デジタル大辞泉
「野村吉三郎」の意味・読み・例文・類語
のむら‐きちさぶろう〔‐キチサブラウ〕【野村吉三郎】
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
のむら‐きちさぶろう【野村吉三郎】
- 軍人、外交官。海軍大将。和歌山県出身。在外武官・鎮守府司令長官などを歴任して退役。学習院長・外相を経て昭和一五年(一九四〇)駐米大使となり、第二次世界大戦開戦まで日米交渉にあたった。戦後は参議院議員・日本ビクター社長など。明治一〇~昭和三九年(一八七七‐一九六四)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
野村吉三郎
のむらきちさぶろう
(1877―1964)
海軍軍人、外交官。和歌山県に生まれる。海軍兵学校26期。海兵教官、「千歳(ちとせ)」航海長などを歴任。オーストリア、ドイツ駐在後、1915年(大正4)から4年間在米日本大使館付武官となる。パリ講和会議、ワシントン海軍軍縮会議に全権随員として出席。その後、軍令部次長、呉(くれ)・横須賀鎮守府司令官などを経て、1932年(昭和7)上海(シャンハイ)爆弾事件で片眼を失う。1933年大将。1937年予備役となり学習院長に任命される。1939年阿部信行(あべのぶゆき)内閣外相。1940年駐米大使となり、太平洋戦争開戦まで日米交渉にあたる。このときの交渉の経過はのちに『米国に使して――日米交渉の回顧』にまとめられた。講和後、1953年(昭和28)日本ビクター社長。1954年参議院議員となり、自民党外交調査会会長などを務める。
[小田部雄次]
『尾塩尚著『駐米大使野村吉三郎の無念――日米開戦を回避できなかった男たち』(1994・日本経済新聞社)』▽『豊田穣著『悲運の大使 野村吉三郎』(講談社文庫)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
野村 吉三郎
ノムラ キチサブロウ
明治〜昭和期の海軍大将,外交官,政治家 外相;枢密顧問官;参院議員(自民党);日本ビクター社長。
- 生年
- 明治10(1877)年12月16日
- 没年
- 昭和39(1964)年5月8日
- 出生地
- 和歌山県和歌山市
- 学歴〔年〕
- 海兵(第26期)〔明治31年〕卒,海大卒
- 経歴
- 海兵教官等を経て、明治39年以降オーストラリア、ドイツに駐在。第1次大戦中は米国大使館付武官。のち軍令部次長、呉・横須賀両鎮守府長官などを歴任し、昭和7年第3艦隊長官として上海事変に参加、天長節爆弾事件で片眼となる。8年大将に進み軍事参議官。12年予備役、学習院長。14年阿部内閣の外相。15年第2次近衛内閣では駐米大使となり、16年太平洋戦争開戦直前の日米交渉に当たった。19〜21年枢密顧問官。敗戦後は日本ビクター社長に就任、29年には参院議員に当選し、吉田茂の側近を務めた。著書に「米国に使して」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
野村吉三郎 (のむらきちさぶろう)
生没年:1877-1964(明治10-昭和39)
明治・大正・昭和期の軍人,外交官,政治家。和歌山県出身。1898年海軍兵学校第26期卒業。第1次世界大戦中アメリカ大使館付武官としてフランクリン・ローズベルトらと親交を結ぶ。海軍軍令部次長,呉,横須賀両鎮守府司令長官などを歴任する。1932年第3艦隊司令長官として上海事変にあたり,爆弾で片目を失う。33年大将に昇進し,軍事参議官となったが,37年予備役に編入され学習院院長となる。39年阿部信行内閣の外相をへて40年駐米大使となり,日米交渉に尽力したが,太平洋戦争開戦に至った。42年帰国し,44-46年枢密顧問官に就任した。戦後は54年から参議院議員に2回当選(自由民主党)した。著書に《米国に使して》(1946)がある。
→日米交渉
執筆者:木坂 順一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
野村 吉三郎
ノムラ キチサブロウ
- 肩書
- 外相,枢密顧問官,参院議員(自民党),日本ビクター社長
- 生年月日
- 明治10年12月16日
- 出生地
- 和歌山県和歌山市
- 学歴
- 海兵(第26期)〔明治31年〕卒 海大卒
- 経歴
