日本大百科全書(ニッポニカ) 「バウシュ」の意味・わかりやすい解説
バウシュ
ばうしゅ
Pina Bausch
(1940―2009)
舞踊家、振付家。ドイツのゾリンゲン生まれ。エッセンにあったクルト・ヨースのフォルクワング芸術学校で1955年から1959年までダンスを学ぶ。そのころ、ホセ・リモン舞踊団の公演を見たのがきっかけで、ニューヨークのジュリアード音楽学校舞踊科に留学し、A・チューダーAntony Tudor(1908―1987)、ホセ・リモンJosé Limón(1908―1972)らに師事する一方、メトロポリタン・オペラ・バレエ団やポール・テイラー舞踊団と共演した。1962年にドイツに帰国し、フォルクワング・バレエ団に入団、ソリストとして活躍するかたわら振付けも始める。ヨース引退後、1969年から同バレエ団の芸術監督を務め、1973年にウッパータール(ブッパータール)市立劇場の芸術監督に就任した。1970年代なかばに、『タウリスのイフィゲニー』(1974)、『春の祭典』(1975)、『七つの大罪』(1976)などの一連の作品を発表。ヨースが提唱したタンツ・テアターの流れを継承する振付家としてヨーロッパで一躍注目を集めた。当時、ドイツのモダン・ダンスは、1960年代に興ったアメリカのポスト・モダン・ダンスの勢いに押され気味だったが、バウシュの登場によって人々の関心はヨーロッパに向けられ、以後世界の現代舞踊の流れを大きく変えるきっかけとなった。
バウシュの作品は、社会的状況に生きる個人の人間性を表現することを主眼とした。人間の内面的、感情的な働きが身体の動きを規定してゆくと考える表現主義舞踊とは異なり、人間の内面性は社会によってつくられるものであると考え、身体の動きを通して、個人が社会的に体験したものをみいだそうとするのがバウシュのタンツ・テアターの理念であった。個人と社会の関係を重視する彼女の作品では、観客と舞台との関係も作品を構成する重要な要素となる。舞台で繰り広げられる暴力的なまでの男女の葛藤(かっとう)、不安やいらだちを助長するような状況、人を異常な心理状態に陥れるようにさまざまにしかけられる企(たくら)みはダンスの枠にとどまらない。ときにはことばを挿入し、コミカルで演劇的な状況をも取り入れながら、観客それぞれに現実的、具体的な感情を喚起させる。バウシュがそれまでのダンスの概念を大きく転換させたのは、作品が上演されている瞬間をも含めて、ダンサーと観客双方が身体的に体験する個人の歴史というものを舞踊の主題としたことにあるといえるだろう。そのほかのおもな作品には、『コンタクトホーフ』(1978)、『1980年――ピナ・バウシュの世界』(1980)、『カーネーション』(1982)、『パレルモパレルモ』(1989)、『船と共に』(1993)などがある。
[國吉和子]
『ヨッヘン・シュミット著、谷川道子訳『ピナ・バウシュ――怖がらずに踊ってごらん』(1977・フィルムアート社)』▽『『ユリイカ――ピナ・バウシュの世界』(1995・青土社)』▽『ウリ・ヴァイス著、五十嵐蕗子訳『ピナ・バウシュ――タンツテアターとともに』(1999・三元社)』▽『Norbert Servos『Pina Bausch――Wuppertal Dance Theater or The Art of Training a Goldfish. Excursions into Dance』(1984・Ballet-Bühnen-Verlag-KöIn, Deutschland)』