改訂新版 世界大百科事典 「カネムボルヌー帝国」の意味・わかりやすい解説
カネム・ボルヌー帝国 (カネムボルヌーていこく)
Kanem-Bornu
9世紀ごろから19世紀まで,中部アフリカのチャド湖周辺を支配した帝国。版図は時代により異なるが,ニジェール東部,ナイジェリア北東部,カメルーン北部,チャド西部にまたがる。起源はよくわかっていないが,9世紀初頭にカヌリ族がチャド湖北東のカネム地方のヌジミを首都として建国したと考えられている。11世紀末にウメ王がイスラムに改宗し,イスラム国となった。この後カヌリ族が元来使っていた馬で騎兵隊を組織して周辺種族を支配し,北アフリカとサハラ以南のアフリカとを結ぶ内陸貿易路の要衝として栄えた。14世紀後半にチャド湖東方の遊牧民ブララ族が反乱を起こし,このためイブラヒム王はカネムを捨て,ソー族を追い払って,チャド湖南西のボルヌー地方のビルニ・ヌガザルガムに遷都した。カネム・ボルヌー帝国と言われるゆえんである(遷都以前をカネム帝国,以後をボルヌー帝国と呼ぶこともある)。16世紀後半イドリース・アローマ王の時,帝国は最盛期を迎える。彼はアラブ世界から鉄砲を大量に輸入して鉄砲隊を組織した。これによって近隣種族に対する支配を強化するとともに,北のトゥアレグ族を破ってサハラ砂漠の北端に追いつめ,また上述の14世紀後半の反乱後ブララ族が住んでいたカネム地方を再び征服した。イドリース・アローマはこれ以上領土拡大の野心をもたず,イスラムを国教として内部の統一強化に力を注いだため,バランスのとれた帝国となった。その後の帝国については不明な点が多いが,17世紀後半には再びトゥアレグ族が勢力を伸ばして帝国に侵入している。また相前後して西からはハウサ族,南からはジュクン族の侵入があり,帝国は次第に衰退していった。そして18世紀には経済の基礎であったサハラ縦断貿易路の支配権を失った。18世紀後半からは次第にフラニ王国の力が浸透し,ついに1808年王は首都ビルニ・ヌガザルガムから追い出された。その時は辛うじてカネム地方で勢力を保ったものの,46年に王朝は消滅した。
執筆者:井上 兼行
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報