フェイト(読み)ふぇいと(英語表記)François Fejtö

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フェイト」の意味・わかりやすい解説

フェイト
ふぇいと
François Fejtö
(1909―2008)

ハンガリー生まれのジャーナリスト歴史家。フランス国籍。1930年代に逮捕投獄を体験。ハンガリーが反コミンテルン枢軸陣営に参加したのちフランスに亡命抵抗運動に加わった。第二次世界大戦後、AFP通信社に入り、東欧問題の専門家として活躍。『人民民主主義の歴史』(1952。邦訳『スターリン時代の東欧』『スターリン以後の東欧』)、『民族社会主義革命』(1956)などの著書がある。

[鈴木ケイ・伊藤高史]

『熊田亨訳『スターリン時代の東欧』(1979・岩波書店)』『熊田亨訳『スターリン以後の東欧』(1990・岩波書店)』

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朝日日本歴史人物事典 「フェイト」の解説

フェイト

没年:1782.5.14(1782.5.14)
生年:1745
江戸中期の出島オランダ商館長。マラバル(インド西海岸)のコイラン生まれ。1762年東インドに渡り,明和2(1765)年来日。商務員補から昇進して同8年商館長となり,5期(1771~72,73~74,75~76,78~79,80~81)務める間に江戸参府を6回行って,多くの日本人と接触した。ツンベリーを伴った安永5(1776)年の参府時は中川淳庵,桂川甫周らに海外情報や西欧の諸知識を提供,甫周の弟森島中良(桂川甫〓)の『紅毛雑話』に「ヘイト」の逸話が紹介されている。島津重豪,平沢旭山,林子平らは出島に彼を訪れた。子平はその著書中にしばしば「ヘイト」の名を挙げ,世界地理知識や無人島,蝦夷対策,ロシア南下説に影響を受けたことを記している。1782年本国への帰途バタビアマラッカの間で死去,バタビアに葬られた。<参考文献>森島中良『紅毛雑話』,林子平『三国通覧図説』『海国兵談』

(鳥井裕美子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フェイト」の意味・わかりやすい解説

フェイト
Fyt, Jan

[生]1611.3.15. 〈洗礼〉アントウェルペン
[没]1661.9.11. アントウェルペン
フランドルの画家。狩猟や動物を主題とする作品において,師 F.スネイデルスの伝統を受継ぎ発展させた。フランスやイタリアをも訪れたのち,1643年にはアントウェルペンに工房を開く。装飾的ともいえる華麗な画風で,死んだ獣や果実を配した静物画を描いた。主要作品『死せるしぎと鴨』 (1660) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「フェイト」の解説

フェイト Feith, Arend Willem

1745-1782 オランダ商館長。
マラバル(インド西海岸)のコイラン生まれ。明和2年(1765)長崎出島の商館員として来日。8年から5期10年間,商館長をつとめた。この間江戸参府は6回。中川淳庵,桂川甫周,林子平,鹿児島藩主島津重豪(しげひで)らと交際があった。1782年5月14日帰37歳。

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