カリブ海で2番目に大きいイスパニョーラ島の東3分の2を占める国で、島の西側はハイチ。人口は約1千万人(2017年推定)。スペイン語を公用語とし、首都はサントドミンゴ。砂糖やニッケル、観光が主な外貨獲得源。温暖な気候で、ハリケーンの通り道になりやすい。野球の強豪国としても知られる。カリブ海を挟んで東にあるドミニカは、英語を公用語とする別の国。(共同)
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カリブ海域の北側をとりまく大アンティル諸島にあり、キューバ島に次いで2番目に大きいイスパニョーラ(エスパニョーラ)島の東側3分の2を占める亜熱帯の国。島全体の、起伏が激しく、山の多い複雑な地形をしていて、島の西側の3分の1を占めるハイチとは山岳地帯で国境を接する。国土の面積は九州全体と高知県を合わせたほどの4万8671平方キロメートル(2020)で、人口935万4000(2006年推計)、1002万(2011年推計)が暮らす。首都サント・ドミンゴを中心とする首都圏人口は約200万(2010年推計)である。
[国本伊代]
海底が隆起して形成されたイスパニョーラ島の地形は、急峻(きゅうしゅん)な山脈と山地、その間に広がる山間盆地や河谷、海岸に迫った山脈とそれに沿った狭い海岸平地、開けた東部平原地帯からなり、地形は非常に複雑である。島の約4分の3を占める山地では、北西から南東へ走る中央山脈がドミニカ側で国土の中央部にまで達し、イスパニョーラ島の最高峰ドゥアルテ山(標高3175メートル)がそびえている。この中央山脈に並行するようにその北方に北部山脈が、南方にはネイバ山脈とバオルコ山脈が走っている。そして国土の北東部にオリエンタル山脈があり、いずれの山脈も北西から南東へと続く。中央山脈と北部山脈の間に位置するヤケデルノルテ川沿いのシバオ平原とユナ川沿いのベガレアル平原は、肥沃(ひよく)な農業地帯となっている。南西部のネイバ山脈とバオルコ山脈の間の断層谷に位置するエンリキリョ湖は、海面下46メートルの塩湖である。島の南東部のセイボ平原はイスパニョーラ島最大の平地で、多くの河川が南北に流れ、サトウキビ畑と牧場が広がっている。
気候は亜熱帯海洋性気候に属するが、山地が多く、変化に富む地形のために、地域によって湿潤多雨気候から乾燥地帯まで存在する。しかし全般的に冬には北西から、夏には南東からの貿易風が吹き、その影響を受けて年平均気温は26~30℃で、しのぎやすい。1年は雨期と乾期に分かれているが、北部の雨期は12~4月、南部の雨期は5~11月と異なる。年間平均降水量は1400ミリメートルであるが、雨量がもっとも多い中央山脈の南斜面では3000ミリメートルを超える。全般的に降水量は北東部で多いが、他方で貿易風の山かげになる地域や北西部は500ミリメートル以下の乾燥気候で、サバナ特有の灌木(かんぼく)が点在する草原となっており、農業には灌漑(かんがい)が不可欠である。8月から10月にかけて熱帯低気圧やハリケーンが襲来し、大きな被害を受ける。1930年に首都サント・ドミンゴをはじめとする各地がハリケーンのために潰滅的な被害を受け、2004年5月の豪雨では洪水と土砂崩れで多数の死者を出した。
[国本伊代]
イスパニョーラ島は、1492年12月にコロンブスがその第一次航海で到着した西半球で最初の島であり、スペイン人が最初に植民事業を始めた地である。1496年にコロンブスの弟バルトロメ・コロンBartholomew Columbusが建設したサント・ドミンゴの前身ヌエバ・イサベラは、スペイン人の関心が大陸部のメキシコやペルーに移るまで「新大陸」における植民地経営の拠点となったが、それはまた先住民(アラワク人とカリブ人)にとっては悲劇の歴史の始まりであった。
