(1)フランスの劇作家ボーマルシェの戯曲。《Le mariage de Figaro》。別名《狂った一日La folle journée》。5幕散文喜劇。1780年作,84年コメディ・フランセーズで初演。フィガロ三部作の第2部で,世界的に有名な傑作として知られる。第1部《セビリャの理髪師》で下僕フィガロに助けられたアルマビバ伯爵とロジーヌが結ばれてから舞台は3年後。いまは伯爵の執事フィガロと腰元頭シュザンヌの結婚が,彼女を狙う伯爵の策謀で危うくなるが,二人の知恵と愛情はこれを打ち破り,伯爵の浮気心をこらしめ,幸福な結末を迎える。伯爵夫人に憧れる小姓シェリュバン,フィガロに横恋慕の老嬢マルスリーヌなど脇役もはつらつと描かれ,喜劇性と同時に18世紀の官能美,町民劇の要素も盛り込まれる。劇の主題が召使の結婚で,主の貴族と召使がライバル,敗れるのが主人という図式はきわめて大きな社会風刺となっているが,この作品がフランス革命の引金を引いたわけではない。フィガロは17,18世紀フランス喜劇に多い下僕像の集大成である。
執筆者:鈴木 康司(2)ボーマルシェの戯曲をダ・ポンテLorenzo da Ponte(1749-1838)がイタリア語の台本にし,モーツァルトが1785年に作曲した4幕のオペラ。《Le nozze di Figaro》(K.492)。1786年ウィーンのブルク劇場で初演。天真らんまん,はつらつとした才気あふれる音楽の中に,登場人物の個性が脇役の一人に至るまで遺憾なく描き出されており,劇的進行と言葉を含む音楽の動きが一体となって,単なる茶番劇に堕することなく,高い芸術性を保って原作をいっそう躍動的なものとしている。一方,モーツァルトはこの作品の中で,劇中の登場人物が一人またはいろいろな組合せによって次々に舞台に現れ,ドラマの進行は一点に集中して盛上りをみせ,登場人物の数とともにクライマックスの度合を増していくアンサンブル・フィナーレの形式を確立した。シンフォニックな構成で作品全体に一貫した有機的統一を与えている。《もう飛ぶまいぞこの蝶々》《恋とはどんなものかしら》など単独に愛好されている歌も多い。日本では1952年10月,長門美保歌劇団が東京で初演した。
執筆者:武石 英夫
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フランスの劇作家ボーマルシェの五幕散文喜劇(1784)。副題「狂おしき1日」。前作『セビーリャの理髪師』の後編。ロジーヌと結ばれたアルマビバ伯爵が夫人の侍女シュザンヌを誘惑しようとするのを知ると、彼女との結婚を許されている伯爵の下僕フィガロは窮地に陥る。伯爵はシュザンヌに「初夜権」を行使しようとするし、フィガロは結婚の約束をしたことのある老女マルスリーヌからその履行を迫られる。夫の浮気を断念させようと願う夫人がシュザンヌに変装し待ち合わせ場所に赴くと、伯爵は計略にまんまとひっかかり、苦労のすえ手に入れたのが奥方とわかる一方、マルスリーヌもフィガロの実母だと判明して、芝居は大団円となる。フィガロの知略のうちに貴族の特権行使に反抗する第三身分の姿をみた観客は熱狂し、この劇は連続68回上演という空前の大当りをとった。モーツァルトがこの戯曲をオペラにしたことは名高い。
[市川慎一]
オペラは、ダ・ポンテのイタリア語台本により、モーツァルトが1786年に完成、同年ウィーンで初演された。当時のウィーンでは、ヨーゼフ2世の命令により、ボーマルシェの原作を上演することは禁じられていたため、モーツァルトとダ・ポンテはこの戯曲の階級闘争的側面をあまり強調しないよう努めたが、それでも当時この歌劇に反感を抱いた人々は多く、妨害工作もあって初演の際の人気はいまひとつであった。しかし、その後プラハで行われた公演は大成功を収め、以後モーツァルトの代表的傑作として高い人気を保ち続けている。このなかには序曲をはじめ、舞台を離れて単独で演奏される名曲が多く、フィガロの歌う「もう飛ぶまいぞ、この蝶々(ちょうちょう)」や、ケルビーノの「恋とはどんなものかしら」などのアリアがとくに名高い。日本初演は1952年(昭和27)芸術祭合同公演として歌舞伎(かぶき)座で行われている。
