デニソン(その他表記)Denison, Henry Willard

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「デニソン」の意味・わかりやすい解説

デニソン
Denison, Henry Willard

[生]1846.5.11. バーモント,ギルドホール
[没]1914.7.3. 東京,築地
外交官,法律家。 1872年来日,アメリカの横浜副領事として在勤した。 80年5月1日日本の外務省法律顧問となった。以後,1913年にいたる 34年間,日本外交の発展に尽した。外務省御雇外国人として彼は,アメリカ人でありながら,条約改正,日清戦争,日露戦争という明治外交の枢機に参画し,外務省顧問として,終始日本外交に貢献した。下関講和会議に外務大臣陸奥宗光を助け,日露開戦の外交文書を作成した。それらの外交文書の主張は国際世論を日本に好意的に導くのに役立った。また,外務省顧問の職責を果したのみならず,幣原喜重郎など後年霞ヶ関の中心となった人材の養成にも力を尽した。概してデニソンは外務省内で高い評価を得て,その死の直前,勲一等旭日桐花大綬章を贈られた。それは助言者としての職分に徹した彼の性格によるところが大きかったといえる。

デニソン
Denison

アメリカ合衆国,テキサス州北東部の都市。バタフィールド駅馬車線の宿場であったが,1872年ミズーリ・カンサス・テキサス鉄道の分岐点になった。農業が中心で,軽工業も行われる。 D.アイゼンハワー大統領の生地である。人口2万 1505 (1990) 。

デニソン
Denison, Edward

[生]1840
[没]1870
イギリスの慈善事業家。 1867年ロンドンのイーストエンド学校を創設して労働者教育尽力。 68年下院議員。 69年慈善救済事業組織協会の委員就任

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改訂新版 世界大百科事典 「デニソン」の意味・わかりやすい解説

デニソン
Edward Denison
生没年:1840-70

イギリスの慈善事業家。オックスフォード大卒。ラスキンらの影響で貧困問題に関心をもち,1867年慈善事業団体に加わり,ロンドンのイースト・エンドのスラム地区に居住して活動した。施与のみでは貧困は解決しないとして,教育環境と教育の改善の必要を説き,その方法として教養人のスラム地区に移住することを提起した。その実践を含めセツルメントの先駆と評価される。COS(コス)(慈善組織協会)の創立にも参加。68年,下院議員当選。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「デニソン」の解説

デニソン Denison, Henry Willard

1846-1914 アメリカの外交官。
1846年5月11日生まれ。明治2年(1869)来日し,横浜米国領事裁判所判事をへて副領事となる。のち退官して13年から大正3年まで外務省御雇外国人として,万国公法副顧問,法律顧問を歴任。条約改正,日清戦争,日英同盟,日露戦争の際,外交文書の起草などに従事した。大正3年7月3日東京で死去。68歳。バーモント州出身。

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367日誕生日大事典 「デニソン」の解説

デニソン

生年月日:1846年5月11日
アメリカの外交官
1914年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のデニソンの言及

【セツルメント】より

…セツルメントとは,もともとは知識人がスラムに住み込むsettleという語意であり,日本では隣保事業という場合もある。ソーシャル・セツルメントの考え方を最初に明らかにしたのはE.デニソンといわれている。彼は19世紀後半の慈善・博愛事業が金品を供与して貧民救済をしていることの弊害を批判した。…

※「デニソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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