エル・ドラド(黄金郷)を求めてこの地に渡ってきたスペイン人たちは、砂金採掘(シバオ金山地区)や農園の労働力として先住民を酷使し、加えて栄養失調やヨーロッパからもち込まれた未体験の疫病のために、最初の半世紀間に数十万から100万人とも推定された先住民の人口が激減した。砂金が枯渇したのち、16世紀初めにサトウキビ・プランテーションがサント・ドミンゴの周辺で開かれ、激減した先住民にかわる労働力としてアフリカから黒人奴隷の輸入が始まった。しかしスペイン植民地の財宝をねらうヨーロッパ諸国の海賊によってつねに襲撃の対象となり、島の西側は1697年のライスワイク条約でフランス植民地サン・ドマングとなり、さらに1795年には東側の領有権もスペインはフランスに割譲した。その後、1804年に中南米(ラテンアメリカ)諸国で最初の独立国家なったサン・ドマングは国名をハイチと変え、島全体を支配下に収めた。それに抵抗した旧スペイン領サント・ドミンゴは1821年に独立を宣言したものの、翌1822年ハイチに制圧され、以後22年間ハイチ占領時代が続いた。1844年に建国の英雄F・ロサリオ、R・メジャ、J・P・ドゥアルテJuan Pablo Duarte(1813―1876)らが率いる独立運動によってハイチから独立を達成したが、1861年にスペインに併合され、1865年に再度独立した。しかし、このたびの独立後も独裁政権、政争による混乱、財政の窮乏、欧米諸国から借り入れた債務の累積など深刻な問題を抱え、ヨーロッパ債権国の軍事介入を恐れたアメリカが1905年にドミニカ共和国政府にかわって関税徴収の管理権と債務返済の調整を行うことで、実質的にアメリカの保護国となった。さらに第一次世界大戦中のドイツの影響と混迷する内政を懸念したアメリカは、1916年に国内秩序回復のために海兵隊を派遣して、1924年まで軍事占領を続けた。
アメリカ軍の撤退を契機に設置された国家警備隊の司令官を務めたR・L・トルヒーヨ(トルヒーリョ)Rafael Leonidas Trujillo(1891―1961)が1930年に大統領となり、その後1961年に暗殺されるまでトルヒーヨ一族が独裁体制を保持した。この間の政治的安定の下で一定の経済成長と社会開発が進んだが、首都サント・ドミンゴをトルヒーヨと改名し、国内最高峰のドゥアルテ山をトルヒーヨ山と変更したことで知られるように、典型的な個人崇拝を基調とした独裁体制は、同時に反政府勢力への徹底的な弾圧とアメリカ資本への従属およびトルヒーヨ一族への富の集中などによって、社会的不満を蓄積させた。1959年には革命直後のキューバから侵攻したドミニカ人革命ゲリラ部隊が失敗して殲滅(せんめつ)され、トルヒーヨがベネズエラの大統領ロムロ・ベタンクール暗殺を命じたことから、1960年に米州機構(OAS)の総会で独裁者トルヒーヨへの非難決議が採択されるなど、反トルヒーヨ運動の気運が高まり、1961年にトルヒーヨは暗殺された。
その後の1962年に行われた大統領選挙で政権の座についた左派のドミニカ革命党(PRD)のフアン・ボッシュJuan Emilio Bosch Gaviño(1909―2001)は、1962年に新憲法を制定して農地改革をはじめとする一連の改革に着手した。しかし改革派に反対する勢力と軍部によるクーデターでボッシュは国外に追放され、政情不安は1965年に内戦へと発展した。この状況に対してドミニカが第二の社会主義国キューバとなることを恐れたアメリカは軍隊を派遣し、米州機構の平和軍の駐屯とともに秩序回復を図った。そして1966年に大統領に選出されたホアキン・バラゲルJoaquín Antonio Balaguer Ricardo(1906―2002)は、1978年まで3期12年間政権を握り、経済・社会の改革と民主化に取り組んだものの、反共産主義と対米依存の強い政治・経済構造をつくりあげ、その後さらに1986、1990、1994年の大統領選挙で連続当選した。これらの選挙では不正が糾弾されたが、最後の任期は88歳という高齢と目の不自由さなどから2年で引退した。その結果を受けて1996年に実施された大統領選挙は決戦投票にまでもつれ込んだが、中道左派のドミニカ解放党(PLD)のL・フェルナンデスLeonel Antonio Fernández Reyna(1953― )が大統領に選出された。それ以降は、1998年の総選挙でドミニカ革命党(PRD)が上下両院で圧勝したのち、2000年の大統領選挙でもH・メヒアHipólito Mejía(1941― )を当選させた。2004年の大統領選挙では中道左派の路線をとるPLDの元大統領フェルナンデスが政権復帰を果たし、2006年の総選挙においてもPLDが圧勝した。さらに2008年の大統領選挙でフェルナンデスは連続当選を果たした。このように1996年以降は二大政党(PLDとPRD)による政権交代が行われている。