[三宅幸夫]
『辰野隆訳『フィガロの結婚』(岩波文庫)』▽『小場瀬卓三他訳『マリヴォ/ボーマルシェ名作集』(1970・白水社)』
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… フランスではP.マリボー,A.R.ルサージュなどがモリエールの喜劇を継承し恋愛心理の細かいニュアンスを描いた〈恋愛喜劇〉をつくりだした。そこには社会風刺的な色彩も強まり,ボーマルシェの《フィガロの結婚》の批判性はフランス革命前の社会の雰囲気をよく伝えている。イギリスでは,一種の風俗劇である独特な〈風習喜劇comedy of manners〉が生まれ,W.ウィッチャリー,W.コングリーブ,R.B.シェリダンなどが出た。…
…その後現在に至るまで風刺文学は詩,散文の両方面にわたって多種多様な実りをつけたが,近代小説はセルバンテス以来,近代劇はシェークスピア以来,風刺の要素をとくに強くもっている。この2人の巨匠,すでに記したブラント,またフランス革命を招来したとさえいわれる喜劇《フィガロの結婚》の作者ボーマルシェなどの例を見てもわかるように,風刺は時代の激変期にとくに強い力を発揮するとともに,時代の激変をもたらす原動力になるともいえるだろう。 言葉を表現手段に使う文学が風刺の中で大きな部分を占めることはいうまでもないが,それ以外の手段,例えば絵画も無視できない。…
…ちなみに古典主義劇作術がヨーロッパの規範であったことの痕跡は,たとえばモーツァルトのオペラ・セーリアにうかがうことができる。それに反して,マリボーの喜劇(彼は,L.リッコボーニを団長として再びパリに定住していたイタリア喜劇団のために,そのコメディア・デラルテの〈役者体〉を使って,《偽りの告白》《二重の心変り》等の残酷なまでに洗練された恋の駆引きの遊戯を書く),A.R.ルサージュの〈風刺歌付喜劇(ボードビル)〉をはじめとする市の〈縁日芝居〉(市はサン・ジェルマンやサン・ローランの修道院領内で2ヵ月近く開かれた),そのような〈縁日芝居〉のダイナミックな喜劇性と危険な官能的遊戯を取り返した《フィガロの結婚》によって大革命前夜のパリを沸かせたボーマルシェ,古き悲劇に代わる〈市民劇(ドラム・ブルジョア)〉の理念を提唱し,また俳優という両義的存在について哲学的反省を展開したディドロ(《俳優についての逆説》が書かれた時代は,悲劇女優クレロン嬢の《回想録》を生む時代でもあった),これらが18世紀の変革の側にいる。特に市の芝居の隆盛の結果として,1759年以降,パリ北東の周縁部に当たるタンプル大通りに常設小屋が急増し,市の芝居で当たっていた〈オペラ・コミック〉をはじめとする新旧さまざまな舞台表現の場となり,特に大革命の〈人権宣言〉によって劇場開設権が万人のものと認められて以来(もちろん,まったくそのとおりにいったわけではなかったが),都市の周縁部の〈劇場街〉が,修道院の市のごとき〈宗規的時空〉からまったく自由に,かつ公式の劇場のような国庫補助も受けずに出現し隆盛を誇ったことは,フランス演劇史上の特筆すべき大事件であった。…
…K.466)が名高い。85年には父親の来訪があり,このあと取り組んだ大作オペラ・ブッファ《フィガロの結婚》(K.492)は,翌86年5月に初演されたが,イタリア人オペラ作家たちの妨害運動さえ引き起こした。ライバルとしてとりわけ宮廷作曲家サリエリの名が挙げられている。…
※「フィガロの結婚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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