ハイレ・セラシエ(英語表記)Haile Selassie(Sellasie)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ハイレ・セラシエ
Haile Selassie(Sellasie)

[生]1892.7.23. ハラール近郊
[没]1975.8.27. アジスアベバ
エチオピア皇帝 (在位 1930~74) 。 1916年摂政および皇位継承者となり,30年 11月ザウディツ女帝の死去により即位。 31年憲法を発布。 35年イタリア軍の侵入でイギリスに亡命した。 41年解放後,帰国して復位,52年8月旧イタリア領エリトリアを併合した。 60年 12月ブラジル訪問中,一部軍人のクーデターが起ったが鎮圧。 63年5月アジスアベバにアフリカ諸国首脳会議を招集,その議長となり,アフリカ統一機構 OAUの設立に努力した。 56年 11月と 70年5月に来日。教育をはじめ,国内の近代化に努力する一方,アルジェリア=モロッコ紛争,ビアフラ紛争などアフリカの地域紛争の調停に尽力した。 74年2月に始った軍部のクーデターによって実権を奪われ,9月 12日に廃位。 75年8月幽閉の身で没した (→エチオピア革命 ) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ハイレ・セラシエ
はいれせらしえ
Haile Selassie I
(1892―1975)

エチオピア皇帝。ハイレ・セラシエは三位(さんみ)一体の意。即位前の名はラス・タファリ・マコンネンRas Tafari Makonnen。7月23日、皇帝メネリク2世の従弟マコンネン王子の息子としてハラル州に生まれる。家庭教育を受けたのち、1910年ハラル州知事となり、開明政策を実施。1916年メネリク2世の娘ザウディツ女王の摂政となり、1930年女王の死とともに皇帝に即位。憲法制定、議会・司法制度を導入し、奴隷制度廃止、教育の普及に努めるなど開明君主として名声を得た。1935年イタリアのエチオピア侵略が起こり、国際連盟の介入を訴えたが効果なく、翌1936年イギリスへ亡命。1941年帰国。国内の改革を図るとともに、対外的には汎(はん)アフリカニズム、非同盟主義を掲げ、1963年独立アフリカ諸国の元首からなるアフリカ統一機構(OAU)の設立に尽力し、その本部を首都アディス・アベバに置き、アフリカ諸国間の紛争の解決に努力した。しかし1973年の飢饉(ききん)を契機に国内の不満が高まり、1974年軍事クーデターが起こり、同年9月皇帝は廃位され、軟禁されたまま1975年8月死去した。[林 晃史]

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