でもある),東部のキブ州を中心とするスワヒリ語,東西カサイ州を中心とするルバ語,バ・ザイール州のコンゴ(キコンゴ)語が,それぞれ大きな言語人口を抱えている。人口の面ではアフリカ大陸では大国であるが,人口密度は希薄である。近年では人口374万(1991年推計)を擁する首都キンシャサをはじめとする都市人口の増大がみられる。モブツ政権下では,政府は部族の独自性を強調するよりむしろザイール人としての国民意識の形成に努力を傾注し,部族間の融和をはかった。とはいえ,村落部では部族の本来の生活様式は強く残存している。個々の部族の伝統的な政治形態も存続しており,とくに末端の行政単位では部族の伝統的首長が,新規に行政首長として力を保持しつづけている。
もともとコンゴ川流域の広大な熱帯森林は,狩猟採集民のピグミーの生活の舞台であった。現在,ピグミーは北東部のイトゥリの森林のほか,各地に分散して居住している。その後バントゥー族が侵入し,1482年にポルトガルの航海者がコンゴ河口に到着したとき,大西洋沿岸には数々の諸王国が存在していたが,なかでもコンゴ王国は最盛期を迎えていた。当時のコンゴ王国は大西洋岸からクワンゴ川まで,今日のアンゴラ北部,ザイール西部,コンゴ人民共和国南部にかけて,広い領域を支配した。南のサバンナ地帯,今日のカサイ地方にはルバ,クバ,ルンダなどの諸王国が形成された。また北部ではザンデ(アザンデ)やマンベツなどの王国が形成された。これらの諸王国は,一般に象牙,布,奴隷などの形で徴収した税を経済的基盤にして発達した。ヨーロッパ人の到来後は奴隷交易の性格が一変し,急激に増加するにいたった。約3世紀の間に運び出された奴隷は1350万人にも及び,アフリカ社会の荒廃をもたらしたことはよく知られている。さらに19世紀半ばには,北方のスーダンからザンデ王国を通じてのルートと,東アフリカのザンジバルからタンガニーカ湖を渡るルートの,二つの方向からの奴隷交易が開かれた。ザンジバルのルートはティップ・ティプTippu Tip(1837-1905)のようなアラブ商人が握り,コンゴにスワヒリ語などのアラブ的要素を持ち込んだ。
コンゴ川流域の高温多湿の熱帯森林地帯に居住するバントゥー諸族は,同質的な文化を形成した。農業については,マニオク(キャッサバ),ヤムイモ,タロイモ,サツマイモなどの根茎作物や,バナナ,プランテン,ヤシなどの果樹作物を主とする焼畑耕作を行っている。ヤギ,犬,鶏,アヒルなどの家畜や家禽も飼育されているが,ツェツェバエの害のある地域では牛は飼育できない。ルバ族などサバンナ地域の住民は牛や羊を飼育し,モロコシ,ミレット,トウモロコシなどを栽培している。コンゴ川水系の無数の河川では漁労は重要であり,とくにキサンガニ近辺のワゲニア族の大規模な罠漁は有名である。バントゥー農耕民のあいだでは狩猟も盛んに行われており,ゾウ,カバ,カモシカ類,ネコ類,サル類,ワニ,ヤマアラシなどの動物や,ホロホロチョウやサイチョウなどの小鳥類などが弓矢猟,槍猟,罠猟などの対象となっている。また昆虫食も一般に行われており,カタツムリやさまざまな幼虫が食料とされる。木の根や実などの採集も行われる。
部族の文化的系統で分けると,コンゴ河口のテケ族などの北西バントゥー,コンゴ川本流に沿って分布するレンゴーラ族,ソンゴーラ族,レガ族などの赤道バントゥー,西部のコンゴ族などや,中部のクバ族などの中央バントゥー,モンゴ族やルバ族,そして東部のフンデ族やバシ族などの湖間バントゥーなどのグループに分けられる。これら諸部族は祖先崇拝に基づく宗教をもち,多彩な彫刻のマスク(仮面)や彫像,スツール(床几(しようぎ)),儀礼用の斧などの華麗な物質文化を発展させた。また土器,籠細工,織物,樹皮布,獣皮などの製作に関して高度な技術的完成を示している。これらの物質文化に加えて,部族の起源を示す神話,伝説や民話などの口頭伝承や歌謡など,言語文化も発達している。太鼓によるコミュニケーションや楽器,踊りなども発達しており,今日でもコンゴの音楽はコンゴ・ジャズという呼名で近隣の国々の人々からも愛されている。呪術に関しても複雑なシステムをもち,さらに伝統的な呪医がなお社会において重要な役割を果たし続けている。
執筆者:赤阪 賢