[国本伊代]
政体は共和体制で、国家元首は国民の直接投票で選出される大統領である。任期は4年。2009年の憲法改正によって連続再選が禁じられている。議会は31県と首都からそれぞれ1名選出される32議席の上院と150議席の下院の二院制で構成され、上下両院とも任期は4年である。政党はドミニカ解放党(PLD)とドミニカ革命党(PRD)の二大政党のほかに、キリスト教社会改革党(PRSC)などがある。
外交姿勢は、歴史的経緯から緊密な対米外交を基軸とし、ヨーロッパ連合(EU)との協調関係も重視しているが、台湾と外交関係を維持しているほか、2007年には北朝鮮と国交を樹立した。バラゲル政権時代以降、人道的配慮から政治亡命者を比較的寛大に受け入れてきたことでも知られ、大統領のフェルナンデスは2009年にキューバを訪問し、親米一辺倒ではない外交姿勢を示している。しかし隣国ハイチとの関係は、ハイチ人の不法滞在問題をはじめ国境問題もあり、複雑である。2009年の憲法改正では、不法滞在者の子供の国籍を認めないことが盛り込まれた。
[国本伊代]
主要産業は農業、観光、軽工業であるが、伝統的に労働人口および輸出総額のほぼ半分を占めてきた農業におけるコーヒー、砂糖、カカオ、バナナ、タバコなどを主要輸出産品とする産業構造は1990年代から急速に変化した。農林水産業部門が国内総生産(GDP)に占める割合は、1960年の33%から1990年の17%、2010年には6%にまで低下し、かつて輸出総額の半分近くを占めていた砂糖、コーヒー、ココア、タバコなどの主要な伝統的農産物は2010年には輸出総額の10%以下となった。一方、比較的恵まれた鉱物資源の輸出が近年伸び、金、銀、銅、ニッケルが重要な輸出産品となりはじめている。加えて、外国資本によって開発されている観光産業および保税加工地区(関税を払わずに加工・製造し、外国に積み戻しができる地区)における外国企業が重要な外貨獲得源となっている。2009年の統計でみると、貿易相手国は輸入の56%がアメリカ、23%がベネズエラであったが、輸出は第1位の13%がアメリカ向けで特定の国に依存していなかった。1990年以降の自由主義経済政策によって保税加工地区で生産される繊維などの軽工業製品の輸出が拡大し、2007年3月にはアメリカと中米・ドミニカ共和国自由貿易協定が発効し、産業構造に占める工業の割合は2010年にはGDPの32%に達した。通貨はペソ(DOP)。
[国本伊代]
住民の大部分をムラートとよばれるヨーロッパ系人(白人)とアフリカ系人(黒人)の混血が占め、純粋なヨーロッパ系人とアフリカ系人はそれぞれ十数パーセントであり、そのほかにアラブ系、ユダヤ系、アジア系、その混血など、少数ながら多様な人種からなる多民族・多文化社会が成り立っている。経済格差の大きな階層社会は極貧状態で暮らす国民の半数を占める貧困層を出現させ、アメリカへの出稼ぎ移住も総人口の2割を超える。
初等教育6年、中等教育2年が義務教育で、2010年の統計でみると平均就学年数は7.2年。15歳以上の人口の識字率は88.2%(2010)であった。またサント・ドミンゴ自治大学は1538年に創設された南北両アメリカ大陸最古の大学である。スペイン文化の影響は、公用語としてのスペイン語、国民の過半数が信徒であるカトリック信仰、植民地時代の面影を伝えるユネスコの世界遺産に「サント・ドミンゴ植民都市」として登録された首都サント・ドミンゴの歴史的建造物などにみられるが、経済および文化の面ではアメリカ文化の影響が強い。とくに国民的スポーツである野球は、アメリカの大リーグのみならず日本の野球界にも人材を送り出している。一方、音楽にみられるように伝統的なメレンゲに加え、ジャズやロックが人々の心をとらえ、スペイン、アフリカ、アメリカ文化の諸要素が一体となった独特のドミニカ文化をつくりだしている。