- 海兵教官等を経て、明治39年以降オーストラリア、ドイツに駐在。第1次大戦中は米国大使館付武官。のち軍令部次長、呉・横須賀両鎮守府長官などを歴任し、昭和7年第3艦隊長官として上海事変に参加、天長節爆弾事件で片眼となる。8年大将に進み軍事参議官。12年予備役、学習院長。14年阿部内閣の外相。15年第2次近衛内閣では駐米大使となり、16年太平洋戦争開戦直前の日米交渉に当たった。19〜21年枢密顧問官。敗戦後は日本ビクター社長に就任、29年には参院議員に当選し、吉田茂の側近をつとめた。著書に「米国に使して」がある。
- 没年月日
- 昭和39年5月8日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
野村吉三郎【のむらきちさぶろう】
軍人,海軍大将,外交官。和歌山県出身。1939年阿部信行内閣の外相として駐日米国大使グルーと会談,日米の国交調整に努力。1941年駐米特命全権大使として米国務長官ハルと太平洋戦争開戦前夜の日米交渉に当たった。1944年枢密顧問官。戦後は自由民主党参議院議員。
→関連項目尹奉吉|来栖三郎|真珠湾攻撃
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
野村吉三郎
のむらきちさぶろう
[生]1877.12.16. 和歌山
[没]1964.5.8. 東京
海軍大将,外交官。 1898年に海軍兵学校を卒業。 1908年オーストリア,ドイツ駐在武官。 14~18年駐米大使館付武官となった。パリ講和会議,ワシントン会議に随員として出席。 26~28年に軍令部次長,練習艦隊司令官,呉および横須賀鎮守府長官を経て,32年2月第3艦隊司令長官となったが,同年4月 29日,上海の天長節祝賀会場で朝鮮人尹奉吉の投げた爆弾で負傷,隻眼となった。 33年大将に昇進。 36年予備役に編入され,学習院院長。 39~40年外相をつとめた。 40年 11月に戦前最後の駐米大使となり,太平洋戦争開始後に帰国した。 44~46年枢密顧問官。戦後,参議院議員。著書に『米国に使して-日米交渉の回顧』 (1946) ,『華府回想』 (49) ,伝記に木場浩介編『野村吉三郎』 (49) がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
野村吉三郎
のむらきちさぶろう
1877.12.16~1964.5.8
明治後期~昭和前期の海軍軍人・外交官。和歌山県出身。海軍兵学校卒(26期)。墺・独・米に駐在,また軍令部次長・横須賀鎮守府司令長官などを歴任。1932年(昭和7)第1次上海事変に際して第3艦隊司令長官に就任,同年上海で爆弾テロにあい右眼を失う。37年予備役編入,学習院院長。阿部信行内閣では外相,40年から駐米大使となり日米交渉にあたるが,開戦を避けられなかった。戦後,参議院議員。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
野村吉三郎 のむら-きちさぶろう
1877-1964 明治-昭和時代の軍人,外交官。
明治10年12月16日生まれ。アメリカ大使館付武官,パリ講和会議・ワシントン会議の全権随員,横須賀鎮守府司令長官などを歴任。昭和8年海軍大将。14年阿部内閣の外相。15年駐米大使となり,太平洋戦争開戦まで日米交渉にあたった。29年参議院議員(当選2回,自民党)。昭和39年5月8日死去。86歳。和歌山県出身。海軍兵学校卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
野村吉三郎
のむらきちさぶろう
1877〜1964
昭和期の軍人・外交官
海軍大将。和歌山県の生まれ。第一次世界大戦中,駐在武官としてアメリカで勤務。1939年阿部信行内閣の外相として中国問題でアメリカの駐日大使グルーと会談。'40年駐米特命全権大使として日米交渉にあたったが,決裂し太平洋戦争に突入した。第二次世界大戦後,参議院議員などを歴任した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
野村 吉三郎 (のむら きちさぶろう)
生年月日:1877年12月16日
明治時代-昭和時代の海軍軍人;外交官。大将;参議院議員(自民党)
1964年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の野村吉三郎の言及
【尹奉吉】より
…上海で愛国志士[金九]の薫陶を受け傾倒する。1932年4月29日上海虹口公園で日本の天長節祝賀会が開催されたとき,参席した日本の要人群に投弾,陸軍大将白川義則,同中将植田謙吉,海軍中将野村吉三郎,駐中国公使重光葵らを死傷させた。同年12月19日処刑される。…
※「野村吉三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」