現在のコンゴが歴史に登場するのは,14世紀にバントゥー系諸国を征服することによってコンゴ王国が成立して以降のことである。コンゴ王国は,現在のコンゴの西端(コンゴ河口周辺地域)からアンゴラ北部に広がる領土をもち,マタンバ,ヌドンゴなどの諸地方にある多くの小首長国を属領として支配し,かなり整備された政治制度と物質文明を備えた黒人国家であった。その後1482年にポルトガル人ディオゴ・カンDiogo Cãoが船隊を率いてコンゴ河口に到達し,ここにコンゴ王国とヨーロッパ勢力との最初の関係が生まれた。コンゴ王国のポルトガルに対する態度はきわめて友好的で,当時の王(マニ・コンゴMani Kongoと呼ばれた)ヌジンガ・ヌクウNzinga Nkuwu(在位?-1506)は自らポルトガル名を採用してジョアン1世と称し,ポルトガルと外交関係を開いた。その後継者ヌジンガ・ムベンバ(アフォンソ1世。在位1506-45)はさらに熱心な欧化主義者で,キリスト教に入信し,ポルトガル語を学習し,臣下の高官に爵位を授け,欧風の宮殿を建て,キリスト教会や学校を造り,首都ムバンザ・コンゴをサン・サルバドルと改名したほか,王子をローマ教皇のもとへ派遣するなど,きわめて積極的な欧化政策を採用した。ポルトガル側もこれにこたえて外交使節,キリスト教宣教師団のほか鍛冶屋,石工,煉瓦工,農業技術者などをコンゴ王国に派遣するなど,両国の初期の関係はまことに良好であったが,16世紀に入ってまもなくポルトガル商人による奴隷貿易が本格化したため,この平和的な両国の交流関係は,加害国と被害国の関係へと変化した。アフォンソはたびたびポルトガル王に抗議の書簡を送ったが効果はなく,むしろ奴隷貿易は拡大の一途をたどった。これら奴隷の大部分はブラジルおよびカリブ海方面へ送られた。
この奴隷貿易は,奴隷狩りを目的とした沿岸諸部族の武力抗争を促し,その影響でコンゴ王国は衰退の一途をたどり,16世紀後半のジャガ族(ヤガ族)の侵攻に際してポルトガル軍の支援を受けたのを契機に,時のコンゴ王アルバロ1世AlvaroI(在位1567-86)はポルトガル王に忠順を誓い,両国の対等の関係は終りを告げた。その後1665年にポルトガル軍がコンゴ王国を攻撃し,時の国王アントニオ1世Antonio I(在位1661-65)を殺害した事件をもって両国の関係は断絶するにいたり,コンゴ王国自体も壊滅的な打撃を受けた。
19世紀に入ると奴隷貿易が衰え,ヨーロッパ人によるアフリカ内陸部探検が盛んに行われたのに続いて,同世紀末期にはアフリカの植民地分割競争が本格化した。コンゴについては,1878年以降ベルギー国王レオポルド2世がH.スタンリーを派遣して現地の首長たちと合計約400に及ぶ保護条約を結ばせ,84-85年のベルリン会議で欧米列強にコンゴの植民地化を承認させる(ベルリン協定)ことに成功すると,これをコンゴ自由国と称して自らその王を兼ねた。コンゴ自由国は事実上レオポルド2世の私的植民地として他に類例を見ないほどの暴政のもとに置かれ,住民の土地に対する組織的収奪,ゴム農園の開発や象牙の採集を目的とした非人道的な強制労働制度の導入などのために,レオポルド2世はイギリスをはじめとする欧米諸国からベルリン協定違反として厳しい非難を浴びせられた。また民間レベルでも,イギリスのモレルEdmund Morel(1873-1924)のように,1904年にコンゴ改革協会を組織し,《赤いゴム》などの著作によってレオポルド2世の暴政を告発する人々が少なからず現れ,コンゴ自由国の立場はいっそう苦しいものとなった。レオポルド2世は06年以降アフリカ人首長の権限の部分的承認,ゴムの強制集荷の廃止などを含む一連の改革を導入しようとしたが,国際世論の非難をかわすことができず,08年にコンゴ自由国の統治権をベルギー政府に移管し,ここにベルギー領コンゴが正式に誕生した。ベルギー政府は同年植民地憲章(コンゴ憲法)を採択し,州,県,郡,地区を置くなど行政面での整備を行い,総督を派遣してこれを統轄させた。さらにベルギー政府は自由国時代の暴政に終止符を打つために,特許会社による独占的商業活動を禁止し,コンゴ人の商業活動の自由を認めるとともに,ゴム,象牙などの強制集荷制度を廃止するなどの改革を行ったが,まもなく起こった第1次世界大戦の影響もあって,その速度は弱められた。
