デュボイス
でゅぼいす
William Edward Burghardt DuBois
(1868―1963)
アメリカの思想家、歴史家、社会学者、黒人解放運動家。2月23日、マサチューセッツ州に生まれる。ハーバード大学で歴史と社会学を専攻、ドイツ留学を経て1895年、同大学史学科から黒人として初めて博士号を得る。黒人の歴史と現状の実証的研究に基づいて社会改革を進めることを志し、学問的に先駆的で貴重な成果を生み出したばかりでなく、近代黒人解放運動における思想的指導者、実践家として大きな足跡を残した。1905年アメリカ黒人の市民権確立を目ざして組織されたナイアガラ運動から出発し、全国黒人向上協会の創設、発展に貢献、1919年にはアフリカの自立を目ざす汎(はん)アフリカン運動を組織し、第二次世界大戦後は冷戦に抗して平和運動に尽力した。1910年代から社会主義への関心を深め、アメリカにおける民族と階級の問題にも理論的に貢献し、1961年に共産党に入党、1963年8月27日にガーナで95年の生涯を閉じた。1936年(昭和11)末に来日しており、代表的著作の一つ『黒人の魂』も邦訳されている。
[中村雅子]
『木島始・鮫島重俊・黄寅秀訳『黒人のたましい』(1965/新装版・2006・未来社)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
デュ・ボイス
William Edward Burghardt Du Bois
生没年:1868-1963
混血のアメリカ黒人運動指導者。ハーバード大学卒業後,アトランタ大学教授(1897-1910,32-44)。この間ナイアガラ運動(1905),全米黒人地位向上協会(NAACP)の創立(1909)に参加,黒人の解放とその地位向上に献身。また1900-45年に6回開催されたパン・アフリカ会議を指導し,パン・アフリカニズムの父と呼ばれた。第2次大戦後は平和運動にも強い関心を示し,50年平和情報センター議長に就任。61年アメリカ共産党に入党したが,同年エンクルマ大統領の招きでガーナへ渡り,ガーナ市民として没した。著書は《黒人のたましい》(1903。邦訳1965)ほか。
執筆者:小田 英郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
デュボイス
William Edward Burghardt Du Bois
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のデュボイスの言及
【黒人問題】より
…1867年に最初の黒人大学ハワード大学がワシントンD.C.に創立されて以来,各地に黒人のための大学が生まれ,それらの卒業生が中産階級を築き上げるとともに,19世紀末から第1次大戦へかけて,多くの指導者を育て上げた。タスキーギー大学の創立者で,白人との協調を説いた[B.T.ワシントン]や,彼の説にあきたらず,より理論的に人種の平等を叫んだ[デュ・ボイス]は,その代表的な存在である。白人リベラルの呼びかけに応じて黒人指導者も参加し,最初の公民権団体ともいうべき全米黒人地位向上協会(NAACP)が創設されたのもこの時期である。…
【パン・アフリカニズム】より
…一般にこの会議の意義は,初めてアフリカ(系)人国際主義を組織化したこと,パン・アフリカという言葉を世に知らせたことなどであるとされているが,ビクトリア女王から〈アフリカにおける原住民諸人種の利益と福祉を無視しない〉との約束を得たことも注目されてよい。その後しばらく運動は低迷したが,第1次世界大戦終結直後の19年にアメリカ合衆国の黒人運動家[デュ・ボイス]がパリでパン・アフリカ会議Pan‐African Congressを開催した。会議はドイツ領アフリカを国際管理のもとに置くこと,アフリカ人に対する国際的保護の法制度化,アフリカ植民地における漸進的・段階的自治の推進,天然資源の涸渇防止,アフリカ人に対する教育の普及などを求める決議を採択し,これを契機に運動は再び活発化した。…
※「デュボイス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」