[国本伊代]
日本とドミニカ共和国は1934年(昭和9)に国交樹立。第二次世界大戦で一時国交を断絶したが、1952年(昭和27)に復活し、ドミニカ共和国は第二次世界大戦後に日本人移民を受け入れた数少ない国の一つとなった。トルヒーヨ独裁政権時代の1956年に日本政府との間で移住協定が締結され、1959年までに249家族1319人が集団移住地に入植した。しかし設定された移住地の土地問題と大統領トルヒーヨの暗殺後の政情不安などから、多数の移住者が日本に帰国するかブラジルなどに転住した。さらにこの失敗に終わったドミニカ共和国移住は日本政府の責任を追及する移住者170名が原告となって日本政府に総額31億円の損害賠償を求める訴訟へと発展した。そして2006年(平成18)の首相小泉純一郎の「特別一時金支給」和解案と謝罪談話によって原告側は訴訟を取り下げた。2012年時点では少数の日本人とその子孫が日系社会を形成しており、両国を結ぶ重要な絆(きずな)となっている。貿易関係では日本からの自動車をはじめとする工業製品の輸入が日本への輸出を大幅に超えている。日本の援助政策は資金供与から人材の研修プログラムまで幅広く実施されている。
[国本伊代]
『エリック・ウィリアムズ著、川北稔訳『コロンブスからカストロまで――カリブ海域史、1492~1969(Ⅰ、Ⅱ)』(1978・岩波書店)』▽『加茂雄三著『地中海からカリブ海へ』(1996・平凡社)』
基本情報
正式名称=ドミニカ共和国República Dominicana
面積=4万8671km2
人口(2010)=988万人
首都=サント・ドミンゴSanto Domingo(日本との時差=-14時間)
主要言語=スペイン語
通貨=ペソPeso
カリブ海に浮かぶアンティル諸島の中央にあるイスパニオラ島の東部3分の2を占める共和国で,西はハイチと隣接している。1821年にスペインから独立してまもなく,ハイチ人の侵入を受けたが,44年ハイチ人を追放してドミニカ共和国を建設した。この地域の独立国としては,ハイチに次いで古い。日本とは第2次世界大戦中に国交を断絶したあと,1952年6月に再開した。
北西から南東に向かってセントラル山脈が横切り,その最高峰は西インド諸島でも最も高いドゥアルテ山(標高3175m)。また同山脈のすそ野に広がるシバオ地区と呼ばれるベガ・レアル盆地は,同国では最も肥沃な農業地帯であると同時に,小都市が散在している地域でもある。気候は亜熱帯海洋性。行政区域は,首都圏と26州に分かれている。
住民は白人16%,黒人11%,混血73%という割合で,混血が圧倒的に多い。こうした人種構成はプエルト・リコやキューバなどの旧スペイン植民地に共通したもので,黒人の比率が高い旧フランス領や旧イギリス領のカリブ海植民地の人種構成とは好対照をなしている。また宗教面でも旧スペイン領植民地型の典型としてカトリック教徒が95%を占め,そのほかに少数のプロテスタント,ユダヤ教徒がいる。教育面では1538年に西半球で最初に大学が設立され,識字率は87.7%(2003)である。
1844年の建国以来共和制をとり,元首は大統領で任期4年。国会は上下両院制。上院の定数は30名,下院は120名で,任期はいずれも4年である。政治動向については後出[歴史]の項を参照されたい。
大土地所有制度に基礎を置いた農業国。農村人口は全人口の70%を占めるが,約12%の大地主が77%の耕地を所有している。おもな農産物は砂糖,バナナ,コーヒー,ココア,米,タバコなどで,このうち砂糖の輸出額は全体の約20%を占めている。大製糖企業12はアメリカ系企業であり,この中には世界最大を誇るリオ・アイナ製糖工場がある。農業に比べ工業の発展は遅れているが,フェロニッケル,ボーキサイトや鉄鉱石の鉱物資源に恵まれ,鉱業の開発が今後の課題とされている。貿易は95%をアメリカに依存しているので,この国の経済や政治の動向についてはアメリカの影響を無視しては語れない。