両大戦間の時代に入ると,イギリス領を中心にアフリカにもナショナリズムの萌芽が見られるようになったが,ベルギー領コンゴではこの種の運動の発展は遅れていた。ただ20年代初期に急激に盛り上がったキンバングによる運動やキタワラ運動,さらに30年代後半から40年代前半に高まったS.R.ムパディのネオ・キンバンギズム運動(カーキスト運動)のようなメシア的解放運動は,原初的なナショナリズム運動の一種ということができる。第2次世界大戦が終わると,アフリカ全域にナショナリズム運動が高まるが,ベルギー領コンゴにその波動が到達したのは50年代末期であった。その契機は,コンゴ国民運動(MNC)の指導者ルムンバが58年12月に現ガーナのアクラで開かれた全アフリカ人民会議に出席し,他地域のナショナリストたちから大きな刺激を受けて帰国したことである。ルムンバはコンゴの即時独立を目ざしてただちに大衆運動の組織化に着手し,ほかにもこれに同調する動きが生じたため,ベルギーもコンゴの独立を認める方向へ向かわざるをえなくなった。59年1月初旬のレオポルドビル(現,キンシャサ)暴動はベルギーにコンゴ独立の最終的決断を迫り,その結果60年1月下旬にはブリュッセルでMNC,アバコ党,コナカ党その他諸党派の代表を集めて独立のための円卓会議が開かれ,同年6月30日にコンゴは共和国として独立を達成した。
しかしナショナリズム運動が未熟であるうえに,独立のための準備期間が短すぎたこともあって,独立後1週間足らずの7月6日,軍隊の反乱を契機にコンゴは大動乱(コンゴ動乱)に突入した。カサブブ大統領とルムンバ首相の対立,チョンベによるカタンガ州(現,シャバ州)の分離独立宣言,ベルギーの軍事介入と国連軍の派遣,モブツ大佐の政治介入,ルムンバ首相の逮捕と虐殺,カサブブ派のレオポルドビル政権とルムンバ派のギゼンガを盟主とするスタンリービル(現,キサンガニ)政権の対立といった諸事件を織り込みながら,情勢は悪化の一途をたどった。しかも西側諸国はレオポルドビル政権を支持しながらカタンガ分離主義勢力に対してもあいまいな態度を示し,東側諸国はスタンリービル政権を支持するなどしたために,動乱はいっそう複雑な様相を呈した。しかし61年8月にアドゥラを首班とする中道的な挙国一致内閣が成立したことで中央政府は一本化し,62年12月中旬以降の国連軍の武力攻撃によって,エリザベトビル(現,ルブンバシ),コルウェジなどカタンガ州の主要都市が次々に陥落したため,チョンベは63年1月中旬にカタンガの分離の撤回を宣言し,ここに第1次コンゴ動乱は終結した。
動乱の終結後も,経済の悪化,中央政府と旧ルムンバ派の対立の再燃などで,コンゴ情勢は安定を回復できなかった。64年6月国連軍が引き揚げる前後から,P.ムレレ,C.グベニエなどに指導されたルムンバ派の流れを汲む反政府ゲリラの武力闘争が活発となり,コンゴは第2次動乱に突入した。この間,アドゥラ政権は崩壊し,亡命先のスペインから帰国したチョンベが64年7月に首相に任命されるという皮肉な事態も生じた。第2次動乱は当初,反政府ゲリラ側に有利に展開したが,64年9月以降中央政府軍が優勢となり,11月末のスタンリービル攻防戦を挟んで,65年3月までに政府軍の勝利のうちに終息した。しかし中央の政局はカサブブ大統領とチョンベ首相の対立のためにしだいに泥沼化し,ついに65年11月,軍最高司令官モブツ中将が無血クーデタを起こして政権を握り,大統領に就任して5年間の非常事態を宣言した。こうして動乱に明け暮れた第一共和国の時代は終りを告げた。
モブツ政権は67年新憲法を公布し,第二共和政が発足したが,同憲法のもとでは二院制が廃止されて一院制となり,また二大政党制の採用が定められた。この規定に基づいて,モブツ政権の与党である革命人民運動(MPR)が創設されたが,第二の政党は認可されないまま,70年の憲法修正によって名実ともにMPRの一党支配体制が確立した。MPRは労働組合,婦人団体,青少年団体などをその基盤に含むモブツ体制の翼賛政党で,70年に国家機関としての法的地位を付与された。これによって政府も議会も裁判所もことごとくMPRの一機関とされたばかりでなく,全国民が同党に加入することが義務づけられた。こうして権力基盤を強化したモブツ政権は71年に国名をザイール共和国に変更するとともに,〈真正〉イデオロギーに基づくザイール化政策を推進し始めた。〈真にザイール的なものの回復〉を目ざすこの政策は,経済面では企業や土地の国有化,管理者層のザイール人化を軸とし,文化・社会面では人名・地名のザイール化,伝統的な衣服(女性)や革命服(男性)の強制着用を含む総合的脱植民地化計画の実践として,73年以降いっそう強力に推進されたが,性急にすぎて無理が目だち,75年以降経済面で大幅に後退した。ただモブツ政権それ自体は,77年および78年のシャバ紛争のように反政府勢力の武力攻撃にさらされながらも,78年に新憲法を公布して,従来からの権威主義的支配体制をいっそう整備・強化する姿勢を示した。
