日本大百科全書(ニッポニカ) 「フラー」の意味・わかりやすい解説
フラー(Samuel Fuller)
ふらー
Samuel Fuller
(1911―1997)
アメリカの映画監督、作家。マサチューセッツ州ウースター生まれ。一家でニューヨークへ移住後、12歳で『ニューヨーク・ジャーナル』New York Journal紙のコピーボーイ(記者から原稿を集めるなどの仕事)となり、17歳から事件記者として大都会での殺人事件などを記事にする。1930年代初頭には、大恐慌下のアメリカ各地をヒッチハイクで回り、ゼネストなどで国家分裂の危機に揺れる母国の惨状のレポートを、新聞に寄稿した。30代なかばから小説の執筆を開始、『燃えろ、ベイビー燃えろ』Burn Baby Burn(1935)を皮切りに、何冊かの小説を刊行する一方で、1936年から映画の脚本執筆や匿名による原案の提供を始める。
第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると歩兵を志願、第一師団の小銃兵として、北アフリカ、シチリア、ベルギー、ドイツ、チェコなどを転戦、ノルマンディー上陸作戦にも加わる。持ち前のジャーナリスト魂から戦場でつぶさに見聞きした体験は、直接的には『最前線物語』(1980)として映画化されるが、それ以外の彼の多くの映画でも、記者時代の体験とともにその残響を聞き取ることができる。
復員後ハリウッドへ戻り、『地獄への挑戦』(1948)で監督デビュー。製作費10万ドル、撮影日数10日間といった弱小プロダクションによる作品であったが、たびたび西部劇映画の英雄として登場してきたアウトロー、ジェシー・ジェームズの物語ではなく、その英雄を背中から撃ち殺し、卑怯者の烙印(らくいん)とともに多額の懸賞金を受け取った男のその後の人生を描き、ひねりの効いた 「大人の西部劇」と批評家から賛辞を受け、興行的にも成功した。監督としての手腕を認められたフラーは、朝鮮戦争を舞台とする2本の戦争映画『鬼軍曹ザック』(1950)、『折れた銃剣』(1951)などを経て、自身のルーツである、新聞社が密集するニューヨークの通りの名をタイトルとした『パーク・ロウ』(1952)で、勃興(ぼっこう)期にあったアメリカのジャーナリズムの世界を独創的なカメラの長回しなども交えて躍動感あふれるタッチで描ききった。さらにニューヨーク警察とコミュニストの諜報(ちょうほう)員間の死闘を扱う『拾った女』(1953)では、“赤狩り”が激化した時代背景下で映画会社の重役の発案で撮られた映画でありながら、ニューヨークの街頭をとらえるドキュメンタリー的な映像や奔放なカメラワークなどで「独自性」をアピールし、ベネチア国際映画祭で銅獅子賞に輝く。その後も、日本でロケされた『東京暗黒街・竹の家』(1955)、ベトナム戦争映画の先駆けとなった『チャイナ・ゲート』(1957)など、やや特異な設定の犯罪映画、戦争映画、西部劇を独自のスタイルで撮り続けた。その集大成として、1960年代前半のモノクロによる犯罪映画の三部作『殺人地帯U・S・A』(1960)、『ショック集団』(1963)、『裸のキッス』(1964)を発表する。とりわけ、ピュリッツアー賞を狙う野心的なジャーナリストが、その実体を暴くべく病人を装って精神科病院へ侵入するものの、病院内で実際に理性を失い、精神異常となる過程を幻影シーンなども交えてサスペンスフルに描く『ショック集団』は、ふたたびフラーのジャーナリズム観が色濃く反映されたもので、彼の演出力や創造力がもっとも自由奔放に展開された作品でもある。『裸のキッス』以降、映画作りの機会に恵まれずに歳月が流れ、ようやく16年ぶりにハリウッド資本で撮った作品が、自身の第二次世界大戦での体験に基づく戦争映画『最前線物語』であった。
同世代の監督たちと比較して寡作で、しかもほぼすべてが低予算B級映画ながら、アメリカ映画界では例外的に「作家」(監督兼脚本家)としての地位をシステム内で貫き通したフラーへの評価は、むしろヨーロッパにおいて早くから高まり、パリをおもな活動拠点に移した晩年には、彼を慕う若手の監督たちの作品に役者として出演する機会が増えた。ボードレールの『悪の華』の映画化をもくろんでパリに滞在するアメリカ人映画監督の役を演じ(当時、フラー自身も『悪の華』の映画化を考えていた)、「映画とは戦場のようなものだ。それは愛、憎しみ、アクション、暴力、死、一言で言ってエモーションだ」との名台詞(めいぜりふ)を残したジャン・リュック・ゴダール作品『気狂いピエロ』(1965)に始まり、西部劇を演出中の映画監督役を演じたデニス・ホッパー作品『ラスト・ムービー』(1971)、ビム・ベンダース監督による一連の作品『アメリカの友人』(1977)、『ハメット』(1982)、『ことの次第』(1984)などが、そうした作品の代表例である。
