改訂新版 世界大百科事典 「バルーチスターン」の意味・わかりやすい解説
バルーチスターン
Balūchistān
パキスタン南西端からイラン南東端にかけて広がる高原地帯。地名は居住民バルーチ族に由来する。両国国境をまたぐ海岸部はマクラーンの名で呼ばれる。パキスタン側ではバルーチスターン州(1998年推定人口657万,州都クエッタ)を構成し,北はチャーガイ山脈およびアフガニスタンとの国境,東はほぼスライマーン山脈とキルタール山脈,南はアラビア海によって画される。イラン側では北はケルマーン州およびシースターン地方,西はバシャーゲルド山塊,南はオマーン湾を境界としている。バルーチスターンはイラン高原南東部にあたり,降水量は少なく乾燥気候に属する。パキスタン側では白亜紀から第三紀の軟かい砂岩からなる背斜性山地が高原上をほぼ西南西走し,その間の低地は砂漠と化している。イラン・パキスタン国境部の最も大きな低地ハーラーン盆地周辺の河川は,降水時のみに流水をみるワジで,砂漠中に消失するか盆地内のハムニ・マシケール湿地に流入する。乾燥農業や小河川灌漑が可能な東部山地を除くと,イラン側ではカナート,パキスタン側ではカレーズと呼ばれる地下水路灌漑をもとに,小麦,大麦,ブドウやザクロなどの果樹を栽培する。小規模な農地の外側では,ラクダ,羊,ヤギの遊牧が行われ,重要な産業となっている。住民はバルーチ族のほかに,パキスタン側の州北東部にパシュトゥーンが居住する。
チャーガイ山脈の南麓を東西に走り,クエッタ南西のボーラーン峠を経て,スライマーン,キルタール両山脈の接点にくさび状にはいりこむシビー凹地に至る交通路は,古代より重要な東西交渉路の一つであった。バルーチ族は,17世紀以来,現在パキスタン領になっているカラートに拠る地方領主によって統一されていたが,英領インドに従属化していく過程で,1872年,バルーチ族の意向を無視してイランとの国境が強引に画定され,バルーチ族は二つに引き裂かれた。イラン側のバルーチスターンに残されたバルーチ族は約20万人(1970年代の推計)いるといわれる。1979年のイラン革命後,自治権の拡大を求める運動が盛んである。
執筆者:坂本 勉+応地 利明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報