フランスの作家、劇作家。時計師の息子としてパリに生まれる。若くしてルイ15世の王妃たちにハープを教え、庇護(ひご)者パリ・デュベルネParis-Duverney(1684―1770)のおかげでパリの社交界入りを果たした。
[市川慎一]
彼の名を一躍有名にしたのは、庇護者の相続人ラ・ブラーシュLa Blacheと遺産相続を争った際に、買収された判事ゲーズマンGoëzmonを弾劾する『備忘録』(1774~75)を刊行したときだった。この書は不正裁判を暴いているだけではなく、全編が格調の高い散文で書かれていたために、ボーマルシェの文名が天下にとどろくこととなった。文学上では、初期のボーマルシェはディドロの市民劇理論に共鳴し、自らもその主張に沿った戯曲『ウージェニ』(1767)や『二人の友』(1770)を発表するが、いずれも失敗に終わった。
彼が劇作家として成功を収めるのは、初め五幕物だったのを四幕散文喜劇に改作した『セビーリャの理髪師』(1775)の上演からで、以後何回かの検閲を経て上演の運びとなった、前作の続編『フィガロの結婚』(1784)により、劇作家として不動の地位を築くに至った。これらの戯曲にみられる特徴は、その才人ぶりを反映するかのように、迅速で巧みな筋の運びにあるといわれ、さらに、従来は脇役(わきやく)に甘んじていた下僕(フィガロ)や侍女がその知略により主人を圧倒する点で、彼らは特権階級の圧制に苦しんだ第三身分の主張を代弁しているとも考えられている。
1792年には、前の二作と三部作をなすはずだった戯曲『罪ある母』を発表したが、「お涙ちょうだい劇」に戻って失敗した。
以上のように、文学者としても一流の仕事を残したボーマルシェであるが、1775年アメリカ独立運動が始まると、独立軍側を援助するため、政府の密使として武器の調達などで奔走した。また、当時、法的に確立していなかった作家の著作権を認めさせ、文芸協会を設立したり、81年からは私財をなげうってボルテールの全集(ケール版)を刊行したりした。
フランス革命が勃発(ぼっぱつ)すると、バスティーユ刑務所前に豪邸を有していたことから一般の反感を買い、一時ハンブルクに亡命した。1796年に帰仏を許されるが、独立軍に供与した武器代金もアメリカ側から未払いのまま、99年にパリで他界した。
[市川慎一]
『進藤誠一訳『セヴィラの理髪師』(岩波文庫)』▽『辰野隆訳『フィガロの結婚』(岩波文庫)』▽『小場瀬卓三他訳『マリヴォー/ボーマルシェ名作集』(1977・白水社)』▽『斎藤一寛著『フランス思想劇の成立』(1950・早稲田大学出版部)』▽『辰野隆著『ボーマルシェとフランス革命』(1962・筑摩書房)』
フランスの劇作家,事業家。フィガロ三部作で有名。パリの時計商の長男として生まれ王室御用職人となるが,つてを求めて大膳職会計官となる。友人フランケの未亡人と結婚し翌年死別。彼女の領地名を取りボーマルシェと名のる。王女のハープ教師となって宮廷に入り,政商パーリ・デュベルネーの知遇を得,国王書記官となる。余技として道化芝居(パラード)を執筆。1764年姉を誘惑した文士クラビーホに復讐すると称し--実はデュベルネー依頼の商用で--スペインに旅行する。67年処女戯曲《ウージェニー》を執筆・上演。68年再婚するが2年後夫人とまたもや死別する。70年,町民劇《二人の友》上演。71年恩人デュベルネーの相続人ラ・ブラシュ伯との間に訴訟が起こり,判事ゴズマンとその夫人の強欲に悩まされ敗訴するや,彼らを告発する《覚書》で世論を動かした。しかし訴訟は両者ともに有罪となったので,公民権回復を狙い王の密偵として国王誹謗書を闇に葬るためロンドンやウィーンに赴く。75年には喜劇《セビリャの理髪師》で作者の分身快男児フィガロが出現する。アメリカ独立軍への援助,著作権擁護のための劇作家協会設立,ボルテール全集の編集などと精力的に活動するかたわら,ラ・ブラシュ伯との訴訟に勝ち,3回目の結婚,そして84年の傑作《フィガロの結婚》で空前の成功を得た。大革命期には革命政府のため小銃購入に奔走したが疑われて亡命,新政府になって帰国し,卒中で死去した。三部作最後の《罪ある母》(1792)は町民劇風の凡作である。
執筆者:鈴木 康司
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1732~99
フランスの劇作家。時計商の子。才気を利し宮廷,実業家に近づき,種々の職業により巨富を築き波瀾万丈の生涯を送る。革命期にはほとんど沈黙。代表作『フィガロの結婚』『セビリアの理髪師』。
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…著作権は1886年のベルヌ条約以来国際的にも保護されているが,日本でも現行法によって,上演権保護期間が著作者生存期間および死後50年(旧法では30年)にまで延長され,国際的保護水準に達した。世界で初めて上演権を主張し,確立させたのは《フィガロの結婚》などで知られる18世紀フランスの劇作家ボーマルシェである。それまでは劇作家と俳優(劇団)とのあいだにいざこざが絶えなかったが,1777年彼は世界に先駆けて〈劇作家協会〉を創設し,80年には上演権(上演料受領の権利)が国王ルイ16世によって正式に認可された。…
…フランスの劇作家ボーマルシェの戯曲。フィガロ三部作の第1部。…
…(1)フランスの劇作家ボーマルシェの戯曲。《Le mariage de Figaro》。…
…ちなみに古典主義劇作術がヨーロッパの規範であったことの痕跡は,たとえばモーツァルトのオペラ・セーリアにうかがうことができる。それに反して,マリボーの喜劇(彼は,L.リッコボーニを団長として再びパリに定住していたイタリア喜劇団のために,そのコメディア・デラルテの〈役者体〉を使って,《偽りの告白》《二重の心変り》等の残酷なまでに洗練された恋の駆引きの遊戯を書く),A.R.ルサージュの〈風刺歌付喜劇(ボードビル)〉をはじめとする市の〈縁日芝居〉(市はサン・ジェルマンやサン・ローランの修道院領内で2ヵ月近く開かれた),そのような〈縁日芝居〉のダイナミックな喜劇性と危険な官能的遊戯を取り返した《フィガロの結婚》によって大革命前夜のパリを沸かせたボーマルシェ,古き悲劇に代わる〈市民劇(ドラム・ブルジョア)〉の理念を提唱し,また俳優という両義的存在について哲学的反省を展開したディドロ(《俳優についての逆説》が書かれた時代は,悲劇女優クレロン嬢の《回想録》を生む時代でもあった),これらが18世紀の変革の側にいる。特に市の芝居の隆盛の結果として,1759年以降,パリ北東の周縁部に当たるタンプル大通りに常設小屋が急増し,市の芝居で当たっていた〈オペラ・コミック〉をはじめとする新旧さまざまな舞台表現の場となり,特に大革命の〈人権宣言〉によって劇場開設権が万人のものと認められて以来(もちろん,まったくそのとおりにいったわけではなかったが),都市の周縁部の〈劇場街〉が,修道院の市のごとき〈宗規的時空〉からまったく自由に,かつ公式の劇場のような国庫補助も受けずに出現し隆盛を誇ったことは,フランス演劇史上の特筆すべき大事件であった。…
※「ボーマルシェ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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