1887-1945年,ラオス,カンボジア,ベトナムなどの地域に置かれたフランス領とフランス保護領からなる連邦組織の総称。日本では仏印と略称した。
第二帝政下のフランスは,宣教師殺害事件を口実に1858年ベトナムに侵攻し,62年のサイゴン条約によって南部ベトナムの東3省を奪い,67年には実質的に西3省を併合した。これらはフランス領コーチシナと呼ばれた。さらに70年代より,中国内陸部への商業ルートとしてのソンコイ川(紅河)に注目し,73年ガルニエ事件を引き起こした。82年のリビエール事件を機にフランスは積極的な北部侵略を開始した。83,84年の2次にわたるフエ条約により,北部ベトナムはフエ朝廷から分離されてフランス保護領トンキンとなり,北圻経略大臣がフランス理事長官の監視下に統治を許されるだけになった。中部は保護国アンナン王国として,ベトナム皇帝の統治が認められたが,理事長官が内閣の議長を務め,予算決定権を握った。
カンボジアに対しては,フランスはコーチシナ支配の安定のため1863年保護条約を締結していたが,84年にプノンペン王宮内に兵を進め,ノロドム王に保護強化条約を強要した。これによりプノンペンの理事長官は王の政務全般を監督することとなり,さらに87年以降は財政権をも管理した。87年10月,フランス大統領は植民省管轄のコーチシナ,カンボジア,外務省管轄のアンナン,トンキンを一括して植民省に移管し,あわせてフランス領インドシナ連邦Union de l'Indochine françaiseを形成させ,総督に統轄させることとした。
93年のフランス・シャム条約により,フランスはシャム(タイ)のラオスに対する宗主権を奪っていたが,95年のフランス・ルアンプラバン協定によってフランスのラオスに対する保護権が設定された。99年には保護国ルアンプラバン王国と直轄領南ラオスがフランス領インドシナ連邦に編入された。一方,日清戦争後の清の弱体化を利用して,フランスは1898年の清仏条約によってラオカイ(ベトナム北部)~雲南府間の滇越(てんえつ)鉄路敷設権と広州湾の99年間租借権を獲得し,1900年広州湾租借地もインドシナ連邦に編入した。さらに07年にはシャムからバッタンバン,シエムリアプ,シソポン3州を奪還してカンボジア領に編入し,ここにフランス領インドシナの領域が完成した。
フランス領インドシナ行政の大綱はラヌッサン(在任1891-94),ドゥメール(在任1897-1902)の2人の総督の間に整備され,1911年10月30日の大統領令により完成した。連邦行政の頂点は大統領の任命する総督である。総督は連邦政府の行政,立法を独裁するのみならず,各国政府の予算を裁可・決定し,さらに戦時においてはインドシナ陸・海軍の最高指揮官であり,平時では国防会議の議長であった。まさにインドシナ小皇帝ともいえる地位である。この総督の下に連邦各国理事長官とコーチシナ知事が置かれ,各省行政長官,理事官を指揮・監督した。このフランス的行政制度に併行従属する形で,各保護国では現地人の王政府,省長官,府県知事,保護領や直轄地では府県知事が置かれ,その下に旧来の村落組織が温存されて,いわば政治的二重構造を形成した。
連邦政府の財源の中心は関税と専売(とくにアヘン,塩,アルコール)収入であり,これは政府職員の人件費,連邦公債の償還費,陸・海軍の維持費,土木事業費としてほとんど本国に回送された。この点,フランス領インドシナの植民地政策は非経済的な略奪の色彩が強い。また地租はもっぱら各国政府の歳入となるが,おおむね政務・行政費に費消されて,不足がちであった。しかし帝国主義的植民地としてのフランス領インドシナ連邦の利権の最大のものは,コーチシナのメコン・デルタが産出する米である。メコン・デルタは最盛期では180万tの米を輸出し,1930年代には毎年ほぼ10億フランをベトナムにもたらし,地主,籾商人,精米業者,貿易商人に法外な利益を与えて,サイゴンにフランス人,華僑,ベトナム人の寄生社会を形成した。また第1次大戦後急速にゴムのプランテーション,北部の鉱業(とくにホンゲイの無煙炭)が発展したが,ほぼ完全にインドシナ銀行系のフランス資本に独占されていた。これら植民地産業には,温存された北部・中部ベトナムの封建的村落が安価で豊富な労働力を提供した。この点では典型的な二重経済構造といえよう。
