改訂新版 世界大百科事典 「労働者教育」の意味・わかりやすい解説
労働者教育 (ろうどうしゃきょういく)
労働者を対象とする教育活動の総称。資本主義の発達と労働運動の発展を反映し,その主体と性格を異にする教育活動が組織されてきており,おおよそ三つの形態に分けられる。(1)市民啓蒙家や公的機関による啓蒙教育の流れ。産業革命期の,無知からの解放による貧困と道徳的退廃の克服を説く教育活動から,現在の労働,福祉,教育などの諸分野にわたって基礎的な知識を与える公的機関の教育活動までをあげることができる。(2)生産性向上と利潤増大をはかるため資本家,使用者によって組織されるもの。内容は技術の訓練・向上,必要な知識の修得,職場秩序の形成などで,労働者の自発的な労働意欲を高めつつ行われる現代の精妙な労務管理もここに位置づけられる。(3)労働者自身が生活と権利の擁護と労働条件の改善のために労働問題や社会問題の学習を組織するもの。これは,自己教育運動の形態をとる。これらは発生する労働問題の性格や運動の発展状況などとのかかわりで相互に影響を与えながら展開してきた。
(1)の形態は第2次大戦中までの日本にみられた細民対策としての思想善導のような例ばかりでなく,イギリスのセツルメント運動のように,労働運動の発展を反映して労働者に科学的な社会認識を与え,その自己教育運動の展開を支えてみずからの階級調和的な運動の性格を超えた例もある。(2)は労働者の権利意識の高まりの下では,利潤追求のための生産性向上も矛盾や摩擦の顕在化を回避しつつすすめられ,労働者の自己啓発や技術習得,経営参加の要求にこたえた学習活動がとり入れられてくる。しかし,その反面,労働〈合理化〉が精神障害などの人格的危機をもたらす矛盾から,その克服のための新しい学習要求も生まれている。(3)では,その公的保障をめぐって緊張をはらんだ問題がある。現代人権思想の発展の下で,自己教育運動の社会教育的意義をとらえて公的な援助や行政への参加を保障する原理は,日本の社会教育法にも定着しているが,イギリスの成人教育規定(1924)が〈補助すれど支配せずsupport but not control〉をかかげながら,〈市民精神の涵養〉をうたって一部の独立労働者教育運動団体を国庫補助の対象としないという矛盾は現代にも続いている。しかし,近年国際的に労働者の有給教育訓練休暇の制度化がすすむなかで,その教育活動を労働組合が担う事例がフランスやイタリアを中心として展開され,労働者の自己教育運動はみずからの手で公的保障のあり方を定める力をもちつつある。また,イギリスでも一般教養liberal educationを主要な内容とする伝統的な成人教育adult educationは時代の要請に即して技術的・職業的な教育・学習をふくむ〈成人の教育education of adult〉としてあらたな発展をめざすべきだとする主張が高まっており,労働者教育の公共的保障は現代的課題となっている。
日本でも労働者教育は労働運動,社会主義運動の発展とともに始まる。1911年鈴木文治が東京三田のユニテリアン教会で月1回通俗学術講習会を開催,翌年その聴講者を中心に組織された友愛会東京連合会が1920年11月に設立した東京労働講習所が,学校方式による労働者教育の始まりである。月島労働講習所の趣意書(1921)にもあるように,労働学校は労働者自身の経験や問題意識に立って開設され,これに知識人が協力するという方式をとることが多かった。21年に労働者教育協会設立,日本労働学校開校,翌22年には賀川豊彦の《死線を越えて》の印税で大阪労働学校が開設された。また農民運動との関係では,26年新潟県木崎村の無産農民学校などがある。これらの学校はその背景にあった労働運動の停滞とともに消滅し,また戦時体制下そのような教育活動は弾圧された。第2次大戦後,労働組合が公然と組織され,その日常活動や運動そのものが教育的役割をもち,また文化部などがサークル活動の促進,講座の開設など,とりたてて教育活動を組織するようになった。
以上の教育活動は先にあげた三つの形態のうちの(3)が主であり,このなかに(1)の啓蒙教育的色彩もみられる。(2)の資本家・使用者による教育はふつう企業内で行われる。明治前期には欧米の技術導入のため企業内で技術指導が行われ,1910年代以降,熟練工養成の体系化がすすんだが,それらは官営あるいは大規模な民営の企業に限られ,大多数の労働者は高度な技術習得の機会を持てなかった。39年には軍事上の要求から青年学校の義務制が実施されるとともに工場事業場技能者養成令が公布され,企業内に青年学校が設けられた。第2次大戦後には,労働基準法にもとづく技能者養成規程(1948)や職業訓練法(1958)の制定により,企業内の職業訓練が制度化された(〈職業訓練校〉の項参照。なお,職業訓練法は85年の全面改正にともない〈職業能力開発促進法〉と改称した)。1950年代後半以降,企業側の生産性向上運動により,新入社員教育をはじめ技能者,監督者,中堅管理者,幹部などそれぞれの階層・職能別に必要な訓練が行われるようになり,それを通じて労務管理の強化がすすんだ。しかし,労働者教育にとって今後の課題は,狭い精神教育ではなく,また当面必要な職業上の訓練に限るのではなく,生涯学習の観点から将来の生活に役だつ文化活動の充実であると思われる。
執筆者:島田 修一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報