日米交渉の最終段階におけるアメリカ側の提案。1941年11月20日日本側が提出した対米交渉要領乙案にたいする回答として,11月26日にC.ハル国務長官が提示した。おもな内容は,いっさいの国家の領土と主権の不可侵,内政不干渉,通商上の機会の平等,国際紛争の平和的解決の4原則のほか,日本,アメリカ,イギリス,中国,オランダ,タイ,ソビエトの間の多辺的不可侵条約の締結,中国とインドシナからの日本の軍隊と警察力の全面撤退,重慶にある中華民国国民政府以外の政府もしくは政権の否認,日独伊三国同盟の否認などであった。東条英機内閣と軍部は,ハル・ノートを対日最後通牒とみなし,12月1日の御前会議で12月8日の太平洋戦争開戦を最終的に決定した。
→日米交渉
執筆者:木坂 順一郎
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太平洋戦争直前の日米交渉末期、アメリカ国務長官ハルC. Hullにより日本側に手交されたアメリカ側対案。1941年(昭和16)11月20日の日本の野村吉三郎(きちさぶろう)大使による打開案に対する回答として26日(日本時間27日)提示された。内容は、日本の中国および仏領インドシナからの全面撤兵、重慶(じゅうけい)を首都とする国民党政府以外のいかなる政権をも認めないことなど、きわめて非妥協的な要求をもつ対日要求であり、この文書の提出によって、日米交渉は事実上終止符を打たれた。日本側はハル・ノートをアメリカの最後通告とみなし、12月1日の御前会議では、日米交渉の挫折(ざせつ)を理由に対米英蘭(らん)開戦を決定した。
[荒井信一]
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1941年(昭和16)11月26日,日米交渉最終段階にアメリカ国務長官ハルが示した対日回答。中国本土からの全面撤退,重慶政府以外の政府の否認,三国同盟の否認など,きびしい要求を含んでいた。日本の暫定協定案(乙案)への回答であったために日本側はこれを事実上の最後通牒とみた。米側にも「乙案」に近い暫定協定案があったが,アメリカの対日参戦を期待する蒋介石の強硬な反対論と,蒋の説得に応じて反対に転じたイギリスのチャーチル首相の働きかけによって,アメリカはハル・ノートを発した。
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