[北小路隆志]
資料 監督作品一覧
地獄への挑戦 I Shot Jesse James(1949)
アリゾナのバロン The Baron of Arizona(1950)
鬼軍曹ザック The Steel Helmet(1950)
折れた銃剣 Fixed Bayonets!(1951)
パーク・ロウ Park Row(1952)
拾った女 Pickup on South Street(1953)
地獄と高潮 Hell and High Water(1954)
東京暗黒街 竹の家 House of Bamboo(1955)
チャイナ・ゲート China Gate(1957)
赤い矢 Run of the Arrow(1957)
四十挺の拳銃 Forty Guns(1957)
戦火の傷跡 Verboten!(1959)
クリムゾン・キモノ The Crimson Kimono(1959)
殺人地帯U・S・A Underworld U.S.A.(1961)
陽動作戦 Merrill's Marauders(1961)
ショック集団 Shock Corridor(1963)
裸のキッス The Naked Kiss(1964)
ザ・シャーク Shark!(1969)
最前線物語 The Big Red One(1980)
ホワイト・ドッグ White Dog(1982)
ストリート・オブ・ノー・リターン Street of No Return(1989)
デンジャーヒート 地獄の最前線 Tinikling ou 'La madonne et le dragon'(1989)
『吉村和明・北村陽子訳『映画は戦場だ!』(1990・筑摩書房)』▽『吉村和明・北村陽子訳『脳髄震撼』(1997・筑摩書房)』▽『山崎陽一・土肥悦子・安井豊編『サミュエル・フラー』(1990・ユーロスペース)』
フラー(Curtis Fuller)
ふらー
Curtis Fuller
(1934―2021)
アメリカのジャズ・トロンボーン奏者。デトロイトで生まれる。初めバリトン・サックスを吹いていたが後にトロンボーンに転向。1955年軍役につき、アーミー・バンドでアルト・サックス奏者キャノンボール・アダレイ、ピアノ奏者ジュニア・マンスJunior Mance(1928―2021)らと共演。同年除隊後、地元デトロイトでギター奏者ケニー・バレルKenny Burrell(1931― )、テナー・サックス奏者ユーゼフ・ラティーフYusef Lateef(1920―2013)らと共演する。1956年、マサチューセッツ州ケンブリッジのマイナー・レーベル、トランジションに初リーダー作『カーティス・フラー・ウィズ・ペッパー・アダムズ』を録音する。レーベルの知名度の低さもあってあまり注目されなかったが、翌1957年ニューヨークに進出するや、たちまちジャズ関係者の目にとまるところとなる。まず、プレスティッジに同レーベル初吹き込み『カーティス・フラー・クインテット』(1957)を含む2枚のリーダー作を、続いてブルーノートに、同レーベルにおける初吹き込み『オープナー』(1957)を含む3枚、計5枚ものリーダー作を出しており、いかに彼が新人トロンボーン奏者として注目されていたかがわかる。またブルーノートでは、テナー・サックス奏者ジョン・コルトレーンの『ブルー・トレーン』(1957)、ピアノ奏者バド・パウエルの『バド』(1957)といったアルバムにサイドマンとして参加し、きわめて短期間にジャズ・シーンの大物たちと共演する。1958年、代表作『ブルースエット』をサボイ・レーベルに吹き込み、その温かみのあるトロンボーン・サウンドは多くのファンを魅了した。1959年トランペット奏者アート・ファーマーArt Farmer(1928―1999)、テナー・サックス奏者ベニー・ゴルソンBenny Golson(1929― )のグループ「ジャズテット」の創立メンバーとなり、1960年アルバム『ミート・ザ・ジャズテット』に参加。翌1961年から1964年にかけては、3管編成に拡大された、ドラム奏者アート・ブレーキーのジャズ・メッセンジャーズのトロンボーン奏者として多くのアルバムに参加する。
1960年代なかばから末にかけては目だった演奏活動がないが、1970年代に入りふたたびフリーランスのトロンボーン奏者としてさまざまなセッションに参加。1970年代後半および1980年代の前半はカウント・ベイシー楽団に、1979年にはライオネル・ハンプトン楽団に加わってツアーを行う。そのほかの代表作にブルーノート吹き込みの3作目『カーティス・フラーVol. 3』(1957)、1961年にエピック・レーベルに吹き込んだ『サウス・アメリカン・クッキン』がある。彼の演奏は、モダン・トロンボーン奏法を確立させたJ・J・ジョンソンJ. J. Johnson(1924―2001)のきわめて高度な技法には及ばないが、朴訥(ぼくとつ)ともいえる味わいとまろやかで温かみのある音色で、トロンボーンという楽器の特色を生かした魅力を生み出した。
