ニール(その他表記)Neal, Patricia

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ニール」の意味・わかりやすい解説

ニール
Neal, Patricia

[生]1926.1.20. ケンタッキー,パッカード
[没]2010.8.8. マサチューセッツ,エドガータウン
アメリカ合衆国の映画女優。フルネーム Patsy Louise Neal。イリノイ州エバンストンのノースウェスタン大学で演劇を学び,1946年代役の座を得てニューヨークに移る。翌 1947年アクターズ・スタジオの研究生となり,舞台 "Another Part of the Forest"(1947)でトニー賞を受賞。1948年ワーナー・ブラザーズと契約を結んだ。2作目の映画『摩天楼』The Fountainhead(1949)で知的かつ洗練された女優としての地位を確立すると同時に,主演のゲーリー・クーパーと出会う。のちに自伝の中で,クーパーが生涯において最愛の人だったと告白している。だがクーパーとの関係は共演後まもなく終わりを迎え,1953年人気作家ロアルド・ダールと結婚した(1983年に離婚)。代表作となった『ハッド』Hud(1963)でアカデミー賞主演女優賞を受賞。1965年,重い脳卒中に何度か見舞われ右半身麻痺と言語障害が残ったが,懸命のリハビリテーションにより 2年足らずで奇跡的に回復。復帰作 "The Subject Was Roses"(1968)では再起を危ぶむ声をはねのける堂々たる演技をみせ,再びアカデミー賞にノミネートされた。

ニール
Neill, Stephan Charles

[生]1900.12.31. スコットランドエディンバラ
[没]1984.7.20. イングランド,オックスフォード
イギリス聖公会の神学者,世界教会運動の指導者ケンブリッジ大学に学び,宣教師として 20年間インドで働く (1924~44) 。ティンウェリの主教 (38~44) 。イギリス,カナダ,アメリカにおける福音伝道事業の指導者となって (47~50) ,20世紀における新しい伝道神学の分野を開拓。"History of the Ecumenical Movement" (54) の共同編纂者。 1962年にハンブルク大学伝道学およびエキュメニクスの教授となり,その後,ケニアのナイロビ大学の哲学および宗教学の教授となった。主著"Christian Faith Today" (55) ,"The Unfinished Task" (57) ,"Anglicanism" (58) ,"A History of Christian Missions" (64) 。

ニール
Neale, Edward St. John

[生]?
[没]慶応2(1866).12.11.
イギリスの外交官。幕末,日本に駐在した。もと陸軍軍人で,文久2 (1862) 年4月 29日書記官として着任公使 J.R.オールコックの帰国中は代理公使となった。東禅寺公使館で警備の松本藩士の襲撃にあい (→東禅寺事件 ) ,また生麦事件の処理に尽力した。

ニール
Niall of the Nine Hostages

[生]?
[没]405
古代アイルランドの王 (在位 377?~405) 。西部コンノート地方を中心とする首長で,北部アルスター地方にも勢力をふるった。多数の人質をとって支配したので,「9人の人質のニール王」の通称がある。その子孫はウィ・ニール (ニールの子孫の意) と呼ばれ,11世紀初めまでアード・リー (上王) の地位を独占した。

ニール
Neill, Alexander Sutherland

[生]1883.10.17. キングスムーア
[没]1973.9.24. サフォーク,オルドバラ
イギリスの教育家。エディンバラ大学卒業。精神分析学に基づく児童理解に裏づけられて,児童の要求を徹底的に尊重する自由主義教育を主張した。初めドイツ,そしてオーストリアで実践に着手,次いで 1921年イギリスでサマーヒル・スクールを創設した。主著『問題児』 The Problem Child (1953) 。

ニール
Neale, Edward Vansittart

[生]1810.4.2. バス
[没]1892.9.16. ロンドン
イギリスのキリスト教社会主義者,協同組合運動の指導者。労使の紛争解決のために自足的社会の建設を目指し,あまり成功しなかったが協同組合を若干創設した。1869年協同組合年次大会を推進。協同組合運動に関するパンフレットを多数発行している。

