ハルシャバルダナ(英語表記)Harṣa-vardhana

精選版 日本国語大辞典 「ハルシャバルダナ」の意味・読み・例文・類語

ハルシャ‐バルダナ

  1. ( Harṣa Vardhana ) インド、バルダナ朝の王。称号戒日王。南インドを除く領土の統一を実現した。唐と国交を結び、玄奘が渡印したのはこの時代に当たる。仏教の信者として多数の伽藍や施設を建造詩人としても名高い。ハルシャ王。六四七年没。

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改訂新版 世界大百科事典 「ハルシャバルダナ」の意味・わかりやすい解説

ハルシャ・バルダナ
Harṣa-vardhana
生没年:?-646か647

古代インド,プシュヤブーティPuṣyabhūti(バルダナVardhana)朝の王。在位605か606-646か647年。ハルシャと略称され,またシーラーディティヤŚīlāditya(戒日王(かいじつおう))の称号でも知られる。兄王が不慮の死を遂げたあと,父祖以来のターネーサルの王国と,義弟の死で空位になったマウカリ朝の領土とを合わせたガンガーガンジス)上流域の大国の王位についた。その後,ガンガー河畔のカニヤークブジャ(カナウジ,曲女城(きよくめじよう))を都と定め,宿敵であったベンガルのシャシャーンカ王を討つなど四周に兵を進め,北インドの大半を統一した。さらに南インドへの進出も企てたが,ナルマダー河畔でチャールキヤ朝のプラケーシン2世の軍に阻止された(634ころ)。また唐の太宗との間に使節を交換し,唐からは王玄策が派遣されている。

 ハルシャ王は勇敢な武将であると同時に文芸の愛好者でもあり,宮廷には多数の詩人,学者が集まった。その一人バーナは,王の功績をたたえる《ハルシャチャリタHarṣacarita(ハルシャ王の治績)》を著した。王自身もまた文豪として知られ,戯曲ナーガーナンダNāgānanda(竜王の喜び)》をはじめ幾編かの作品を今日に伝えている。王はシバ派のヒンドゥー教徒であったが,のちに仏教も信奉し,仏教教団に惜しみない援助を与えた。当時インドを訪れた玄奘も王の厚遇を受けている。王の治下の北インドの繁栄のようすは,《大唐西域記》に詳しい。

 ハルシャ王は本拠であるガンガー上流域を直接統治し,その他の領土は服従を誓った地方君主に支配をゆだねた。王が後継者を残さず死ぬと,王国はたちまち分裂し,北インドは再び群雄割拠の状態に戻った。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハルシャバルダナ」の意味・わかりやすい解説

ハルシャバルダナ
はるしゃばるだな
Harsa Vardhana
(590ころ―647)

古代インドのハルシャ朝の王(在位606~647)。ハルシャともよばれ、「バルダナ」は彼の父と兄の名にもつけられている。シーラーディーティヤŚīlādityaと号し、中国文献では戒日王(かいじつおう)と訳された。この王朝は、グプタ朝衰退後、西北インドのスターナビーシュバラ(今日のターネーサル)に興ったが、彼の父プラバーカラバルダナのときに勢力を拡大して、ガンジス流域に進出した。兄ラージャバルダナはさらに東進して、ベンガル王シャーシャーンカと戦って敗死した。そこで606年彼は若年にして王位につき、アッサムの王と同盟してシャーシャーンカを破って、ガンジス流域の領土を確保した。ついで西方のグジャラートを征服して、この地方のマイトラカ朝を従属せしめ、さらに西デカンにも進出を試みたが、チャールキヤ朝プラケーシン2世によって阻まれた。その後は北インドの支配に努め、40年の治世の間、領域は繁栄した。しかし、彼の死後王国はたちまち崩壊して、諸王朝が分立割拠するところとなった。

 彼は文芸の才に富み、彼の作としては『ラトナーバリー姫』『プリヤダルシカー姫』『竜王の喜び』の三つの戯曲が伝えられている。その宮廷には詩人が集められ、宮廷詩人のバーナは『ハルシャ行跡(チヤリタ)』をつくって、彼が北インドの統一支配を達成するまでの話を美麗な文章で物語っている。また中国の僧玄奘(げんじょう)は彼の治世の間にインドに旅行し、彼の領域がよく治まっているありさまを伝え、都カナウジで彼から厚遇を受けたことを記している。なお、王玄策(おうげんさく)は唐の使節として三度、彼の宮廷を訪れたが、彼の死後チベットと同盟して王国の再興を図ったといわれる。

[山崎利男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハルシャバルダナ」の意味・わかりやすい解説

ハルシャバルダナ
Harṣavardhana

[生]?
[没]647
インド古代,ガンジス川上流域のカナウジ (カンヤクブジャ) に都した王 (在位 606~647) 。シーラーディティヤ (戒日王) と号した。父はプシュヤブーティ朝のプラバーカラバルダナ王。父を継いだ兄の死で王位につき,四周に領土を広げ,グプタ朝の衰亡後乱れていた北インドを再び統一した。しかし南方ではチャールキヤ朝プラケーシン2世に敗れ,ナルマダ川以北の地を支配するにとどまった。初めヒンドゥー教のシバ派教徒であったが仏教信者となり,仏塔の建立や5年に1度の大法会を行なった。当時のインドについては,中国僧玄奘の『大唐西域記』に詳しい。王は中国 (唐の太宗) に使節を送り,中国からは王玄策が使節として来朝した。しかし彼の死後,内紛によって王国は崩壊した。文芸を保護したことでも知られ,みずからも3編のサンスクリット語戯曲『プリヤダルシカー』 Priyadarśikā,『ラトナーバリー』 Ratnāvalī,『ナーガーナンダ (竜王の喜び) 』 Nāgānandaを残した。

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百科事典マイペディア 「ハルシャバルダナ」の意味・わかりやすい解説

ハルシャ・バルダナ

ハルシャ王ともいい,戒日(かいじつ)王とも。古代インドの王,プシュヤブーティ(バルダナ)朝の創始者(在位606年―647年ころ)。グプタ朝の衰退により小国分立していたとき,エフタルを破って北インドの大部分を支配した。カニヤークブジャ(カナウジ)に都し,仏教に帰依して,グプタ文化を再興した。文芸を保護し,自らも戯曲などを執筆した。
→関連項目南アジア

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