[後藤雅洋]
フラー(Richard Buckminster Fuller)
ふらー
Richard Buckminster Fuller
(1895―1983)
アメリカの建築構造デザイナー。マサチューセッツ州ミルトンに生まれる。ハーバード大学中退、海軍兵学校に学び、第一次世界大戦に従軍、船舶・航空機に興味をもつ。同様な角度から工業生産を予測したメカニックな住宅を設計、1929年からそれらの仕事に「ダイマキシオンDymaxion」(ダイナミックであり、maximum efficiency――最大限の能率をもつ)なる造語をつけた。第二次大戦後は、合金、合板、プラスチックなど規格化された三角形の部材でドームを形づくり、その下に可能な限り大きな空間を得る「ジオデシック・ドームGeodesic dome」の各種技法を展開、その名を世界的なものにした。これは住居から工場、展示場のほか、レジャー施設などに広く利用され、モントリオール万国博のアメリカ館(1967)にその頂点が示されている。彼はさらにこのドームを拡大して都市そのものを覆うような構想を発表するなど、現代工業社会に立脚し、そこから飛躍して将来の超建築の一つの姿を示して、その独創的発想で若い建築家に大きな影響を与えた。ロサンゼルスに没。
[近江 栄]
フラー(Sarah Margaret Fuller (Ossoli))
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Sarah Margaret Fuller (Ossoli)
(1810―1850)
アメリカの女流評論家。教養ある父から広い分野にわたる教育を幼児のころから受け、早くから数か国語に通じ、文芸評論に深い洞察を示した。ゲーテの翻訳を出したり、エマソンとともに、1840年、超絶主義者の一人として、『ダイアル』誌創刊に尽力し、編集に参加した。同誌に文芸批評や社会問題についての鋭い論文を発表。1846年は彼女の生涯の転機となった。かねてあこがれていたヨーロッパへ赴き、当時の文人たちと交わる機会を得たばかりでなく、10歳年下のイタリア人、オッソーリ侯と同棲(どうせい)するようになり、のち結婚した。家族とともにニューヨークへの帰途、船が難破し、不慮の死を遂げた。一生を通じて女性問題に関心をもち、『19世紀の女性』(1845)を出版した。
[秋山 健]
フラー(Roy Broadbent Fuller)
ふらー
Roy Broadbent Fuller
(1912―1991)
イギリスの詩人、小説家。1968年~73年度のオックスフォード大学詩学教授をつとめた。21歳で事務弁護士となり、かたわら詩作活動を続けた。初めはオーデンの影響のもとに社会的動物としての人間省察の詩を書いたが、しだいに個人の内面や心理を掘り下げる知的な詩風を示すようになった。その傾向は宗教の必要性を説き、老いを主題とする晩年の詩においていっそう強まった。50年代以降小説にも手を染めた。作品に『全詩集』(1962)、小説『破滅した少年たち』(1959)など。
[富士川義之]
フラー(John Frederick Charles Fuller)
ふらー
John Frederick Charles Fuller
(1878―1966)
イギリスの軍人、軍事理論家。陸軍士官学校を卒業後、ブーア戦争に従軍、さらに陸軍大学校を経て、第一次世界大戦では戦車部隊に入った。そこで近代戦における戦車の重要性を痛感し、戦車・飛行機などを中心とした新しい軍隊編成を提唱するようになった。陸軍少将を最後に1933年退役、以後も旺盛(おうせい)な著作活動に専念した。代表的著作に『将来の戦争について』On Future Warfare(1928)などがある。
[木畑洋一]
フラー(Loie Fuller)
ふらー
Loie Fuller
(1862―1928)
アメリカ生まれの舞踊家。おもにパリで活躍した。イリノイ州に生まれる。衣装の長いスカートにくふうを凝らして身体の外形に変化を与え、さらに光線の効果を研究して舞台の下から照明が当たる装置を考え出し、「蛇の踊り」や「蝶(ちょう)の踊り」といわれる踊りで大成功を収めた。この照明はその後のレビューに使われるようになった。1892年からパリのフォリ・ベルジェールと契約し、ミュージック・ホール時代の舞姫として、ロンドンのカティ・ランナーとしばしば比較された。1900年のパリ万国博覧会では自身の劇場をもち、川上貞奴(さだやっこ)に提供、川上一座の2回目のヨーロッパ公演のマネージャーでもあった。
[市川 雅]