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改訂新版 世界大百科事典 「ニール」の意味・わかりやすい解説

ニール
Alexander Sutherland Neill
生没年:1883-1973

イギリスの教育者。小学校長を父にもつ。エジンバラ大学に学んだ後,小学校教育にたずさわったが,1917年に第1次世界大戦に従軍。戦後国際的な新教育運動が盛り上がるなかで,21年ドイツのドレスデンの自由主義的学校の創設に参加した。25年に帰国,みずから5歳から17歳までの全員寄宿制のサマーヒル学園Summerhill Schoolをつくり,いっさいの干渉を退け子どもの自由と自治を基本とする徹底的な自由主義教育を実践した。彼の理論はS.フロイトらの精神分析学の影響を受け,子どもの自由が,その人格の自立と人類の未来における幸福を保障する唯一の道であると信じた。しかし,学園の教育は〈気まま学校〉とか〈恐るべき学校〉と批難され,サマーヒル学園方式は広く普及しなかった。が,その存在は学校の制度化・管理化が進む時代に教育のあり方を考えるうえで現在でも貴重である。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「ニール」の解説

ニール

没年:1866(1866)
生年:生年不詳
幕末の駐日イギリス代理公使。ハートフォードシア家の出で,マドラス最高裁判所に勤める父の子として生まれる。ポルトガル,スペインの陸軍に入隊。スペイン王宮の勲1等セント・フェルジナンド陸軍勲章を受け,1837年5月退役した。ベルグラード総領事館付き武官となり,41年アレキサンドリアのイギリス副領事,47年ブルガリアのバルナ駐在領事,58年ギリシャのモレア領事,同年ボスニア領事,60年北京駐在イギリス公使館付き書記官に昇任した。文久2(1862)年,駐日公使館付き書記官に任命され,5月15日(6月12日),オールコック公使賜暇帰国中の代理公使として江戸に着任。生麦事件など続出する事件に冷静に対処し,バス勲爵を受けた。<参考文献>金井円編訳『描かれた幕末明治』

(内海孝)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「ニール」の意味・わかりやすい解説

ニール

英国の教育家。スコットランド等の小学校で徹底した自由教育を試み,1921年ドイツで理想の国際学校の創設に参加。1925年英国に帰国してサマーヒル学園をつくる。S.フロイトらの影響を受け,その教育思想の基礎を精神分析学に置く点が特徴。主著《問題の子ども》。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ニール」の解説

ニール Neale, Edward St.John

?-1866 イギリスの外交官。
文久2年駐日公使館付書記官として来日。オールコック公使の帰国中,代理公使をつとめる。同年発生した生麦(なまむぎ)事件では幕府,鹿児島藩との交渉にあたり,3年イギリス艦隊の鹿児島砲撃に参加した。4年離日。

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367日誕生日大事典 「ニール」の解説

ニール

生年月日:1810年4月2日
イギリスのキリスト教社会主義者,協同組合運動の指導者
1892年没

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世界大百科事典(旧版)内のニールの言及

【ナイル[川]】より

…アフリカ大陸北東部,ウガンダとエチオピアの湖や山地から発して,スーダン,エジプトを貫流して地中海に注ぐ全長約6700kmの大河。アラビア語ではニールal‐Nīlと呼ばれる。 ウガンダのビクトリア湖から流れ出た直後,ビクトリア・ナイルと呼ばれる流れはスーダン南部の大沼沢地を抜け,いくつかの流れを集めて白ナイルal‐Nīl al‐Abyaḍとなる。…

【ニライカナイ】より

…神々が来訪してこの世の人々を祝福する儀礼や伝承は南島各地にみられ,稲や粟の種子も元来ここからもたらされたとされる。奄美では,ニルヤ,ネリヤ,八重山では,ニーラ,ニール,ニライスクといい,ニライカナイという語は死語となっている地域もある。また,ウフアガリジマなどという語でも,ほぼ同様の内容をさす。…

※「ニール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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