イギリスの詩人,劇作家,批評家。新教徒の家庭に生まれ,ケンブリッジ大学を卒業。若き詩才をたのみに,最初はO.クロムウェルを賛美し,政変(王政復古)後はたちどころにチャールズ2世にへつらうなど,その行動は無節操のそしりをまぬがれなかった。しかしその後の思想と行動は一貫しており,年とともに政治的には保守主義,宗教的にはローマ・カトリックへ傾斜していった。詩,劇,批評という三つの分野にまたがった彼の大きな足跡を思えば,英文学史上17世紀後半を総称して〈ドライデンの時代〉と呼ぶ習慣は,まことにもっともである。それは理性と秩序を重んじる時代であり,詩的表現様式としては冷徹にして整然たる英雄対韻句(ヒロイック・カプレット)が支配的になっていく。同時にこの種の詩的武器でもって,同時代の社会と政治に積極的に参加(アンガジェ)していく文学でもあった。この特質は次の〈ポープの時代〉に継承発展させられ,総合して〈オーガスタン〉と呼ばれる英文学史上の時代を画することになる。
ドライデンはみごとな対韻句を駆使して《アブサロムとアキトフェル》(1681),《マクフレクノー》(1682)などの風刺詩を書き,同時代の政治や文壇の愚行(と彼が信じたもの)に鋭い鞭を加えた。また,時代にとっても彼個人にとっても重要であった信仰の問題を,《平信徒の宗教》(1682),《牝鹿と豹(ひよう)》(1687)で扱い,彼自身のカトリックへの回心の道筋をはっきり示している。劇作家としては《当世風結婚》(1672)などの喜劇も書いて〈王政復古期喜劇(レストレーション・コメディ)〉の一翼をになったが,本領はやはり朗々たる対韻句を駆使した英雄悲劇,《グラナダ攻略》(1670),《オーレング・ゼーブ》(1675)などであったろう。しかしやがてもっと自由な無韻詩(ブランク・バース)を用いて,《すべては恋のために》(1677)を書いた。これはシェークスピアの《アントニーとクレオパトラ》を厳密な〈三統一の法則〉を守って書きなおした,新古典主義の代表作である。詩や劇の批評においても〈イギリス批評の父〉と呼ばれるが,その散文は平明冷静にして格調高く,イギリス散文がついに完熟したことを示す。1668年に桂冠詩人に任ぜられたが,88年の再度の政変(名誉革命)でこれを失い,晩年はかならずしも恵まれなかった。しかし総体として彼の生涯は,英文学史上,文筆のみで生計を立てえた最初の実例である。
執筆者:川崎 寿彦
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イギリスの詩人、劇作家、批評家。8月9日、ノーサンプトンの牧師の家に生まれる。ケンブリッジ大学卒業後、1654年にクロムウェル共和政府に仕えた。王政復古のときにチャールズ2世を称賛する『正義の女神の帰還』(1661)を献じ、ロンドン大火と疫病流行、対オランダ戦争を題材とした『驚異の年』(1667)では、歴史上の身近な事件を大胆に虚構化した。社会的には、英国王立協会の特別会員として、言語表現の「数学的明晰(めいせき)さ」を理想とする国語改革委員会に属し、68年に桂冠(けいかん)詩人、70年には王室修史官に任命された。晩年の約10年間は不遇で、おもに翻訳に費やされ、ウェルギリウス、チョーサーなどの近代語訳(1699)が生まれた。政治的、思想的な変革の激しいこの時代に、彼は極端を嫌い、思想と創作の両面で多様な実験を試みながら、時代とともに生き、時代を代表し、イギリス古典主義文学とその理論を確立した。その影響はアジソンやサミュエル・ジョンソン、M・アーノルドを経て、T・S・エリオットの再評価に至るまで、「イギリス文学批評の父」(ジョンソン)にふさわしいものであった。1700年5月1日にロンドンで没し、ウェストミンスター寺院に葬られた。
創作活動の面では、1663年から約20年間は、演劇を中心とする多様な実験が試みられた。王政復古期の流行にあわせた喜劇『当世風の結婚』(1673)、無韻詩(ブランク・バース)の悲劇『すべてを恋に』(1678)、『失楽園』(1667)をオペラ的手法で表現した『無垢(むく)の状態』(1674)などの多彩な作品が発表されたが、人間関係や演劇論の面では論争や確執の多い時期でもあった。『アブサロムとアキトフェル』(1681)から約10年間は、本領とする政治風刺と論争の時期で、傑作『マックフレクノー』(1682)、イングランド教会を弁護する『平信徒の宗教』(1682)、動物寓話(ぐうわ)の形式でカトリックを弁護する『牝鹿(めじか)と豹(ひょう)』(1687)などの詩が書かれた。
批評の面では、序詞や終わり口上、『劇詩論』(1668)などを中心として豊饒(ほうじょう)な知的関心を示し、スウィフトに至る「古代と近代の優劣論争」の流れのなかで、近代の優位を認めながらも、古典やシェークスピアを模範として、国民的自覚にたつ古典主義文学論を展開した。翻訳論や風刺詩論などにみられる強靭(きょうじん)な批評精神は、現代においても、なお高度の水準と説得力を保っている。
[樋渡雅弘]
『加納秀夫訳『世界名詩集大成9 驚異の年』(1959・平凡社)』▽『小津次郎訳『世界文学全集96 劇詩論(抄)』(1940・筑摩書房)』▽『竹友乕雄著『ドライデン』(1938/新版・1980・研究社出版)』
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…王政復古期から18世紀前半にかけて,人間社会の秩序は理性そのものの秩序として意識され,詩は整然たる英雄対韻句によってそれを反映した。ドライデンとポープの時代である。人間はあらためて社会的存在として横のつながりにおいてとらえられ,このつながりの規範からはみ出すものにはきびしい風刺のむちが加えられた。…
… しかし,これをはっきり制度化したのは近世イギリスであって,17世紀後半以来〈ポエット・ローリイットpoet laureate〉と呼ばれて王室の一つの役職となっている。最初に任命されたのは王政復古期の大詩人J.ドライデンであったが,政治と信仰と文筆活動とが離れがたく結びついていた時代で,ローマ・カトリックに改宗したドライデンには政敵が多く,1688年の名誉革命に続く政変のため,その地位を追われた。代わって任命されたのが政敵T.シャドウェルであり,さらにこのあとはN.テート,N.ローと続いた。…
…フランス語の作品では,ラ・ブリュイエールが,ギリシア人テオフラストスの作を模して書いた《人さまざま》(1688)をあげることができる。英文学における風刺の代表者はJ.ドライデンであって,彼の《風刺論》(1693)はsatireの起源,特質などを明確に記した注目すべき論考であるが,彼自身《アブサロムとアキトフェル》(1681)など,優れた風刺詩を書き実践による模範を示した。その後A.ポープの長詩《髪の毛の略奪》(1712),J.スウィフトの散文《ガリバー旅行記》(1726)など,風刺文学の傑作が数多く登場した。…
※「ドライデン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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