古代インド,プシュヤブーティPuṣyabhūti(バルダナVardhana)朝の王。在位605か606-646か647年。ハルシャと略称され,またシーラーディティヤŚīlāditya(戒日王(かいじつおう))の称号でも知られる。兄王が不慮の死を遂げたあと,父祖以来のターネーサルの王国と,義弟の死で空位になったマウカリ朝の領土とを合わせたガンガー(ガンジス)上流域の大国の王位についた。その後,ガンガー河畔のカニヤークブジャ(カナウジ,曲女城(きよくめじよう))を都と定め,宿敵であったベンガルのシャシャーンカ王を討つなど四周に兵を進め,北インドの大半を統一した。さらに南インドへの進出も企てたが,ナルマダー河畔でチャールキヤ朝のプラケーシン2世の軍に阻止された(634ころ)。また唐の太宗との間に使節を交換し,唐からは王玄策が派遣されている。
ハルシャ王は勇敢な武将であると同時に文芸の愛好者でもあり,宮廷には多数の詩人,学者が集まった。その一人バーナは,王の功績をたたえる《ハルシャチャリタHarṣacarita(ハルシャ王の治績)》を著した。王自身もまた文豪として知られ,戯曲《ナーガーナンダNāgānanda(竜王の喜び)》をはじめ幾編かの作品を今日に伝えている。王はシバ派のヒンドゥー教徒であったが,のちに仏教も信奉し,仏教教団に惜しみない援助を与えた。当時インドを訪れた玄奘も王の厚遇を受けている。王の治下の北インドの繁栄のようすは,《大唐西域記》に詳しい。
ハルシャ王は本拠であるガンガー上流域を直接統治し,その他の領土は服従を誓った地方君主に支配をゆだねた。王が後継者を残さず死ぬと,王国はたちまち分裂し,北インドは再び群雄割拠の状態に戻った。
執筆者:山崎 元一
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古代インドのハルシャ朝の王(在位606~647)。ハルシャともよばれ、「バルダナ」は彼の父と兄の名にもつけられている。シーラーディーティヤŚīlādityaと号し、中国文献では戒日王(かいじつおう)と訳された。この王朝は、グプタ朝衰退後、西北インドのスターナビーシュバラ(今日のターネーサル)に興ったが、彼の父プラバーカラバルダナのときに勢力を拡大して、ガンジス流域に進出した。兄ラージャバルダナはさらに東進して、ベンガル王シャーシャーンカと戦って敗死した。そこで606年彼は若年にして王位につき、アッサムの王と同盟してシャーシャーンカを破って、ガンジス流域の領土を確保した。ついで西方のグジャラートを征服して、この地方のマイトラカ朝を従属せしめ、さらに西デカンにも進出を試みたが、チャールキヤ朝プラケーシン2世によって阻まれた。その後は北インドの支配に努め、40年の治世の間、領域は繁栄した。しかし、彼の死後王国はたちまち崩壊して、諸王朝が分立割拠するところとなった。
彼は文芸の才に富み、彼の作としては『ラトナーバリー姫』『プリヤダルシカー姫』『竜王の喜び』の三つの戯曲が伝えられている。その宮廷には詩人が集められ、宮廷詩人のバーナは『ハルシャ行跡(チヤリタ)』をつくって、彼が北インドの統一支配を達成するまでの話を美麗な文章で物語っている。また中国の僧玄奘(げんじょう)は彼の治世の間にインドに旅行し、彼の領域がよく治まっているありさまを伝え、都カナウジで彼から厚遇を受けたことを記している。なお、王玄策(おうげんさく)は唐の使節として三度、彼の宮廷を訪れたが、彼の死後チベットと同盟して王国の再興を図ったといわれる。
[山崎利男]
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