モブツ大統領は84年の選挙に単独の候補者として臨み,99.16%の票を得て三選された。90年4月モブツは複数政党制移行を声明し,民主化推進のための国民会議はチセケディを首相に選出したが,のちに一方的にこれを解任した。モブツは91年12月の任期切れ後も大統領として居座り,民主化の進行は遅れたが,96年10月に始まるザイール東部紛争の結果,97年5月にコンゴ・ザイール解放民主勢力連合(AFDL)に首都を包囲された。モブツは国外に逃れ,ローラン・カビラ議長を新大統領とするAFDL政権が誕生した。国名もコンゴ民主共和国にもどった。
対外的には,全般的傾向として西側諸国と緊密な関係を保っており,シャバ紛争の際にはフランス,ベルギー,アメリカ,イギリスなどの支援が目だった。また中国との関係も緊密であり,82年にモブツ大統領が中国を,83年には趙紫陽首相がザイールを,それぞれ訪問した。他方,73年の第4次中東戦争以来断交していたイスラエルと82年にブラック・アフリカの先頭を切って復交し,83年には軍事援助協定に調印するなどして,アラブ諸国の非難を浴びた。カビラ政権の対外姿勢もさして変化はない。
主要輸出品である銅,コバルト,工業用ダイヤモンドをはじめ,マンガン,亜鉛,スズなどの鉱物資源に恵まれ,ヤシ油,コーヒー,ココア,紅茶,綿花,ゴム,木材なども多く産出する。経済的潜在力は豊かであるが,独立に続く動乱および1970年代前半期のザイール化政策の失敗が尾を引いて,経済全体が破綻の方向に進みつつある。ことに80年代に入ってからは銅,コバルト,コーヒーなどの輸出が予想したほど伸びず,インフレもいっそう悪化し,対外債務支払のめどが立たないところにまで追い込まれた。このため,83年には国際通貨基金(IMF)の借款を引き出すためもあって,同基金の示した経済再建計画を受け入れるとともに,通貨を480%切り下げ,変動相場制に移行し,経済自由化,緊縮財政などの政策を採用した。IMFや西側の援助供与諸機関の援助を受け入れ,86年にアフリカ開発基金,アフリカ開発銀行と40年間の長期借款契約を結んだ。89年5月に世界銀行,IMFと構造調整計画実施に合意したが,90年代初期以来の政治的混乱などで,経済は壊滅状態にある。なお,1976年からルワンダ,ブルンジとともに大湖地域諸国経済共同体(CEPGL)を結成している。
執筆者:小田 英郎
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中部アフリカのコンゴ盆地に位置する。1884~85年のベルリン会議で成立したコンゴ自由国を起源とする。その後ベルギーの植民地となった。1960年に独立したが,直後にコンゴ動乱が勃発し,内戦状態に陥った。65年にクーデタで政権を掌握したモブツは,アメリカなど西側諸国の支援を受けて国内を平定すると,独裁的な政治体制を確立し,71年には国名をザイールに変えて,民族主義的な政策を推進した。しかし,汚職や人権抑圧の蔓延に加えて経済が破綻し,内戦によって97年に失脚した。新たにローラン・デジレ・カビラが政権を掌握し,再び国名をコンゴ民主共和国に戻したが,翌年には東部や北部でルワンダやウガンダに支援された反政府勢力が蜂起し,再び内戦状態となった。カビラは2001年1月に暗殺され,息子のジョゼフが大統領職を引き継いだ。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…なお,日本の占める割合は輸出1.1%,輸入2.6%である。他方,植民地時代10%台を占めてきたザイール(旧ベルギー領コンゴ,現コンゴ民主共和国)との貿易は,輸出0.1%,輸入0.45%と減少している。輸出品目は,金属・機械・輸送機器37.3%,化学製品15.3%,その他工業製品32%,輸入品目はエネルギー源12.1%,原料12.5%,化学製品12.7%,金属製品・機械・輸送機器27.5%である。…
※「コンゴ民主共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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