フランス領インドシナには成立直後からバンタン(文紳)蜂起をはじめ,切れ目のない反仏運動が展開されていた。40年の日本軍の北部仏印進駐により,フランスの軍事的威信が失墜するや,インドシナ共産党は反ファシスト民族統一戦線,さらに41年5月ベトミン(ベトナム独立同盟会)を結成し,バクソンなど北部山岳地帯で対日,対仏のゲリラ・解放区闘争を展開し,45年までに強力な政治・軍事勢力に成長していった。45年3月9日,在仏印日本軍はクーデタ(三・九クーデタ)によってインドシナ総督府を解体した。3月11日,旧アンナン皇帝バオダイは1884年条約の破棄,ベトナムの独立と再統一を宣言した。3月12日にはシアヌーク王がカンボジア王国の独立を,4月8日にはルアンプラバン王シー・サワン・ウォンが全ラオスの統一,独立を宣言し,フランス領インドシナは解体した。ベトナムでは,8月の日本軍降伏に次いで,八月革命の成功によりベトミン主体のベトナム民主共和国臨時政府がハノイに,行政委員会がフエとサイゴンに生まれた。しかし9月に復帰したフランス軍が,フランス領インドシナの再建をねらってコーチシナを再占領し,カンボジア,ラオスの独立を取り消させたため,コーチシナでは南部行政委員会が,ラオスではラオ・イッサラ(自由ラオス),カンボジアではクメール・イッサラ(自由クメール)が,そして46年11月からはベトナム民主共和国臨時政府も抗戦に突入。かくして第1次インドシナ戦争が始まった。戦争は54年のジュネーブ会議によって休戦となり,フランス領インドシナは最終的に解体した。しかし旧フランス領3国(ラオス,ベトナム,カンボジア)をASEAN(アセアン)諸国と対比して,インドシナ3国とする呼称は現在もなお一般的である。
執筆者:桜井 由躬雄
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…造語はイギリスの医者で詩人のジョン・レイデンJohn Leyden(1775‐1811)と言われるが,事実とすれば,彼のペナン滞在中の作品《インドシナ諸民族Indo‐Chinese Nationsの言語と文学に関する論考》(1805)がこの語の初出であろう。狭義ではかつてフランスの支配下におかれたベトナム,カンボジア,ラオスの3国のみを指すが,これは〈フランス領インドシナ連邦〉(1887‐1945)の略である。ちなみにフランス人は独立前のミャンマーを〈イギリス領インドシナ〉と呼んでいた。…
…フランス領インドシナ連邦の総督,フランス第三共和国大統領。1887年,フランスはサイゴン条約,フエ条約等で領有権,保護権を得たトンキン,アンナン,コーチシナ,カンボジア(1899年にラオス)を一括してフランス領インドシナ連邦を建設した。…
…さらに73年のガルニエ事件に続く第2次サイゴン条約,83年のリビエール事件に続く2次にわたるフエ条約によって,北部をトンキン保護領,中部をアンナン保護国として,植民地化することに成功した。そして1887年にはカンボジア保護国を加えてフランス領インドシナ連邦が成立した。
[フランス植民地時代]
フランスの侵略に抗して,1885年ハムギ(咸宜)帝はトン・タット・トゥエット(尊室説)らと山地にこもってバンタンの蜂起を呼びかけ,北部・中部一帯に農民蜂起が広がった。…
※「フランス領インドシナ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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