デガスペリ

精選版 日本国語大辞典 「デガスペリ」の意味・読み・例文・類語

デ‐ガスペリ

(Alcide De Gasperi アルチーデ━) イタリア政治家。第二次大戦中反ファシズム運動従事し、キリスト教民主党組織戦後首相として、アメリカ援助により経済復興をはたし、イタリアを西側陣営に組み込んだ。(一八八一‐一九五四

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デジタル大辞泉 「デガスペリ」の意味・読み・例文・類語

デ‐ガスペリ(Alcide De Gasperi)

[1881~1954]イタリアの政治家。第二次大戦中は反ファシズム運動に従事。戦後はキリスト教民主党党首として、1945~1953年に首相。マーシャルプランを支持し、対米協調につとめた。

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改訂新版 世界大百科事典 「デガスペリ」の意味・わかりやすい解説

デ・ガスペリ
Alcide De Gasperi
生没年:1881-1954

イタリアの政治家。キリスト教民主党(DC)を創設し,1945-53年首相を務め,戦後のイタリア政治の方向を決定した。オーストリア・ハンガリー二重帝国治下のトレンティノに生まれ,ウィーン大学で学んだのち,カトリック社会運動に参加,1911年にはトレント人民党より帝国議会に選出された。第1次大戦後トレンティノがイタリアに併合されるとストゥルツォの率いるイタリア人民党に入党し,21年下院議員に当選,党議員団長となった。ファシズムには当初反対していたが,22年のローマ進軍以後は人民党のムッソリーニ内閣への入閣を推進した。しかし24年党書記長となるにおよんで親ファッショの姿勢は消え,マッテオッティ暗殺事件以降は活発な反ファシズム活動を展開し,教皇庁の反対で実現しなかったものの,トゥラーティらの統一社会党との連立を提起するまでになった。26年ファシストの独裁完成後は公職を退いたが,彼らの執拗な追及を受け,翌27年密出国容疑で逮捕,投獄された。釈放後29年よりバチカン図書館職員となり,教皇庁の庇護下にファシスト体制崩壊までの日々を過ごした。

 42年イタリア軍の敗色が濃くなると,ひそかに旧人民党員や反ファシスト・カトリック・グループとの接触を開始し,翌43年にはその中から生まれたDCの事実上の党首となった。ファシスト体制崩壊後の44年,第1次ボノーミ内閣に入閣,45年には社共両党の入閣する6党連立内閣の首相となり,史上初のカトリック政権が誕生した。46年の体制選択の国民投票でもバチカンの意にそむいて共和制を支持し,社共との協力を維持した。しかし47年の訪米以後は西側陣営への参加を明確にするとともに,3党協力体制にも終止符を打った。

 DCは48年総選挙で単独過半数を獲得,以来デ・ガスペリは53年まで連続4期政権を担当した。彼は政治面では自由,共和両党との中道連立を採択し,経済面ではL.エイナウディの均衡財政論を採択したが,1950年の農地改革と南部開発公庫設立以外には積極的な社会改革を行わなかった。そのため社会的緊張が高まるとともに左右対立も激化し,DC票は右翼から侵食され始めた。53年事態打開のため彼は過半数票を得た政党が全議席の2/3を得るという新選挙法(通称〈ぺてん法〉)を成立させ総選挙に臨んだが失敗,第8次内閣の信任も拒否された。党内でもすでに彼の基盤は失われ,社会党との中道左派連立政権の樹立,経済への強力な国家介入に基づく社会改革,党組織およびその財政基盤の確立を説くファンファーニらの左派に実権は移行していた。こうして54年ファンファーニが書記長となるとまもなく世を去った。
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