イスパニオラ島は1492年12月5日,コロンブスによって〈発見〉された。96年弟のバルトロメ・コロンによって,南部のオサマ川の河口にサント・ドミンゴが建設され,この町は新大陸では最古の都市となった。またスペインの最初の植民地として,本国スペインの行政・経済制度や宗教が導入され,とりわけエンコミエンダ制度によって先住民を金鉱採掘に酷使した結果,1492年の発見当時60万人いたタイーノ,ルカーヨ,シグアイ,カリブなどの先住民は,1519年には3000人に激減してしまった。
金鉱脈の枯渇に伴い,1506年新大陸では最初にサトウキビ栽培が開始され,先住民労働力に代わるアフリカ黒人奴隷の輸入も新大陸では最初に実施されることになり,現在の製糖業の基盤が早くも16世紀初めに確立された。17世紀の初めころからバカニアと呼ばれる海賊たちが島の西部に定住しはじめた。1697年,スペインはリスウィック条約によって西部をフランスに割譲することになり,同島はサント・ドミンゴとサン・ドマングの二つの植民地に分かれた。1821年,サント・ドミンゴはスペインからの分離を宣言したが,まもなくフランスから独立したハイチの侵入を受け,ハイチ人による占領が44年まで続いた。しかし同年,ドゥアルテJuan Pablo Duarte(1813-76)の指導する革命運動によってハイチ人が駆逐され,ドミニカ共和国が建設されたのである。62年にはラテン・アメリカ再征服を企図するスペインの支配下に置かれたが,65年に民衆の武装蜂起によってスペイン軍が撃退され,再び共和制に復帰した。
20世紀に入ると,ドミニカ共和国を資本・商品輸出市場とするアメリカが権益を保護する口実で1916年に海兵隊を派遣し,その占領が24年まで続いた。そして30年から61年まで,アメリカ海兵隊の支援を得たトルヒーヨ大統領の独裁体制が敷かれた。同大統領が暗殺されると62年に30年ぶりに大統領選挙が行われ,ドミニカ革命党のフアン・ボシュが選出されたが,1年足らずで軍事クーデタで倒された。65年には,1963年憲法の復活をかかげたフランシスコ・カアマーニョの指導下で民衆が蜂起し,左右両派の内戦となったが,米州機構と国連の調停によってガルシア・ゴドイの暫定政権が成立した。そして65年以降,憲法に基づく大統領選挙が実施されている。その結果,66年にはキリスト教社会改革党のバラゲールJoaquín Balaguer(1907-2002)が当選し,以後3期にわたって大統領を務めたが,78年の選挙ではドミニカ革命党のアントニオ・グスマンに敗れた。以後8年間,ドミニカ革命党政権が続いたが,86年の大統領選挙でキリスト教社会改革党のバラゲールが返り咲き,90年の選挙にも勝った。95年の選挙ではドミニカ解放党のレオノール・フェルナンデスが当選し,かつてトルヒーヨの財産没収後国有になった企業の民営化を中心とする新自由主義政策を進めている。
執筆者:神代 修
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カリブ海エスパニョラ島の東部3分の2を占める共和国。ハイチ共和国の独立後,しばしばその政治的干渉を受け,1844年独立したが,隣国の脅威から61~65年にはスペイン領に復帰。再独立後アメリカの保護領となろうとしたが拒まれた。82~99年のウリセス・ウロの独裁,1930~61年のラファエル・トルヒリョの独裁は,強権による抑圧の反面,ある程度の近代化をなしとげたが,60年代以後も軍部の圧力を背景とした強権政治が止まらなかった。66~78年,86~96年のホアキン・バラゲール大統領が,比較的安定した政治基盤のもとに経済の回復に努めた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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