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ピブン Luang Pibul Songgram

百科事典マイペディアの解説

ピブン

タイの軍人,政治家。1932年の立憲革命の武官派指導者。1938年首相となり第2次大戦中は日本に協力。戦後一時引退したが1947年政界に復帰,1948年首相。1957年サリットクーデタで失脚,亡命。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

ピブン Pibul Songgram, Luang

1897-1964 タイの軍人,政治家。
1897年7月14日生まれ。フランス留学後,砲兵監となる。1932年立憲革命に参加。1938年首相となり,国名をシャムからタイにあらためる。第二次大戦では日本に協力し,1944年失脚。1948年ふたたび首相となったが,1957年のクーデターで日本に亡命し,昭和39年6月12日神奈川県で死去。66歳。

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世界大百科事典 第2版の解説

ピブン【Luang Phibun Songkhram】

1897‐1964
タイの軍人政治家。本名プレーク・キッタサンカ。士官学校卒業。1924年から約3ヵ年のフランス留学中,プリディらと絶対王政打倒を目的とした政治グループを結成し,32年の立憲革命への布石をおいた。立憲革命から57年まで第2次大戦後の一時期を除き実質的にタイ政界をリード,〈永遠の宰相〉の異名どおり,その間に8期15年間の長きにわたり政権を担当した。国名のシャムからタイへの変更,国歌の制定,国産品愛用運動などを内容とする12項目の〈国民信条〉を発布したのをはじめ,民族国家意識の高揚に努め,国民統合という課題に挑戦した。

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大辞林 第三版の解説

ピブン【Luang Pibul Songgram】

1897~1964) タイの軍人・政治家。1932年クーデターに成功し立憲君主制を樹立、38年首相。第二次大戦中は日本軍に協力し、戦後失脚。48年再び首相となり軍事独裁体制をしいた。57年のクーデターで日本に亡命。客死。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ピブン
ぴぶん
Pibul Songgram
(1897―1964)

タイの軍人、政治家。1924年国防省留学生として渡仏。1932年陸軍少佐として絶対王制打倒の立憲革命に参加した。1934年国防相に就任、好敵手プリディの率いる文民派と抗争。1938年第一次ピブン内閣を組閣、国名をシャムからタイと改めた。1942年(昭和17)日本と防衛同盟を締結、戦況悪化に伴い1944年失脚。1945年戦犯として逮捕されるが1946年釈放され、1947年プリディ派打倒のクーデターに成功、1948年首相に就任。反共親米路線によって地位強化を図り、1954年には東南アジア条約機構(SEATO(シアトー))発足にも尽力。1957年サリット元帥によるクーデターで失脚、1964年(昭和39)亡命先の神奈川県で客死した。[黒柳米司]

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世界大百科事典内のピブンの言及

【タイ】より

…その営みの困難さは立憲革命後の30年間に繰り返された憲法の改廃が,実に20回を超えるという事実のなかに明らかに示されている。38年までの6年間は,人民党内部における武官派勢力がしだいに増大し,その領袖に推されたピブンが権力を掌握していく過程である。首相の地位についたピブンは,伝統的な国名〈シャム〉を廃し,これを〈自由〉を意味する〈タイ〉に改めるとともに,近代国家の建設を目標に次々と国家主義的政策を打ち出した。…

※「ピブン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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